あの子たち、わたし以外は乗せません
白い結婚を三年で解消された妻と、彼女が仕上げた馬の話です。
一話で終わります。馬は悪くありません。
「三年待った。もう十分だろう」
夫がそう言ったとき、わたしは窓の外を見ていた。
中庭を、栗毛が一頭、曳かれていく。ヴィント。四歳。去年の秋にわたしが仕上げた子だ。
右の前肢の運びが、いつもより浅い。
「マレーネ。聞いているのか」
「はい」
「白い結婚は、三年で解消できる。教会もそう定めている」
「はい」
「アデーレとは、来月に」
「旦那さま」
わたしは窓から目を離さずに言った。
「ヴィントの右の前、熱を持っております。厩番に、今日は乗せないよう伝えていただけますか」
夫は黙った。
わたしは振り返った。夫は執務机の向こうで、離縁状を持ったまま、こちらを見ていた。妙な顔をしていた。怒っているのとも、呆れているのとも違う顔だった。
「……お前は」
「はい」
「今、私が何の話をしていたか、分かっているのか」
「離縁のお話です」
「それで、馬の話をするのか」
「馬の脚は、今日中に診ないと手遅れになります。離縁は、明日でも間に合いますので」
夫は離縁状を机に置いた。
三年のあいだに、この人がわたしに向けた言葉は、たぶん百に届かない。婚礼の日に「よろしく頼む」と言い、あとは厩の話だけだった。それも、わたしにではなく、厩番を通して。
この家に嫁いだのは、うちが馬を出す家だったからだ。ヴァルデン伯爵領は軍馬の産地で、わたしはそこの三女だった。馬と一緒に嫁いできたようなものだ、と、婚礼の席で誰かが笑って言っていた。
実際そのとおりだったので、わたしは怒らなかった。
「出ていく先はあるのか」
「実家に戻ります」
「持参財は返す」
「ありがとうございます」
「……それだけか」
わたしは少し考えた。
「あの子たち、わたし以外は乗せません」
夫の眉が動いた。
「厩番がいる」
「厩番は世話をします。乗るのとは別です」
「私が乗る」
「はい」わたしは頭を下げた。「お気をつけて」
◇
馬は、人を選ぶ。
これは、馬を知らない人に説明しようとすると、たいてい失敗する。乗れるか乗れないかの話ではないからだ。乗せてはくれる。ただ、その日の風の音に驚いたとき、足元が崩れたとき、前を行く馬が急に止まったとき――そのときに、鞍の上の人間を信じるかどうかが違う。
信じない馬は、自分で判断する。
自分で判断した馬は、人間の思っていないほうへ跳ぶ。
わたしはヴァルデンの厩で育った。四つのときから馬の脚を見て、十一で初めて一頭を最初から仕上げた。その子は今も生きている。二十歳になる。
ジークベルト伯爵家に来て三年で、わたしは八頭を仕上げた。
仕上げるというのは、乗り方を教えることではない。人間を信じさせることだ。信じるまで、毎日、同じ手で、同じ順で、同じことをする。雨でも、熱があっても、休まない。休むと、そこで一度切れる。切れたら、また最初から積み直す。
三年で八頭。多いほうではない。
けれど、その八頭は、わたしがどこにいても、わたしの足音で耳を動かす。
◇
実家に戻って、わたしは厩に入った。
父は何も聞かなかった。母は三日ほど泣いて、四日目から普通になった。兄嫁が気を遣って離れを空けてくれたが、わたしは結局、厩の脇の小屋で寝るようになった。そのほうが、夜中に何かあったときに早い。
春の市に、ヴァルデンの馬を七頭出した。全部売れた。
夏になって、王家の厩から人が来た。秋の観閲式に出す馬を探しているという。うちの父と話をして、帰り際に、その使者がわたしを見て言った。
「仕上げをなさったのは、あなただと伺いました」
「はい」
「ジークベルト伯爵夫人でいらしたと」
「もう違います」
使者は、それ以上は聞かなかった。行儀のいい人だった。
◇
観閲式の話が届いたのは、秋の終わりだった。
市に来た馬喰が、笑い話として話していった。
王都の観閲式で、ジークベルト伯爵が落馬した。
