塗絵
行く、逃げる、去る、と月日は流れ5月になった。入塾してから俺たちは毎日8時間くらい勉強を続けた。俺は無職で、彼女もちょうど大学入学前の春休みだったので、かなり時間がとれたのだ。
5月には予備試験の短答式試験がある。
予備試験は5月の短答式(マークシート)、7月の論文式、10月の口述と三回の試験に分かれており、各試験を合格しないと次の試験には進むことができない。
合格率はそれぞれマークシートの試験が約20%、論文が約20%、口述が約92%となっている。
「ううう、緊張するね」
たまたま電車で一緒になった茶音に話しかける。昨日は緊張してあまり眠れなかった。
「……」
茶音は「緊張? 何それ美味しいの?」という顔をしている。いや、表情に変化のない彼女のことだ。もしかしたら内心は緊張しているかもしれない。
「あ」
駅に着くと今日初めて茶音の声を聞く。そのまま駅前のパン屋さんに入っていった。お昼ごはんを買うみたいだ。
焼きたてパンに一直線の彼女はやはり緊張していないようである。
「茶音はいつも自然体でいいな」
年下の茶音がゆったりしているので、何だか気が楽になった。
俺も彼女もあれだけ必死に勉強したんだし、きっと大丈夫だろう。幾分かリラックスして二人で試験会場へ向かう。
「おお、大学ってこんな綺麗なんだね」
予備試験の会場は近くの大学であった。
私立の大学なので、校舎がとてもきれいで、刈りそろえられた芝生の生えた中庭などもあった。
校舎に入れば、どの部屋にも黒板が二つあり、扇状に広がる部屋で、座席は200……いや、300席ほどあった。受験者も試験官も大勢いて、みな緊張した様子がうかがえる。
俺たちの試験を行う部屋に入ると鳥肌が立つ。5月なのに冷房がかなりきいていて寒い。上着を持ってきてよかった。
「……」ずぼっ
寒いのか、俺のポケットに茶音が手を突っ込んでくる。茶音さん、俺が逮捕されるので外ではやめてください。
周りを見回すと、学生がかなり多いが、年配の方もそれなりにいる。男女比は2:1といったところだろうか。一人タンクトップのおじいちゃんがいてちょっと面白かった。頑張れ、おじいちゃん。
「それでは始めてください」
試験が始まるとマークシートを塗り塗りしていく。
ある人が大学入試センター試験のことを「全国一斉塗絵大会」と表現していたが、予備試験の短答式試験も塗り塗り大会と言っていいだろう。
そんなどうでもいいことを考えながら試験を解いていく。
ぬりぬりぬりぬり――
最初は緊張してマークミスをしそうになるなど危ない場面もあったが、徐々に慣れて本来の実力を出すことができた。
「そこまで、鉛筆を置いてください」
最後の刑事系が終わると、どっと疲れが押し寄せる。
「ん~」
伸びをすると固まった体や筋肉がほぐれ気持ちがいい。猫になった気分だ。
「お疲れ様」
「……」ペコリッ
近づいてきた茶音に声をかけると律儀に頭を下げてくる。
「どうだった? できたかい」
「けいじけいは」
「刑事系はできたのかい? 民法とかは?」
「……」
なぜ無言になるんだ。できなかったから、聞くべきではなかったのだろうか。
俺だけ重苦しい雰囲気になりながら、二人で帰途についた。
一カ月後、合格発表があり、その数日後に結果が返ってきた。
「せーの」
「……」ベリッ
茶音と一緒に成績を見ようと約束していたので、塾に持ってきたはがきを開ける。
一之瀬隼人
憲法 20/30
行政法 20/30
民法 18/30
商法 18/30
民訴法 18/30
刑法 30/30
刑訴法 30/30
一般教養 27/60
合計 171点
合格判定 160点以上
「おお、まあまあ良かったよ。茶音はどうだった」
「……」ズイッ
俺が彼女に俺の成績を載せたはがきを渡すと、彼女も俺のほうに見せてくれる。
白鳥茶音
憲法 14/30
行政法 14/30
民法 11/30
商法 10/30
民訴法 10/30
刑法 30/30
刑訴法 30/30
一般教養 45/60
合計 164点
合格判定160点以上
「お、おう、一般教養がかなり高いんだね」
高校卒業したばかりの子に一般教養で負ける俺って……ま、まあ、社会とか理科とか英語とか、高校生のほうが有利なものもあるし、多少はね?
「……」ポン
俺の成績を見た後、茶音が慰めるように俺の肩に手を置く。その目は慈愛に満ちていた。
総合得点では俺のほうが勝っているのに、なんだか悔しい!
「論文では負けないからな!」
「……」グッ
サムズアップをして「のぞむところだぜ」と言うかのような茶音。
短答を合格した俺たちは次なる関門を突破すべく答案用紙にボールペンを走らせる。




