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24.

 ・3月11日



 志賀村総合病院というのは、県外に位置する病院だ。

 玉野原から電車を二本乗り換える必要があり、しかも鈍行でしか止まらない。

 合計二時間近く電車に揺られていると、徐々に田園風景が目立つようになってきた。

 見知らぬ風景を過ぎて、俺はそこを目指していた。


 駅近くに志賀村病院はあったが、しかしそれ以外は田畑や緑、小さな民家が広がるという、変わった光景だった。

 中に入ると、そこは近代的かつ清潔な受付と若々しいスタッフが見え、それがますます周囲との違和感を助長させた。

 とはいえ臆している時間もない。俺は受付の女性看護師に声をかけた。


「あの、すみません」

「601号室の方の、面会なんですが…」

「お名前をよろしいですか?」

「えと…峰、大河です」

「…少々お待ちください」


 看護師は訝しげに受話器を取り、何処かに内線電話を掛けた。

 それはそうだろう、入院している人間の名前さえ知らない、身内かもわからない人間が突然訪ねてきたのだ。

 不審に思わない方がおかしいだろう。

 しかし意外な返答が返ってきた。


「お待たせしました、お通りください」


 驚くべきことに、すんなり通れてしまった。

 これには俺自身が一番驚いた。

 看護師も若干不服そうな表情だ。

 しかし俺は進むしかなかった。




 601号室は個室のようであり、名札には「山形周平」と書かれている。

 ノックをすると、しわがれた声が帰ってきた。


「入ってこい、鍵は掛かっていない」


 その言葉通り、ドアは横開きにスッと開いた。

 中には鼻に人工呼吸器を繋がれた、真っ白な髪の老人が一人ベッドに寝ていた。

 痩せこけて骨が所々浮き出ており、もう長くない事が見て取れた。


「あんたが、葵たちの親玉なのか」

「そうだ」

「…人が何人も死んだのに、警察の影も形も見えないのは、何でだ」

「警察官僚には貸しが色々とあるからな。

 それに死人が出たのも私が直接指示したからではない、下の人間の独自判断で動いたものだ。

 何より、こんなベッドで死を待つだけの老人を逮捕したところで、彼らに利があると思うかね?」


 その言葉から、恐らくは相当な大物である事が伺えた。


「なぜ俺を入れたんだ」

「彼女たちから報告を受けていたからな」

「…それは葵たちのことか」

「その名前が誰を指すのかはわからん。彼女たちも、私にも、名前はない」

「名前はない? どういう事だ」

「それを聞きに来たのだろう…話してやろう」






 私は元々、戦後間も無くの生まれだ。

 物心ついた時には辺り一面が焼け野原、家族と呼べる人間は周りには誰もいなかった。

 自分がどこで生まれ、どういった名前だったのか、それすらもわからなかった。


 当時はそんな人間が溢れかえっていた。

 戦後の混乱の中で、戸籍が消失した人間は溢れていた。

 僅かに朝鮮語を喋っていた記憶があるが、それも朧気だ。

 ただでさえ敗戦後の混乱で人々が困窮する中、私のように何者でもない人間が生き抜くのは酷く困難だ。

 まともな働き口など無いも同然だ。

 そうすると、どうなるか。


 答えは、裏の世界に飛び込むしかない。

 戦後の混乱には闇市が台頭し、それを取り仕切っていたのが侠客たちを中心とした、裏社会の人間だ。

 それは身分や生まれを気にしない、ある意味で真に自由な世界だった。

 むしろ何者でもないというアイデンティティは、暴力が重要な要素である世界には有利に働いた。

 それは言い換えれば、何者にもなれるという事と同意義だからだ。

 私は数多くの名前を名乗り、身分を偽り、この世界で生きてきた。

 当然この「山形周平」という名も本名ではない、何度目かもとうに忘れた偽名だ。


 そうしている内に、私は裏社会において独自の立ち位置を確保し、いつしか多数の組織と取引する間柄になっていた。

