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あの子たち、わたし以外は乗せません

作者: 柚木さと
掲載日:2026/07/24

白い結婚を三年で解消された妻と、彼女が仕上げた馬の話です。

一話で終わります。馬は悪くありません。


「三年待った。もう十分だろう」


 夫がそう言ったとき、わたしは窓の外を見ていた。


 中庭を、栗毛が一頭、曳かれていく。ヴィント。四歳。去年の秋にわたしが仕上げた子だ。


 右の前肢の運びが、いつもより浅い。


「マレーネ。聞いているのか」


「はい」


「白い結婚は、三年で解消できる。教会もそう定めている」


「はい」


「アデーレとは、来月に」


「旦那さま」


 わたしは窓から目を離さずに言った。


「ヴィントの右の前、熱を持っております。厩番に、今日は乗せないよう伝えていただけますか」


 夫は黙った。


 わたしは振り返った。夫は執務机の向こうで、離縁状を持ったまま、こちらを見ていた。妙な顔をしていた。怒っているのとも、呆れているのとも違う顔だった。


「……お前は」


「はい」


「今、私が何の話をしていたか、分かっているのか」


「離縁のお話です」


「それで、馬の話をするのか」


「馬の脚は、今日中に診ないと手遅れになります。離縁は、明日でも間に合いますので」


 夫は離縁状を机に置いた。


 三年のあいだに、この人がわたしに向けた言葉は、たぶん百に届かない。婚礼の日に「よろしく頼む」と言い、あとは厩の話だけだった。それも、わたしにではなく、厩番を通して。


 この家に嫁いだのは、うちが馬を出す家だったからだ。ヴァルデン伯爵領は軍馬の産地で、わたしはそこの三女だった。馬と一緒に嫁いできたようなものだ、と、婚礼の席で誰かが笑って言っていた。


 実際そのとおりだったので、わたしは怒らなかった。


「出ていく先はあるのか」


「実家に戻ります」


「持参財は返す」


「ありがとうございます」


「……それだけか」


 わたしは少し考えた。


「あの子たち、わたし以外は乗せません」


 夫の眉が動いた。


「厩番がいる」


「厩番は世話をします。乗るのとは別です」


「私が乗る」


「はい」わたしは頭を下げた。「お気をつけて」


    ◇


 馬は、人を選ぶ。


 これは、馬を知らない人に説明しようとすると、たいてい失敗する。乗れるか乗れないかの話ではないからだ。乗せてはくれる。ただ、その日の風の音に驚いたとき、足元が崩れたとき、前を行く馬が急に止まったとき――そのときに、鞍の上の人間を信じるかどうかが違う。


 信じない馬は、自分で判断する。


 自分で判断した馬は、人間の思っていないほうへ跳ぶ。


 わたしはヴァルデンの厩で育った。四つのときから馬の脚を見て、十一で初めて一頭を最初から仕上げた。その子は今も生きている。二十歳になる。


 ジークベルト伯爵家に来て三年で、わたしは八頭を仕上げた。


 仕上げるというのは、乗り方を教えることではない。人間を信じさせることだ。信じるまで、毎日、同じ手で、同じ順で、同じことをする。雨でも、熱があっても、休まない。休むと、そこで一度切れる。切れたら、また最初から積み直す。


 三年で八頭。多いほうではない。


 けれど、その八頭は、わたしがどこにいても、わたしの足音で耳を動かす。


    ◇


 実家に戻って、わたしは厩に入った。


 父は何も聞かなかった。母は三日ほど泣いて、四日目から普通になった。兄嫁が気を遣って離れを空けてくれたが、わたしは結局、厩の脇の小屋で寝るようになった。そのほうが、夜中に何かあったときに早い。


