天使
ここは一体どこだろうか。
至極真っ当な疑問が、目を覚まし辺りを見渡した自分の頭に浮かんだ。
真正面には、光を眩しく反射している真っ白な教会らしき趣きの建物がある。チャペルほどの慎ましい高さだが、新築のような美しさだ。
その後方には同じく白色の、三階建てのゴシック調の建造物があり、その中を幾人かの人影が見え隠れしている。
端が見えないほど横長のそれを見て、建てる時の工事費用すごかっただろうなぁと、些かのんびりとした感想を抱きつつ後ろを振り向けば、またおかしな事に均一に敷かれたタイルの上に扉だけがある。
それも、取手のついていない巨大な両扉だ。全体的に細かい彫刻が入ったそれは石材のようで、非常に重量感がある。
更にその後ろにも目をやったが、白く靄がかっていて何も見えない。
「ていうか、この扉、倒れてきたらどうするんだろう」
こんなものが倒れてこようものなら、下敷きになったら中身が飛び出るどころか一瞬で液体にされるだろう。
扉ならちゃんと部屋の入口に固定して欲しいよなあ、と短い溜め息をついたのち、扉の正面を避けるように横へと回り込む。
分厚さは3歳児の身長ほどあるが高さに全く釣り合ってないので、倒れてきそうな範囲内には入りたくなかった。
ふと、裏はどうなってるんだろうと、思い付きのままにおそるおそる覗き込んでみる。
だが裏から見たら扉が見えなくなっている、なんてファンタジーな事はなく、表と同じような彫刻がされているだけで、なんとなく残念な気分になった。
そこへ真横から突風が吹き付けて、扉に顔をぶつけそうになる。
反射的に扉に手をつき支え、「危ないなぁ」と一人ごちていると、その強風で辺りの靄が全て吹き飛ばされたらしく、先程より周辺が明るくなる。
そういやさっきは白もやで何も見えなかったなと、未だに緩く気持ち良い風が吹いてくるその方へ、何気なく目をやった。
────驚きのあまり言葉を失った。
視界に飛び込んできたのは、幾つもの島。
今居る場所が高地らしく、それらは全て見下ろせる位置にある。山があり川があり町があり、そして一番遠くの島にはまるで天を衝くような果てしなく高い塔があった。見下ろしてるのに見上げねばならないとは、これ如何に。
これらの島が、海の上にあるならわかる。あの塔は一旦置いといての話だが、それ以外は字面だけ見ればなんらおかしい所はない。
驚いたのは───目の前の島々が、雲の上に悠然と浮かんでいることだ。
わけがわからないよ、と言いたくなった。いや、言った。
そして、待てよそもそも……と。
目覚めた瞬間から棒立ちだったのも、おかしくないか?と考える。
何故か自然に受け入れてしまっていたが、普通人は横になって寝るものだ。元から立って寝ていたとは考えにくい。
「余りにも自然すぎて今流行りのVRかな?なんてうっすら思ったような気もするけど、自分そんなもの持ってないし」
そこでふと思考が移り変わる。自分は、自らの事をなんと呼んでいただろうか?
自分と呼んでいたか?いや違う、しっくり来ない。俺?僕?私?儂?まさかとは思うが自分の名前呼びとかだったろうか?だとしたら名前がわからないから詰んでいる。
いよいよおかしい、部分的な記憶喪失か何かか。
いや、そもそも自分がこんな不可解な場所にいる時点でおかしい。ここは誰で私はどこだ。───いやいや、遊んでる場合じゃない。
思い出せないのだ、自分に関する事が、一切。
一人称に始まり、名前、家族、住んでた場所、好きなものや嫌いなもの、自分の顔すら。
そこでふと、一つの可能性を思い浮かべた。
「……これ、あれかな。転生とかいう、やつ?」
多分それだ、と一人呟いた。だがその割には、神様に会ったりチートな能力を貰ったりとかいう『お約束』がない。
いやしかし、一切チートなしで転生させられる話とかも中にはあったし、もしやその類いなのだろうか。でも前世の記憶とかは残してくれるもんなんじゃなかったっけ。
グルグルとその場で考えを巡らせるが、神様が現れる様子もなければ前世を思い出せる様子もなく、わかった事と言えば、自らのことは覚えてないのにお約束を覚えてるなら、余程読み漁っていたんだろうという事だけ。
実に使えない情報である。
考えるのをやめよう、とフルフルと頭を振って、しかしそこで視界に白いものがチラついた。が、それよりも先に、自分の着ている服が目についた。と言うか、見た瞬間唖然とした。
どこの乙女ゲームの王子様かと言わんばかりの純白のスーツなのだ。しかも中のシャツは黒色、ネクタイは白色。靴はまっ白でピカピカの革靴。
ホストか!と叫びそうになった。
もしや、前世はホストなのか?これは死んだ時の死装束だったのか?
