地獄へ
「先輩、はい、あーん」
「ちょっとやめ――フゴ」
口を開けた瞬間に、見えない速度でバーニャカウダを突っ込まれる。
「ゴホッゴホ」
「もう照れ屋さんなんだからぁ」
橋本が軟体動物のように体をくねくねさせている。
(せき込んでるのは照れてるからじゃなくて、にんじんが喉に詰まったからだよ!)
あの後、俺は無理やり個室の居酒屋に押し込まれ、要介護の老人よろしく彼女のお世話を受けさせられている。
別にどこの部屋でもよかったのだが、というよりできれば他の人のいる部屋がよかったが、店員に出会った途端に橋本が「個室で」と言ったので、俺の意見は封殺されていた。本来対面で座る部屋のはずがこいつは隣に座ってきて、店員も苦笑いを隠せずにいた。
「先輩、ほら、このズッキーニも美味しそうですよ」
「大丈夫、一人で食べ――ホガ」
今度はズッキーニを風より早く突っ込まれる。
「ゲホッゲホ」
先ほどから熱いソースをつけた野菜ばかり口に突っ込まれているので、口の中が混沌と化している。のどの奥は火傷になっているだろう。
「いやーん、間接キスですぅ」
橋本がイモムシのように体をもぞもぞさせている。なんだその動きは。
息を整えた俺は
「待て、俺の質問に答えろ。どうやって家の中に入ったんだ?」
箸をペロペロと舐めまわしている彼女に、先ほどからしている同じ質問を繰り返す。
さきほど、橋本は俺のタオルを盗んだことを自白した。きっと俺の家からいろいろ盗んだのもこいつに違いない。前世は検事だからな。刑法130条の住居侵入罪で告訴して刑務所にぶち込んでやる。
「大丈夫ですよ。きちんと「正当な理由」がありますから。後、たぶん不起訴、最悪でも執行猶予になりますよ」
馬鹿な! なぜこいつ刑事法の知識を持っている!? 驚愕する俺を尻目に
「先輩の考えることなんてお見通しです」
ふふん、と大きい胸を張る。いつもと違い、胸元を大きく開けた蠱惑的な服装だ。魅惑の山々に目線が吸い込まれそうになるが、慌てて目をそらし本題に話を戻す。
「な、なんだよ、正当な理由って」
「ふふ……後で教えます」
妖艶な笑みで微笑んだ後、意味ありげに耳元でささやかれると、背筋がゾワゾワとする。
彼女の笑みが俺にもたらしたものは、恐怖だった。橋本、お前そんな風に笑うやつだったか?
底知れない恐怖に囲まれながら、宴は続く。
(コメント) おいでませ!
専門分野でもあるので、ちょっと解説をします。
皆さんは住居侵入窃盗について、どの程度の重い犯罪と認識されているでしょうか。結論から申し上げると、橋本薫の場合は起訴されるでしょう。
初犯といえども、複数回出入りし物を窃取しており、計画的で、動機も身勝手で、反省の様子がなく再犯可能性が高い、被害感情も良くない、といったことからです。たかだか歯ブラシ、布団シーツと侮ってはいけません。人の生活の平穏を乱す行為ですから、厳重に対処することになります。
たとえ恋人の家に侵入した場合でも、住居侵入罪は成立します。その恋人の意思に反する立ち入りであれば犯罪が成立するのがほとんどです。
ところで、住居侵入は最大懲役3年、窃盗は最大懲役10年ですが、住居侵入と窃盗を同時にした場合は最大何年になるでしょう?
おそらく、合計で最大懲役13年じゃないか、と思う人が多いと思います。
しかし、これらは「普通セットで行われる犯罪」ですので、刑法54条1項で重いほう、今回で言えば懲役10年が最大になります。難しい言葉で、科刑上一罪のうち牽連犯といいます。
そこで、検事としては住居侵入罪を起訴しないで(このことを「のんで」といいます)、窃盗だけで起訴する場合もあります。
以上、刑事法に詳しいおじいちゃんの解説でした。




