3年目のチョコレート
2月14日。
言わずもがな大規模イベント、バレンタイン。
もともとバレンタインとは、紀元3世紀、若者の結婚を禁じられていたローマにてキリスト教徒のバレンタインが…って今はこんなことはどうでもいい。
いや、どうでもいいとは全キリスト教徒に対して頭が上がらないため訂正しよう。
とにもかくにも、今日は特別な日なのだ。男の俺が言うのもおかしな話だが。
今、俺の目の前で、光が料理本を見ながら溶かしたチョコレートと生クリームを真剣な顔でカシャカシャ混ぜている。
「ちょっとクリーム入れすぎたかな。」
「いいよ、甘いの俺好きだし。」
「あまり入れすぎると固まりにくいのよね、大丈夫かな。」
料理が苦手なところは付き合ったころから変わらない。その変貌のなさに思わずクスッと笑ってしまう。
俺こと望月翔と光が付き合い始めたのは今から8年前だ。新卒入社で建設コンサルタントの地質部、つまり建設前に地盤構造の確認や耐震調査等を行う仕事、に配属された。面接の際は河川部を希望していたが、あっけなく却下された。その年の新入社員歓迎会は俺を含め他部所合わせて10人が真ん中に席を取り、それぞれ今後の抱負を語った。その際隣に座っていたのが光だった。
たしかあのとき光は
「この度総務部事務職に配属になりました合田光です。これからたくさん勉強して、皆様をサポートできる存在になれればいいなと考えております。ご迷惑をおかけすることも多々あるかと思われますが、これからどうぞよろしくお願いいたします。」
と自己紹介した。
堂々とした物言いに、皆から拍手喝采を浴びた光はスッと座ると恥ずかしげにはにかんだ。小顔でくりっとした目、肩まで伸ばしたセミロング、それらを何とはなしに眺めていた。
光、と書いてひかり、なんだね。
勝手に声が出たことに俺自身ひどく動揺した。彼女がばっとこちらを振り向き、さらにどぎまぎする。
「そうなんです。私が産まれるときに男女どちらでも成り立つように、って祖父がつけてくれたんです。書類提出のときはふりがなを振らないとたいてい間違えられちゃうんですけど。」
臆することなく微笑みながら話してくれたことを利用し、俺はさらに調子に乗った。
「俺の周りでもいるよ。あきら、まこと、あさひ、かおる、とか。この前なんか友人から飲み会にきよみも来たいって言うんだけどいいかな?って聞いてくるんだよ。俺その子知らないんだけどさ。友人の彼女かな?って思って承諾したんだよ。30分後に来た相手見て驚愕したね、そいつ男なんだよ。清己って書いてきよみ。なんも疑ってなかったからさ、先に言えって話だよね。」
その話に光は笑ってくれた。なぜか分からないけど、それがものすごく嬉しくて、もっと笑って欲しくて他の新入社員には目もくれず話し続けた。きっと、俺はその日からずっと恋をしているのだと思う。
告白をしたのはそれから3ヶ月経った後だった。所属が違うということがネックになり、なかなか話すことも難しくなっていた。出張令が出たとき以外はなるべく早めに家を出て彼女と挨拶を交わし、2回目のデートで告白をすると慮外にもすぐに承諾をもらった。
数ヶ月後にそのときの心境を聞いてみると、
私も初めて会ったときから気になっていたの
とはにかみながら白状した。それがあまりに愛おしくて肩を支えながら押し倒した。光の身体は細身な分強く抱くと壊れてしまいそうで、慎重に扱った。羞恥で火照った全身に興奮したのを特に覚えている。
それから同棲を始めたのは3年経ったころだ。
それは彼女からの提案だ。少なくとも2年以内には、という彼女の言葉に遅れをとった俺は、せめて格好つけようと思い翌週には彼女を連れて不動産店舗へ向かった。
同棲してわかったこと、光は料理が多少下手だ。見た目的には極普通の美味しそうな料理なのだが、味付けが薄いか濃いかのどちらかが圧倒的に多かった。それが俺はなんだか可笑しくて、今日はどっちだろうと考えながら食べるのが楽しかった。
そしてもう1つわかったこと、それは多分、人からの評価を無駄に気に掛けるところ。直接言われたわけではない。ただ光の様子を見ていると、俺以外と行動や接触をしている人物をほぼ見かけないこと、異様に俺の顔色を気にすることがすぐ浮かぶ。さすがに月日が経てば少しのいざこざや口喧嘩をするときはままある。その際必ず、嫌いになったの?や嫌わないで、と不安の色を掲げながら聞いてくる。
世間一般で言えばめんどくさい女の上位に入るだろう。こちらから反論させてもらうと、俺は嫌いなやつとは喧嘩なんてしない。喧嘩に使う怒りのパワーを嫌いだと思っているやつに向ける気もしない。それは光だって間抜けではないから心の深部では当然分かっていると思うが、聞かずにはいられないのだろう。
特定の人への愛は、水が入っているコップのように、時に溢れたり、表面張力を保つようなものだ。光は何事においてもわかりやすいから、溢れているときは一目瞭然だ。しかし、光にとっては俺はいつも張力で固定されているように感じているのかもしれない。
簡単には言えないが、愛というものをいつか信じてほしいと切に願う。だから俺は、すぐにペンを手に取った。
冷蔵庫からキンキンに冷えたお皿を取り出している。
なんだ、ちゃんとうまくできているじゃないか。
光が作っているのはトリュフだ。初めてのバレンタインでトリュフをくれたとき、その甘めの味が最高に美味しかった。人生で初めてそのとき食べたのだ。また作って、とお願いしたところこうして今まで続いているということだ。
あとはココアパウダーを振りかければ完成だろう。
案の定光はパウダーを振るいにかけ始めた。それを俺は真正面から見守る。自分の予想以上にうまくできたからか、ご機嫌の様子だ。
「お前わかりやすいね。」
「ん、あと、もう少し…」
完成したチョコを丁寧に箱に収めていく。わざわざそんなものに入れなくていいのに、と笑うが光は極真剣に1個1個詰めている。それをいつもの場所へ持っていく。
「ハッピーバレンタイン、翔」
ありがとう、光
でもそこに俺はいないよ
俺はお前の右後ろだよ
「翔が他界してから3回目のチョコレートだよ。時が過ぎるのは早いね。」
あぁ、食べたいなぁ。せっかく作ってくれたのに。
光が仏前にお供えしたチョコレートの横に小さなメモ用紙が置いてある。俺が生前書いた光への最後の想いだ。
ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと睡眠をとって。
自分の幸せを、どうか忘れないで。
ありがとう。
最後の最後に、俺はこんな稚拙な文章しか残せなかった。
でも、これでいいんだ。何を書いてもしっくりとこないから。
精一杯の愛を伝えたかっただけなんだけどね。
伝えるって、すんげぇ難しいや。
光は泣いている。
バレンタインなんて嫌いだ。
俺の大事な人を泣かせるから。