落ち着きなく可能性を並べ立てて煩悶していたが、ふといつからか、緩く背中をパタパタと叩かれているのに気が付いた。
そういやさっき視界に白いものが映ったようなと、一旦考えるのをやめて首を捻って見ようとしたが、どう頑張っても一部分しか見れず体ごとグルグル回ってしまう。
どうやらその白いものは背中に貼り付いているらしく、首を回しただけでは見れそうもなかった。
触るのはちょっと怖いが、もしかしたらこの状況を打破してくれる類いの物かもしれない。
藁にもすがる思いでゆっくりと背中に手をやり、その白いのを掴んだと同時に、引き剥がそうと思いっきり引っ張った。
「っっっい゛っっっったぁ!!」
瞬間、感じたこともないほどの激痛が背中に走る。
いや、背中と言うと少し語弊があった。思わず手を離した後にズキズキと痛みを訴えるのは肩甲骨付近と、そこから後ろに伸びた、今まで感知した事のない部位である。
まるで背骨の横から生えた腕を脱臼したような、あり得ない感触と痛みに、背中へ意識を集中させた。
無論腕などは生えていないしそのような感覚としか言い表せないが、腕ではないにせよ今の自分の背には何かが生えてるようだった。恐ろしいことこの上ないだろう。
力んだらポロッと落ちてくれたりしないだろうか……僅かに期待を込めて、背筋に力を入れて抜いてを繰り返す。
五回ほど繰り返した時だったろうか、背中から生えた何かが突然大きく脈打ち、視界の端にチラチラ見えるだけだったそれが、どんどん質量を増していく。
えっ?えっ?と慌てふためくのも束の間、露になったそれに、再び言葉を失った。
「は…?これ、なん………え………?」
しっかりと眼に映るまでの大きさになったそれは、翼であった。黄色がかった白色の羽、光の当たり具合では薄い金色にも見える。
無意識に手を伸ばし、ふわふわの羽を無造作に掴むと、ちょっと痛かった。今度はゆっくり引っ張ってみる、これのつけ根なのであろう肩甲骨付近が引っ張られた。引っ張られる範囲が結構広い。
これは自分の意思で動くんだろうか、試しに神経を尖らせて集中してみる。ぎこちなかったが、普通に動いた。慣れてきたら空も飛べそうである。
────なるほど、自分は人間を辞めて天使になったんだな。30か40まで童貞だったら魔法使いだったり妖精だったり天使だったり、になるらしいと聞いたから、前世の自分は童貞だったんだな。きっとそうなんだろう、だからこんな羽が生えたんだろう。
「って、そんなわけないよね。なにこれ、なに?自分は一体何になったの?」
「そらぁ、そんな立派な羽生えたんやさかい、てんしになったんとちゃうか」
「っ?!」
背後から届いた声に、慌てて振り向く。ついでに翼を隠そうとしたのだが、ふわモコの翼は今や自分の背丈ほどある。
腕だけではどう足掻いても隠せなかった。寧ろ翼のほうが全身を隠そうと包みにきて、視界が塞がれてしまう。
違うんだ、隠したいのはお前なんだ、羽!と内心焦りまくっていると、目の前の男が二の句を次ぐ。
「そない警戒せんでも……まあ今来たばっかりみたいやし、しゃあないか。自分、名前は?ああ、おれはヒトセっちゅうねん。自分の配属される班とよう一緒に仕事するさかい、覚えといてなあ。よろしゅう」
「へ?あ、はい、宜し……って、班?配属?」
「おん。あ、もしかしててんしになる前に聞いてへん?上の人らはいっつも適当やさかいなあ。ほなま、案内しながら話すわ。ついてきてや~」
「は?あ、ちょっ、待っ………」
流れるようにつらつらと情報を与えられて混乱の極みに落とされ、悩む暇も質問する暇もないまま声の主はスタスタと教会の方へ歩き出してしまった。
何もかも訳がわからないが、向こうが自分の事情を知っている風だったのが気になり慌てて後を追う。
尚、自らの羽に邪魔されて相手の姿は一向に見えない。
なんだこの翼、さっきまで自分の意思で動かせた癖に。すっごく邪魔だ。
