世界最強
視界が暗転する。
「キャッ」
あたりは真っ暗で何も見えない。カーテンは閉まりきっており、三人も何も見えていないはずだ。
俺は暗視ゴーグルをつけ、脱走を試みる。しかし
「セバスさん、あいつは右の部屋に移動して通路から奥の階段へ行くつもりです。追ってください」
「はい」
男の声とセバスの声が聞こえる。な、なぜ逃走経路が分かる!?
いや、そもそもこの暗さだ。セバスが自由に動けるはずが――!?
部屋から飛び出した俺が見たのは、寸分も狂わぬことなく最短ルートで追いかけてくる男の姿だった。
――匂い、匂いか! 嗅覚で俺を追ってきているに違いない。それなら、これだ!
俺は懐から取り出したまきびしをまき、煙幕を焚く。
これで少しは――!?
「無駄だ」
ここは本当に地球なのだろうか? 壁走ってるよ、あの執事。
煙幕もほとんど効いていない。おそらく既に目が慣れてきているのだろう。いや、世界には一瞬で意識的に瞳孔を開くことができる人間がいると聞いたことがある。その一族の末裔なのかもしれない。
このままでは逃げきれない。
そう判断した俺は、脱いで手にしていた上着を振り向きざま後ろに投げる。一瞬の足止めを狙ったその手段はしかし
「無駄だ」
ズバッ、という鋭い音とともに無効化された。
「なっ、す、素手で!?」
無残に両断された執事服が彼の後方へと置き去りにされる。お前の手は日本刀かよ。
とうとうセバスが目前まで迫ってきた。もう手の届く距離だ。人を傷つけるのは流儀じゃないが――仕方ない。
「観念しなさい」
追いかけてきたセバスが俺に腕を伸ばす。あと少しで捕まりそうになった瞬間、俺は懐から取り出したスタンガンを食らわせる。
スタンガンが彼の首の肌に触れた瞬間、バリバチリッと激しい電撃音が生じる。しかし
「ちっ」
苦しそうにしているものの奴は少ししびれた様子を見せただけだった。俺のスタンガンは特製でクジラでも一撃で仕留めることができる。推察するにセバスは哺乳類最強だ。
「ほっ」
セバスを傷つけなかったことに少しだけ安堵する。
それでも少しの足止めはできた。
階段を飛び降りた俺は、玄関前に止めてあったバイクに乗って逃げ出す。まさかここまで追いつめられるとは予想外だった。
だが、これでゲームオーバーだ。これなら追ってこれまい――そう思って振り向いた俺が目にしたのは信じられない光景だった。
「おいおい、まじかよ」
低い姿勢で風を切るセバスが、バイクと同じ速度で追ってくる。砂埃を巻き上げ走る様は人間のそれではなかった。
まずい、これはまずい。捕まる危険が現実味を帯びてきた。冷や汗が背を流れる。
だが、翼がなければ空は飛べまい。まさかこの手段を使うとは思っていなかったが、このままでは逃げきれない。
俺は高台へとバイクを走らせる。目的地に着けば急いでバイクを乗り捨て、隠しておいたパラグライダーで空を飛んだ。
「はっは。鬼ごっこもここまでだ! 体力馬鹿には分からないだろう、これが頭脳プレーというやつd――」ゴウッ ガン! ゴウッ ガン!
滑空している途中、轟音とともに何かが当たる音がする。
バランスを崩しそうになり、慌てて少し降下しつつ体制を立て直す。
何が飛んできているんだ……これは……石だ。飛行物体を視認すれば下から石を投擲されていることが確認できる。その速さは優に時速100kmを超えているだろう。
ゴウッ ガン! ゴウッ ガン!
石は次第に体に当たるようになる。バランスを崩し再び降下する。
「いた、痛い、痛い」
低空飛行をしていると、木々を足場に飛び乗ってこられる。
「これでジ・エンドです」
淡々と事実を告げる口調とともに、世界最強の拳が目の前に――そこで俺の意識は途切れた。
(コメント)
犯罪者は「ボタンを掛け違えてしまった」人間だと表現さることがあります。ほんの些細なことで人生を転落する人は多いです。
窃盗で終われば1月~10年の懲役が法定刑となりますが、仮に窃盗の後に逃げる途中で人を死なせてしまうと、故意でなくとも事後強盗罪(刑法238条)を基礎とする強盗致死罪(240条)が成立し、法定刑は「無期懲役又は死刑」に跳ね上がります。
その選択は一瞬です。見つかった→逃げなきゃ→攻撃する→死ぬ。この一瞬で1月ないし最高10年だった犯罪が「無期懲役又は死刑」になるのです。
少しの傷でも強盗致傷罪(240条)が成立し、法定刑は最低懲役6年ですので、執行猶予はつけられなくなります。
当たり前のことですが、犯罪にはそれ相応の対価を支払う必要があります。割に合わないというべきでしょう。