 彼らのビジネスに深く入り込み、利益を手に入れる。

 そんなやり方がいつしか私のやり方になっていた。

 その中で、私の手足になる者たちがいた…それが私と同じ『何者でも無い子供たち』だ。


 つまり言うなれば、私と同じ無戸籍の子供達だ。

 いつの時代も、そうした人間は一定以上いるものだ。

 様々な事情のもとで、彼ら彼女らは自らの本当の名前も知らぬまま、成長していく。

 そんな子供たちを私は、独自のコネクションで集めていった。

 子供達の出生届を複数作成し、偽の身分を複数作り上げれば、あとは賄賂や工作でなんとでもなる。

 一人の人間が多数の名前を使いこなす、役者のようなものだ。

 その『春川葵』というのも、その一つに過ぎん。


 なぜ真実を教えたのか、だと?

 まぁ私も見ての通り、もう老い先短い。

 誰かに話したところで、どうともならんだろう。

 あるいは…誰かに私の記録を残したかったのかもしれん。

 それは結局、私も最後まで誰かにとっての『何者か』になりたかったという事なのかもな…。






 ・3月13日


「おい、峰」


 ある日の放課後、友人二人さえも避けるように帰宅する途中、玄関で谷川が俺を呼び止めた。


「…何すか?」


 俺はあの日以来、すっかり風船が萎んだようになってしまっていた。

 探し求めていた真実が手に入って、緊張の糸が切れたからなのだろうか。

 それにどうしようもなく一人になりたかった。

 だからこそ、悠臣や俊一さえも避けて帰っていた。


「お前、二者面談で湯浅先生に暴言を吐いたらしいな」

「…だから何だよ」

「だから、だと? 先生に向かって何だ、その態度は!」


 谷川が口から唾を飛ばしながら、俺に怒鳴った。


「よく言うぜ、俗物教師が。

 未成年ホテルに連れ込んでる変態に、説教こかれたくねぇんだよ」

「な、何だと…!」


 急に谷川の顔が青ざめた。

 俺に弱みを握られているのが、よほど応えているのだろう。

 微かに谷川は、俺に対して後退りまでした。


「停学でもクビでも好きにしろ! どうせ俺の人生ろくなもんじゃねえ、中退したところで何も変わらない。

 殴りたきゃ殴れよ、教育委員会に訴えたりはしねーよ。けど殴ったところで、お前が最低教師である事に変えらんねぇんだよ‼︎」


 生徒の予期せぬ反抗に、谷川は目線を逸らして逃げた。

 そもそも最初から、こいつは下衆野郎だ。

 なら、こんな奴にどうこう言われるのは筋違いである。


「お、俺のことをとやかく言うのは、構わん、だ、だが…」

「なんだよ」

「ゆ、湯浅先生には、謝れ…」

「何でだよ」

「あ、あの人の旦那さん…もう亡くなってるんだ」


 それを聞いた瞬間、俺は凍りついた。


「…そんな話、俺は聞いたことがないぞ」

「そ、そりゃ先生が黙ってるからだよ…ていうか、用事はそれじゃないんだった」


 谷川がこほんと咳払いをし、再び俺を見た。


「警察の方がお見えになってるぞ。岩見って方だ」








「やあ、また会ったね。」


 校門の前で、岩見が待ち受けていた。

 俺が提供出来る情報は、全て渡したはずである。

 にも関わらず俺を訪ねに来たという事は、今度は俺に対して何か引っかかるものがあったという事なのだろうか。


「そうビクビクするなよ、何も逮捕しに来たわけじゃない。飲酒喫煙程度じゃ、鑑別にも入れないからな」

「…じゃあ何ですか」

「君が渡してくれた証拠のバッグの中に、これが入っていた」


 彼が差し出した封筒には『峰大河様へ』と書かれていた。


「証拠物件の一つだから、封を開けて中は改めさせてもらったが…やはり君に渡すのが筋だと思ってな」

「これは…」

「じゃあな、今度こそ本当に最後だろう」


 そうして岩見は、去っていった。








 急いで帰路に着き、葵との路地裏で、その封筒の中身を出した。

 それは直筆で書かれた、手紙だった。







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