しかも大きすぎて下は地面に引き摺るし、何度も危うく踏みそうになる。踏んだら絶対に痛いだろう、これ。
どうにか元のチラッと見える程度の大きさに戻せないものかと悪戦苦闘していると、足音が近付いてきて「ちょい触るでー」との緩い声と共に翼のつけ根をグッと押された。
思わず「う゛いっ?!」と妙な声が出てしまったが、それを切っ掛けに、まるで空気が抜けていくように翼はシュルシュルと縮んでいき、再びまともな視界が確保される。
便利なのか不便なのか…いや、今の所は痛かったり邪魔だったりと役に立っていないし、不便だ。
というか押したら縮むって、この翼の構造はどうなってるんだ。オモチャじゃあるまいし。
納得のいかない思いを抱えつつ、ヒトセと名乗った男へ向き直り───あまりにも奇抜な姿に、思わず一歩後ずさった。
「羽のつけ根を誰かに押して貰うか、思いっきり力むかしたら伸び縮みするから、覚えとき。ちゅうか今回の担当はそんな事も教えてへんのか、てんしの基本やっちゅうに」
「……………」
「ん、どした?お、自分えらい別嬪やなあ。こら準てんしの選考基準も通るわ」
「…………ど、」
「うん?」
「毒蜘蛛……?」
「失礼やな!」
あまりの衝撃につい口をついて出てしまった。
「よう言われるけども!初対面に言われたんは初めてやわ!」と複雑そうな顔でそう付け足した男は…なんと言うか…全体的に目に痛かった。
先ず、頭。髪の根本が黒から緑のグラデーションになっていて、更に等間隔に入っているメッシュがまた根本が赤で毛先にかけて白になっていってる。
毒蜘蛛か毒蛙かと言った色だ。目がチカチカする。
そして着ているスーツがまた……ショッキングピンクの生地に黒のストライプで……黒いシャツに濃いピンクのネクタイ……ファッションセンスが大事故を起こしてる。
しかも、細かいことに爪までピンクと黒のストライプ模様になっていた。靴は緑だ。
何を目指したらこんな全体像になるんだろうか。
自分のホスト風スーツなんて全然マシだった。
「生前は、芸人さんか何かで?」
「せやねん、それも10年くらいは鳴かず飛ばずでな~ってあほう!ちゃうわ!おれは根っからのてんしや!転生組と違て、生まれた時からこの姿の正てんしやわ!」
「え…生まれた時からその姿…?あの、差し出がましいことですけど、髪はどうしようもないとしても服のデザインくらい変えても良いと思います。あ、も、もしや、そんな服を着るのがここの決まりなんですか?嫌です!絶対に嫌です!恥ずかしい!」
「服装はスーツやったら何でもええから大丈夫、って言うか、君見かけによらずズケズケ言うなぁ!?趣味真っ向から否定されておれ今めっちゃブロークンハートなんやけど!はぁ~もう、傷付くわぁ」
「えっ趣味?え……趣味…?」
「二回も聞き返さんとって!そんでそんな引いた目で見んとって!悲しいから!!」
趣味となるとそれはそれで本当にファッションセンスが壊滅的なんだが…いや、もう多くは語るまい。
「とにかく!」と、ヒトセと名乗った毒蜘蛛…じゃない、セイ天使とやららしい男に手首を掴まれて、やや強引に教会へと引っ張られていく。
「おれの服はええねん!それより君の事や。まだ名前も聞いてへんし、どこまで上の人から聞いてるんか、とかもおれ知らんし。取り敢えずてんしとして基本的な事とここの事説明するさかい、そのあとに自己紹介その他諸々頼むで」
「はあ…えっと、お願い…します…?」
ズルズルと半ば引き摺られるように歩きながら、あやふやな返答を返した。
未だに何が何だか分からないが、この状況を説明して貰えるなら有り難いことこの上ない。何を隠そう、自分はヒトセとやらが言う上の人に会った覚えも、転生した実感もないのだ。
せめて自分の名前を思い出す切っ掛けくらいは欲しいなあと重く溜め息をつきながら、前を歩く男に続いて光の眩しい教会の中へと滑り込んだ。