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5.


「ただいまー」


 俺は玄関でローファーを脱ぎ捨てながら、扉の向こうのキッチンに届くような声で言った。

 返事はないが、おそらく聞こえてはいるはずだ。

 ただ向こうが大声を出すのが苦手なのだ。俺は目の前のドアを開け、彼女の後ろ姿を確認した。


「ただいま」

「…お帰りなさい」


 母はようやく返事をした。

 俺は17年この母親のもとで暮らしているが、いつも抱く印象は”辛気臭い”だ。

 極端に無口だし、俺の前ですら基本的に無表情である。

 そのくせ親父が仕事の関係で泊まり込みや深夜帰りになったときは、微妙に微笑みながら気分が高揚しているので、実にわかりやすい。


「夕飯できたら、呼んで」


 俺がそういうと、母は黙ってうなずいた。

 すぐさま俺は背を向け、二階にある自分の部屋へと階段を上っていった。







「大河、お前就職か進学は決めたのか?」


 夕食の席で、親父はいつものように話しかけてきた。

 ため息をつきながら、俺は返した。


「別にどっちでもいいだろ。

 大学は近所にあるし、就職するにしても、このど田舎じゃ人手が足りなくて仕事にあぶれる事もない」


 どちらかといえば地方都市に位置するこの街は、昨今の少子化で何処も人が足りなかった。

 おまけに有望な若者は上京してしまうなどで、余計に家業を継ぐような人間もいない状況が続いている。

 大学も所謂Fラン大学に近いような所だが、あるにはある。正直履歴書に”大卒”の二文字を書く以上の価値はないようなところだが、それでも新卒大学生の肩書には価値があるのだろう。


