異変
一人称に戻ります。お付き合いいただきありがとうございました。
泣き続ける橋本をなだめた俺は、なんとか彼女を家に帰すことができた。
帰る時になると橋本も諦めたのか、すがすがしい顔をしていた。おそらく俺の言うことを理解してくれたのだろう。
「ふー疲れたな」
俺も家に帰り、服を脱ぎ捨て、湯船を貯めて風呂に入る。
「はあぁ生き返るぅ」
仕事をした後の風呂は格別だ。
「あー掃除しないとな」
職場近くで借りたワンルームは、服や本、ゴミがちらかり、布団は万年床と化している。平日はほとんど働いているから、家で掃除することができない。休日は服を洗濯して1日が終わってしまう。家の世話をしてくれる人がいない、これが一人身のつらいところだ。
「ま、一人身も楽でいいけどね」
いつからだろう、一人でいることを好きだと思い込むようになったのは。虚しい強がりが風呂場に反響する。
それでも家が俺の安息の地であることは間違いない。家賃5万円のワンルームは、誰からの視線も気にしないで過ごせる唯一の場所である。
いや、安息の地「だった」。
異変は少しずつ始まった。
まずマンションの大家さんに
「一之瀬さんの捨てたゴミ、袋の口が空いていたよ。次から気を付けてね」
と言われたのだ。俺は
「すみませんでした、以後気をつけます」
と謝っておいた。しかし、俺は毎回きちんと口を閉めて出している。なぜ空いたままだったのだろう。
このときはまだこれが異変の兆候だと気づいていなかった。
次に、布団シーツが少し新しくなっているような気がしたのだ。
しかし、いつの間にか俺の古いシーツが新しいものに変わることなんてあり得るだろうか? どこのホテルのメイクアップだよ。
「すんすん」
布団を嗅ぐと心なし何かいい香りもする。柔軟剤の香りだろうか? お日様の匂いではない何か官能的な匂いに鼻がムッとする。臭いわけではない、気味が悪いのだ。
ここでもまだ少しおかしいな、と思う程度だった。
極めつきは、俺の食器がなくなったことだ。
俺が使っていた、しかも洗う前の食器がなくなっていた。数えていなかったがもしかしたら箸もなくなっているかもしれない。
ここまで来れば俺でも気づく。誰かが家の中に忍び込んでいる可能性に。
その後は、自分の家にある物の配置を覚えて仕事に行くようにした。
帰って来ると
「……動いてる」
少しだけ、少しだけでしかなかったが、確実に物は移動していた。
筆記具、食器、下着に至るまで少しだけ動かしている痕跡がある。
しかしいったい誰が?
まさか……いやいやそんなはずはない。あいつ俺の家の鍵持ってないし。
でもな……まさかな。
直接聞いてみるか。
もしこの時に戻れるなら殴ってでも自分を止めたい。
地獄へと一歩踏み出した瞬間だったのだから。




