自分の幸せ
「一之瀬さんの気配がしますわ!」
柏原様がドアを勢いよく開けて入ってきた。
「一之瀬さーん――ぶふぉ」
俺に飛びつこうとしたので、避けた。柏原様はふかふかのソファにぶつかったので軽傷だ。
「そ、それも一之瀬さんの不思議な「違います」」
このやり取りも何回目だろう。ここに来るたびにしている気がする。
「やあ、さくら」
「あら、彦摩呂じゃない。何しに来たの」
さくら様がつんつんした態度で応える。
「おいおい、もうちょっと嬉しそうにしてもいいんじゃないのかい。せっかく婚約者が来たんだし」
「あなたのご機嫌をとっても何の得がないもの」
「子供の頃は「ひこまろさんのおよめになるー」ってはしゃいでいたのになあ」
「いつの話よ。私がまだお母様のお腹の中にいたときの話じゃないの」
二人でじゃれあうその様は親密な仲をうかがわせるのに十分で、二人が積み上げてきた時間を物語っていた。
「一之瀬さんが正式な夫で、あなたが側室ならいいわよ」
その言葉を聞いて、九条様が獰猛な笑みで俺を見る。
「ほう、例の男はあなただったんですか」
その後、柏原様が昔話をしてくれた。昔は彼に惚れていたが、今は俺寄りということまで。
「若気の至りというやつですわ」
そう言って彼女は話を締めくくる。
「ふふふ、それじゃあ彼よりも魅力的になれば僕を愛してくれるのかい」
「無理ね」
「それはどうだろうね、彼にも負けないいい男になってみせるよ」
九条さんが対抗心を燃やしてくる。そこも正々堂々としていて好感触だった。
これ、明らかに俺はお邪魔虫じゃないか。身分も、財産も、顔も、性格も、何一つだって彼に勝てやしない。
ここに俺の居場所がないことに気づき脱力する。
「九条様が柏原様の夫になるべきでしょう。俺は明らかに不釣り合いです」
柏原様とセバスさんが面食らった顔で俺を見る。九条様も拍子抜けした顔だった。
「今日はセバスさんに会いに来ただけですし、もう帰りますね」
そう言って立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待って、一之瀬さん。私はあなたが――」
「そのほうが柏原様は幸せになれるはずです」
柏原様が引きとどめようとするが、その言葉を遮って俺の意見を伝える。
「それでは失礼します」
そう言って部屋から出て、長い廊下の先の玄関を開けようとした時、セバスさんが俺の肩に手をかけ、引き止めようとする。
「お待ちください! なぜそこまで利他主義に傾倒するのです! 他人の幸せのために生きるという人生は、本当に一之瀬様が望むものなのでしょうか。もっと違う生き方も、つまり我を通す人生も悪くないのではないでしょうか」
「すみません。俺は今までこういう生き方をしてきたんで、今さら変えられるとは思っていません。他人のために生きるのも、一つの人生だと思いませんか」
「自分の人生なのですから、ご自身の好きなように生きればいいじゃないですか。他人のために生きて自分が不幸になっては元も子もありませんよ。お人よしも度が過ぎませんか」
諭すように彼が言葉を続ける。
「俺は幸せですよ。他人のために何かをするっていうことは、俺にとって幸せなことです」
「いえ、間違いなく一之瀬様は幸せから遠ざかっています。他人を幸せにするには、まず自分自身が幸せにならなければなりません。自分が幸せでない人に、他人を幸せにすることはできませんよ」
「……すみません、セバスさんの言っていることはよく分かりません。失礼します」
「一之瀬様!」
かみ合わない会話に終止符をつけ、俺は屋敷を出る。
俺は会社に電話して家電アドバイザーの仕事の辞退を申し出た。
その後、会社に居づらくなったので、オペレーターのほうの仕事もやめることにした。
家がなくなったので、申し訳ないと思いつつ南さんの家に居候させてもらうことにした。
職も失ったので派遣に登録して一週間ほど働いていたが、このままでは体を壊してしまうし、もう少し安定した職に就くべきだと思うようになった。
そこで、前世の知識を生かして司法試験を受験することにした。