「やりたい事とか、特にないのか?」

「…ねぇよ」

「そうか」


 それで俺との会話は終わり、それが日常だった。


「にしても全く、うちの部長には全く参ったよ。あいつは何にも仕事をしない癖に…」


 いつものように仕事の愚痴・贔屓の野球チームへの罵倒・若い奴らへの嘲笑…それらが家族三人が唯一揃う夕食の場での、会話のメイントピックだった。

 母は何を考えているのかわからない無表情で、適当に相槌をしながら聞いていた。

 親父も結局相手が話を聞いているのか否かはどうでもいいのだろう、結局自分一人だけ捲し立てて満足してしまう。

 俺はそんな光景が嫌で仕方がなかった。






 自室で一人、俺は窓際で煙草をふかしていた。

 匂いでばれそうなものだが、両親は何も言ってこない。根本的に俺に興味がないのだろう。

 父がはっきり言って嫌いだった。

 夕方に帰ってきても、休みで1日家にいても、ただ缶の安酒の飲みながら自堕落に過ごしている。

 母が料理や掃除、果ては俺の学校に関する事も全て丸投げで、そのくせ自分はこの家の主人だという空気を漂わせている。

 母も母で、こんな男となぜ今も一緒にいるのか、なぜ文句の一つも言わず、死んだような眼で日々を過ごしているのか。

 恐らくは俺が原因なのだろう。二人が離婚すれば、どちらか一方に必ず負担が集中する。だからこそ母も多少の不満があれども、文句を言わずにこの家の奥方を務めているのだ。

 しかしどれだけ両親に対して不満が募っても、俺がこの家を出て行くこともないと確信していた。

 正直俺はやりたい事も、なりたい自分もわからない。

 だからこそ夢を持って地元を離れて上京、なんて事はまずないだろう。

 進学にしても就職にしても、この家にいた方が通勤通学に便利だし、経済的にも圧倒的に楽だ。

 だからこそ、母のように光のない眼をしながら日々を過ごしていくのだ。

 そう考えると、酷く自分の一生が惨めに思えた。

 俺はただ、吐き出した煙が夜空に消えていくのを眺めた。


 そうして物思いに耽っていると、突然ドアをコンコンとノックする音が聞こえた。

 俺は煙草の火を消し、ドアを開けてやった。すると母親が立っていた。


「お父さん、明日一日居ないみたいだから。

 私も用事で夜遅くなるから、これで何か食べてきて。お釣りはいらないから」


 そうして一万円札を差し出してきた。

 相変わらず表情も目の色も虚無だ。

 何故だか無性に腹が立ち、俺は札をひったくるとドアを乱暴に閉めた。

 そして煙草に火をつけ直し、苛立ちを抑えようと必死になった。






 ・1月10日


 区立玉野原高等学校。

 駅から15分ほどの、比較的閑散とした地域に佇む、近所で一番大きな建物である。

 俺や悠臣、俊一はこの学校に通い、また実質的には収監されている。

 というのも、この辺り一帯で公立高校は玉野原しかなく、周囲の中学から偏差値に関係なく進学してくる。

 その中には筋金入りの不良も混じっていたりする。それこそ半グレとの関係も噂される、あの澁谷などがその典型的な例だ。

 どうしてもこの落ちこぼれ校に入りたくなければ、男子であれば県外の高校を受験し、一人暮らしを覚悟するしかない…女子には”例外”があるが。

 だからこそ、この学校は獰猛な肉食動物や、俺たちのような普通の草食動物に至るまで、幅広く受け入れられる「動物園」のような扱いなのだ。

 教師陣も俺たちの素行には目を光らせている一方で、澁谷のような本物の反社会的勢力の報復を恐れてか、飲酒喫煙程度のことには見て見ぬ振りをしている。

 それこそ、凶暴な動物を警戒しつつ監視する、といった具合に。

 俺たちの日常は、そんな中でしか行われないはずだった。


「その制服って、ガハラ女子じゃないのか?」

「まじ? どーやってあのお嬢様たちとお知り合いになったのよ」

「知り合いになった訳じゃねーよ、路上で見かける機会が多くなっただけだ」


 帰りのホームルームが終わって、お待ちかねの帰宅タイムに、俺は三人にあることを尋ねていた。

 それはあの春川葵の着ていた、あの制服についてである。

 その制服に、俺は見覚えがあったからだ。

 私立芦ヶ原女子専門高等学校、通称ガハラ。

 俺たちの玉野原からは、ちょうど二駅ほど離れたところに位置する、お嬢様私立学校だ。

 私立であることからわかる通り学費は高いが、その分自由な校風かつ教育水準も高いことから、授業料と偏差値さえクリアしてしまえば薔薇色の女子校ライフである。

 そう、これこそが女子にのみ許される”例外”だ。

 あそこを受験すれば、わざわざ檻に入れられる必要はない。その成績と金に見合った場所が提供される。


「そーいや藍美も確かガハラだったよなー。

 あいつが制服着てるところ、結局最後まで見なかったけど」


 そう言って俊一は笑っていた。

 藍美というのは、俊一の直近の元カノである。

 よくある話で、こいつの女癖の悪さと軽薄さに辟易とし、向こうから別れ話を切り出されたという事だ。

 それを俺と悠臣は二ヶ月ほど前に聞いていたわけだが、まぁこれもよくある話だと二人して、呆れ返りながら苦笑していた。

 このように俊一が浮気を繰り返して破局というケースは、もはや数え切れないほどなのだ。

 大抵の彼女と別れる理由がこいつの不義なので、俺たちのリアクションも徐々に希薄になっていってしまっているのである。


「そりゃお前、ひと月も立たないうちに別れたからだろ」

「お互いを知り合う前に別れちゃったら、ねぇ」

「二、三回浮気しただけじゃんかよー」

「普通のカップルが別れるのには、一回の浮気で十分なの」

「しかもほぼ付き合った直後とか、女の方からしたら憤死ものだろ」


 俺たち二人の共通の心配事が、いつかこいつが刺されやしないかという事である。




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