エピローグ
僕の目の前には、もはや人の洪水と言っていいほどの群衆があった。
老若男女、日本人、外国人、数々の人種がまるで群体のように移動している。
それが僕が人生で初めて目にした、渋谷ハチ公口前であった。
「えっと…この先だよな」
リクルートスーツに身を包んだ僕は、人の波の合間を縫って横断歩道まで移動した。
日本中どこを見回しても、ここまで人口が密集している地域はここくらいのものだ。
面接先の企業は、センター街を抜けた奥のほうにあるビルの一室にあった。
しかし平日とはいえ、この人混みの中を歩いていくのは困難である。
「就職先、これでいいのかな…」
そんな不安に、僕は頭を巡らせた。
職務内容は、確かに自分の適正には合っている。
給与や福利厚生はしっかりしてはいそうだが、実態は働いてみないとわからない。
口コミは文字通りの賛否両論、退職率は低くもなければ高くもない。
(まぁ何にせよ、全力でやってみないと!)
僕は、自身を鼓舞した。
何かに対して冷めた態度でいても仕方がない、真剣に今を生きるという事。
それがあの日以来、僕が自分自身を生きる唯一の術だったからだ。
葵との別離を経験し、三年生に上がっていよいよ進路を決めなければという段階で、僕は東京の大学に進学する決意を決めた。
元々両親とは反りが合わず、ここにいる理由がないことから上京したのだ。
俺も親で意外そうな顔はしたが、Fランに近い大学とはいえ、進学ということで安心はしたのだろう。
学費は全額持ってはくれている上に、たまに食品などの支援をしてくれる。
上京前日、親父が『頑張れよ』と声をかけてきたのを、僕は忘れられない。
母親も珍しく優しげな笑顔で、いってらっしゃいと送り出してくれた。
そんな経験を経て、いつの間にか両親への反抗心も少し薄れていくのが、自分でも意外だった。
浪人もしていないし、授業もサボらず真面目にやり、資格取得や就職にも積極的なのだから、そんな両親に対しても借りは多少返せたかとも思っている。
そんな僕の姿勢は大学では浮いていたが、しかしそれでも仲間はできるもので、今では少ない仲間と情報を交換しあったり、たまに飲みに行く程度の関係が続いている。
俊一は明星大学に進学し、今では松川の後輩だ。
相変わらず女癖は悪いそうだが、しかし実家の跡継ぎの関係もあるため、本人曰く勉学もわりと真面目にやっているらしい。
彼はたまに東京に遊びに来るので、その時には僕も参加して思い出話などにふける。
僕の方が地元に四年間一切帰っていないので、彼の方から尋ねるしかないのだ。
よく彼が「働き口に困ったら、うちに来いよ」と言ってくれるが、それは最終手段として取っておくつもりだ。
今となっては、地元には辛い思い出もあるからだ。
湯浅は、僕たちの卒業後に別の学校へ異動していった。
あれから僕たちの溝は埋まり、その他大勢の学生たちと同じ、進路や学業に対して彼女に助言を仰ぐようになっていった。
湯浅もそんな僕を嫌がらずに、しっかりと受け止めてくれた。
最後に話したのは、卒業式の日だ。
学校の陰キャ勢が告白したそうにモジモジしているのを尻目に、僕は早い者勝ちと声を掛けた。
『今までありがとう、早く幸せになれよ』
そういうと彼女は、いつも通りの優しげな笑顔を見せた。
『そっちこそ、ね』
そうしてお互いに笑い合えたことが、最高の思い出だった。
この先彼女と会いことは、二度と無いだろうが、しかし彼女への恩は生涯忘れないつもりだ。
陰キャたちの鋭い妬みの視線を躱し、僕たちは手を振って最後の別れをした。
その光景を、僕は今もはっきりと覚えている。
そういえば卒業式で、谷川が泣いていたことを思い出した。
あんな下衆が卒業式で泣くものなのかと、驚いた記憶がある。
しかし人間には、誰かに見せない顔がある、ということを僕は経験から学んでいた。
だからこそ谷川も、俗物一辺倒の人物ではなかったということなのだろう。
その光景を見て、どこか微笑ましくもなったりした。
大学に進学してからの僕は、ガムシャラだった。
勉強は全力だったし、バイトも精を出した。サークルもできる限り顔を出した。
とにかく没頭できる何かを見つけたかったからだ。
相変わらず、特に好きな事もなければ、得意な何かがあるわけでもない。
でも僕は、今誰よりも本当の自分自身を感じていた。
自らの気持ちで、自らの足で立って初めて、本当の自分を感じることができた。
そんな日々を、誇りにさえ思う。
「あーあ、大丈夫かな…」
正直、面接の手応えはわからない。
面接官からの質問はよくあるものばかりであり、僕も額面通りの返しをしただけだ。
『結果はお伝えします』と言われただけであり、返事が来るまで悶々とするのが確定である。
しかし所詮は数打てば当たる世界なのだ、やるしかないというのは百も承知だった。
すると、右ポケットのスマホが微かに振動した。
みると、昨年末から付き合っている彼女からだった。
『面接どう?』
簡潔なテキストに、僕は返信した。
『わかんね』
素っ気ないやり取りだが、付き合いも長くなってきたので、こうなるのも仕方がない。
ゼミで一緒になった同級生で、お互い周りの後押しもあって付き合い始めた。
お互いになんだかんだと気が合い、一緒に過ごす時間も決して悪い気分はしなかった。
最終的にはそこそこに深い仲になったが、大して好きではないが嫌いではない。
これからもっと深い関係に発展していくかは、まだ未知数だった。
(何事もまだ途中なんだから、頑張らないと)
僕はそう自分を奮い立たせると、夕暮れ時のハチ公口横断歩道で、信号を待っていた。
そして信号が青になった。
僕は歩き出す。
ふと、前から睫毛の長い女性が歩いてきた。
紙はショートだが、背は高い。
左耳には、輝くダイヤのピアスがある。
僕の向かいから歩いてきた女性は、僕とすれ違った。
その刹那、シトラスの香りが漂った。
しかし僕は振り返らなかった。
向こうもきっと、振り返ることはしないだろう。
幸せそうなのかは、表情からは読み取れなかった。
けれども顔色は良いから、少なくとも健康ではあるようだ。
やがて横断歩道を渡り終えた。
(なあ、お前は…今どんな名前で呼ばれてる?)
俺は、名前のない彼女のことを思った。




