第7話 絶望の盟約と、一つの可能性
リ・ユエの周りで渦巻いていた、世界の理を歪ませる力が、俺の言葉と古文書の文字によって、徐々に鎮まっていく。書庫の空気は重く、古紙の匂いに混じって、切迫した緊張感が漂っていた。
「…その注釈に記された、『贄の魂を鎖から解き放つ術』とは、なんだ」
リ・ユエは、その静かな声の中に、隠しきれないほどの焦燥を滲ませていた。彼はもう、世界の柱としての諦念ではなく、一人の人間としての希望を求めていた。
俺は、古文書のその一文を、震える指でなぞった。
「ここに書いてある。『贄の魂を鎖から解き放つには、盟約を結んだ者と同等の、世界の理の外側にある魂が必要』…そして、『その魂が、贄と等しき価値を持つことを証明し、盟約の儀式に代償を払う』、と」
俺が読み上げると、リ・ユエの顔から血の気が引いた。
「…世界の理の外側にある魂。それは、君のことだ」
「ああ、そうだろうな。俺の転生は、このための伏線だったのかもしれない」
俺は、悪役令息シン・ジエンの姿をしているが、中身はゲームの世界の外から来た人間だ。リ・ユエの能力が、俺の魂の『痕跡』を感知したのも、このためだろう。
「だが、『等しき価値を持つことを証明し、代償を払う』…それは、つまり、私の代わりに君が、世界の柱となるということか?」
リ・ユエの瞳に、再び恐怖と、そして拒絶の色が強く浮かんだ。彼は、絶望的な運命から逃れられない自分を知っているからこそ、俺を巻き込むことを恐れたのだ。
「ありえない。君を、私の代わりに世界の鎖に繋ぐなど…」
リ・ユエは強い力で古文書を閉じようとした。その指先が、紙を破りかねないほど震えていた。
「待て、落ち着け!」
俺は、彼の腕を両手で掴み、その行動を制した。
「よく読め。『世界の柱となる』とは書いていない。書いてあるのは、『等しき価値を持つことを証明する』だ。そして、代償を払う、と」
俺は、リ・ユエの凍りついた目を、まっすぐに見つめた。
「俺の知略は、この世界のシステムを解析できる。あんたの狂気の源は、あんたの心が孤独で摩耗していることだ。世界の維持に必要なのは、力そのものじゃない。世界とリ・ユエを繋ぎ止める、強固な『絆』なんだ」
俺は、古文書の注釈に記された、もう一つの可能性を信じていた。この盟約は、魂の置き換えではない。魂の共有だ。
「俺が払う代償は、あんたを孤独から解放することだ。俺の魂を、あんたの鎖の隣に繋ぐ。そうすることで、あんたの心が壊れるのを防ぎ、世界を安定させる。俺は、あんたの共同の柱になるんだ」
俺の言葉を聞いたリ・ユエの目に、大粒の涙が浮かんだ。彼は、何百年も一人で世界を背負い、誰にも理解されずに生きてきたのだろう。彼の頬を伝うその一滴は、世界の柱ではなく、ただ一人の青年が流した、解放への涙だった。
「…君は、自分の命を、危険に晒すことになる」
リ・ユエの声は、かすれ、震えていた。
「俺は、非力な悪役令息だ。チート能力は、この知略しかない。だが、この知略で、あんたの命と、この世界のバッドエンドを、両方回避してみせる」
俺は、リ・ユエの冷たい頬に手を当てた。
「さあ、リ・ユエ。俺の新たなプロットのクライマックスだ。盟約の儀式を行う場所を探すぞ」
リ・ユエは、俺の手をしっかりと握り返した。彼の掌は、まだ冷たかったが、そこに宿る力は、確かな信頼と、新たな決意に満ちていた。