 春の市に、ヴァルデンの馬を七頭出した。全部売れた。


 夏になって、王家の厩から人が来た。秋の観閲式に出す馬を探しているという。うちの父と話をして、帰り際に、その使者がわたしを見て言った。


「仕上げをなさったのは、あなただと伺いました」


「はい」


「ジークベルト伯爵夫人でいらしたと」


「もう違います」


 使者は、それ以上は聞かなかった。行儀のいい人だった。


    ◇


 観閲式の話が届いたのは、秋の終わりだった。


 市に来た馬喰が、笑い話として話していった。


 王都の観閲式で、ジークベルト伯爵が落馬した。


 前を行く隊列の楽隊が銅鑼を打った。そこまではよくあることだ。馬は驚く。驚いた馬を、鞍の上の人間が抑える。それで済む。


 済まなかったのは、伯爵の馬が、抑えられるより先に自分で決めたからだった。


 横へ跳んで、隣の列に突っ込んで、そこで三頭が崩れた。伯爵は肩を打って、しばらく右手が上がらなかったという。


「乗ってたのが、栗毛の四つでね」馬喰は言った。「いい馬でしたよ。わたしも市で見ました。あれは、いい馬だ」


「――ヴィントです」


「ご存じで」


「わたしが仕上げました」


 馬喰は、口を開けて、それから閉じた。


 わたしは麦の袋を担ぎ直した。


「あの子は悪くありません」


 それだけ言って、厩へ入った。


 ヴィントが無事だったかどうかを、わたしは馬喰に聞かなかった。


 聞けば、答えが返る。返ってきた答えが悪いほうだったとき、わたしはここで麦を担いだまま、それを聞くことになる。


 だから聞かずに、麦を運んだ。その日は、それだけをした。


    ◇


 冬の初めに、荷馬車が一台、ヴァルデンの門に着いた。


 ジークベルト家の紋が入っていた。


 わたしは厩から出て、門のところに立った。荷台には何も積まれていない。曳いてきた男が二人、幌の後ろを開けた。


 中から、栗毛が一頭、降りてきた。


 脚を庇っていた。右の前だ。あの日、熱を持っていたほうだった。


 ヴィントは、地面に降りて、四方を見た。それから、耳を、わたしのほうへ向けた。


 わたしは動かなかった。動くと、こちらから呼んだことになる。


 ヴィントが、歩いてきた。三歩。首を下げて、わたしの肩に鼻を当てた。息が、外套越しに温かかった。


 男の一人が、帽子を取って言った。


「伯爵さまが、こちらへお返しするようにと」


「……理由は」


「乗り手がいないと」


 わたしはヴィントの首を撫でた。毛が伸びていた。冬毛にしても、伸びすぎている。手入れが行き届いていない。


「厩番のハインツは、まだおりますか」


「おります」


「では、伝えてください。この子の右の前は、三年前から癖があります。冬は毎朝、湯で温めてから曳くこと。それを、書き付けにして厩の壁に貼るようにと」


 男は、少し戸惑った顔をした。


「あの……お返しした馬の話を、なぜ」


「ほかの七頭がおりますので」


 男たちは荷馬車を返して帰っていった。


 わたしはヴィントを厩に入れて、麦を少しやった。食べているあいだに脚を見た。腫れはある。ひどくはない。冬を越せば戻る。


 小屋に戻って、書き付けを作りはじめた。


 一頭目。ヴィント、栗毛、四歳。右前肢に慢性の熱。冬季は湯で温めてから曳く。銅鑼と鐘の音に弱い。左からは近づかない。


 二頭目。ノルト、鹿毛、六歳。


 書きながら、思った。


 八頭ぶん書き上げるのに、たぶん三日かかる。それを届けるかどうかは、まだ決めていない。


 外で、馬が一頭、身じろぎした。厩の戸が、風で鳴った。


 わたしは筆を止めて、耳を澄ませた。ヴィントの足音ではなかった。


お読みいただきありがとうございました。

ヴィントは戻ってきました。残りの七頭は、まだあちらにおります。


この「柚木さと」名義では、家を出ていった妻たちの話を書いています。どれも一話で終わります。


・手紙を全部代わりに書いていた妻の話 『あの方のお手紙は、全部わたしが書いていました』

 https://ncode.syosetu.com/n0386mn/

・鍵を全部覚えていた妻の話 『鍵の在処は、離縁状と一緒に置いてまいりました』

 https://ncode.syosetu.com/n0392mn/

・畑の種を選っていた姉の話 『妹に譲りましたので、畑もお持ちください』

 https://ncode.syosetu.com/n0393mn/

・冬の備えを数えていた妻の話 『今年の冬支度は、なさっていないのですか』

 https://ncode.syosetu.com/n0397mn/


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