前を行く隊列の楽隊が銅鑼を打った。そこまではよくあることだ。馬は驚く。驚いた馬を、鞍の上の人間が抑える。それで済む。
済まなかったのは、伯爵の馬が、抑えられるより先に自分で決めたからだった。
横へ跳んで、隣の列に突っ込んで、そこで三頭が崩れた。伯爵は肩を打って、しばらく右手が上がらなかったという。
「乗ってたのが、栗毛の四つでね」馬喰は言った。「いい馬でしたよ。わたしも市で見ました。あれは、いい馬だ」
「――ヴィントです」
「ご存じで」
「わたしが仕上げました」
馬喰は、口を開けて、それから閉じた。
わたしは麦の袋を担ぎ直した。
「あの子は悪くありません」
それだけ言って、厩へ入った。
ヴィントが無事だったかどうかを、わたしは馬喰に聞かなかった。
聞けば、答えが返る。返ってきた答えが悪いほうだったとき、わたしはここで麦を担いだまま、それを聞くことになる。
だから聞かずに、麦を運んだ。その日は、それだけをした。
◇
冬の初めに、荷馬車が一台、ヴァルデンの門に着いた。
ジークベルト家の紋が入っていた。
わたしは厩から出て、門のところに立った。荷台には何も積まれていない。曳いてきた男が二人、幌の後ろを開けた。
中から、栗毛が一頭、降りてきた。
脚を庇っていた。右の前だ。あの日、熱を持っていたほうだった。
ヴィントは、地面に降りて、四方を見た。それから、耳を、わたしのほうへ向けた。
わたしは動かなかった。動くと、こちらから呼んだことになる。
ヴィントが、歩いてきた。三歩。首を下げて、わたしの肩に鼻を当てた。息が、外套越しに温かかった。
男の一人が、帽子を取って言った。
「伯爵さまが、こちらへお返しするようにと」
「……理由は」
「乗り手がいないと」
わたしはヴィントの首を撫でた。毛が伸びていた。冬毛にしても、伸びすぎている。手入れが行き届いていない。
「厩番のハインツは、まだおりますか」
「おります」
「では、伝えてください。この子の右の前は、三年前から癖があります。冬は毎朝、湯で温めてから曳くこと。それを、書き付けにして厩の壁に貼るようにと」
男は、少し戸惑った顔をした。
「あの……お返しした馬の話を、なぜ」
「ほかの七頭がおりますので」
男たちは荷馬車を返して帰っていった。
わたしはヴィントを厩に入れて、麦を少しやった。食べているあいだに脚を見た。腫れはある。ひどくはない。冬を越せば戻る。
小屋に戻って、書き付けを作りはじめた。
一頭目。ヴィント、栗毛、四歳。右前肢に慢性の熱。冬季は湯で温めてから曳く。銅鑼と鐘の音に弱い。左からは近づかない。
二頭目。ノルト、鹿毛、六歳。
書きながら、思った。
八頭ぶん書き上げるのに、たぶん三日かかる。それを届けるかどうかは、まだ決めていない。
外で、馬が一頭、身じろぎした。厩の戸が、風で鳴った。
わたしは筆を止めて、耳を澄ませた。ヴィントの足音ではなかった。
お読みいただきありがとうございました。
ヴィントは戻ってきました。残りの七頭は、まだあちらにおります。
この「柚木さと」名義では、家を出ていった妻たちの話を書いています。どれも一話で終わります。
・手紙を全部代わりに書いていた妻の話 『あの方のお手紙は、全部わたしが書いていました』
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・鍵を全部覚えていた妻の話 『鍵の在処は、離縁状と一緒に置いてまいりました』
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・畑の種を選っていた姉の話 『妹に譲りましたので、畑もお持ちください』
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・冬の備えを数えていた妻の話 『今年の冬支度は、なさっていないのですか』
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