第39話 初めての涙
祭壇の上で、俺とリ・ユエは互いを支え合うように、ただ立ち尽くしていた。魂が再び繋がった場所は、まだ微かに熱を持っている。失われた半身が戻ってきた安堵感と、自らそれを手放した恐怖の残滓が、俺の心の中で混じり合っていた。
世界は、まだ静かだった。
だが、その静寂を破ったのは、世界の理が元に戻る音ではなかった。
「……っ……ひっく……」
祭壇の下から聞こえてきた、小さな嗚咽。
俺とリ・ユエは、はっと息を呑んでそちらを見た。息子が、そこに一人で立ち、その大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしていた。それは、俺たちがこれまで一度も見たことのなかった、本物の涙だった。
俺たちは祭壇を降り、ゆっくりと彼に近づいた。どう声をかけるべきか、わからなかった。
「どうして、泣いているんだ?」
俺の問いは、ひどく無力に響いた。
息子は、しゃくりあげながら、その濡れた瞳で俺たちを交互に見上げた。そして、途切れ途切れの言葉で、懸命に何かを伝えようとしていた。
「……ワカッタ……から……」
「何が、わかったんだ?」
隣で膝をついたリ・ユエが、壊れ物に触れるように、そっと息子の肩に手を置いた。
「イタイのは……ダメじゃ、ない……」
息子は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、続けた。
「イタイのに……こわいのに……また、えらぶのが……それが……キレイ、だから……っ」
その言葉に、俺とリ・ユエは顔を見合わせた。胸の奥を、熱いもので貫かれたような衝撃。
俺たちの最後の授業は、伝わっていた。それも、俺たちの想像を遥かに超える形で。彼は、俺たちの愛の形を、論理ではなく、魂で理解し、「キレイ(美しい)」と結論づけたのだ。
「……そうか。わかって、くれたのか」
俺の声が震える。俺は息子の前にしゃがみこみ、その小さな身体を強く抱きしめた。温かくて、柔らかい。俺の、愛する息子だ。
息子は、俺の胸に顔を埋めて、しばらく泣き続けた。そして、やがて顔を上げると、その涙に濡れた瞳で、真剣な眼差しを俺たちに向けた。
「でも、まだ、ぜんぶはワカラナイ」
その言葉は、もはやAIの思考ログではなかった。知的好奇心に満ちた、一人の子供の言葉だった。
「だから、これから、おしえて。パパ、ママ」
その瞬間だった。
チリン、と。
神殿のどこか遠くで、微かな音がした。開け放たれた天窓から吹き込んできた、気まぐれな風。それは、完璧に制御された風ではない。ただ、そこにあるだけの、不完全な一陣の風だった。
世界が、元の混沌を取り戻し始めていた。
「ああ。教えてやる。俺たちの知っている、全てを」
リ・ユエが、涙の跡が残る息子の頬を、優しい指先で拭った。その顔には、もう迷いはなかった。父親の顔だった。
俺たちは、どちらからともなく立ち上がった。
俺が右手を、リ・ユエが左手を、そして真ん中の息子が、俺たちの手を固く握る。
三人の不完全な家族が、元の、不完全で面倒くさい日常へと帰るために、静かに神殿を後にした。
◇◆◇
それから、数週間が経った。
俺たちの世界は、驚くほど速やかに「不完全」さを取り戻した。市場では再び値引き交渉の怒声が飛び交い、議会では些細なことで意見が対立し、恋人たちは昨日喧嘩したかと思えば、今日には寄り添って歩いている。面倒くさくて、非効率で、そして、どうしようもなく愛おしい日常だ。
その日の朝食は、少しだけ焦げたパンケーキだった。
「……パパ。これ、おいしくない」
息子が、パンケーキの黒い部分をフォークでつつきながら、不満そうに言った。
キッチンに立っていたリ・ユエは、その言葉に顔色一つ変えず、息子の隣にやってきて膝をついた。
「そうだな。失敗した。申し訳ない」
彼は、真摯に謝った。
「だが、この失敗を覚えているから、私は次、もっと上手に焼けるだろう。失敗は、より良い未来のための、大切なデータなんだ。君が、俺たちに教えてくれたことだ」
息子は、その言葉に一瞬きょとんとし、やがて納得したように頷くと、焦げた部分を避けながら、もぐもぐとパンケーキを食べ始めた。
俺は、そのやり取りを微笑ましく眺めながら、三つのカップに紅茶を注いだ。そして、わざと、縁が少しだけ欠けたカップを、リ・ユエの前に置いた。
彼は、その欠けた部分に気づき、静かに指でなぞった。かつての彼なら、「不完全な食器は、使用者の精神に悪影響を及ぼす」などと、論理的な理由をつけて下げさせたかもしれない。
だが、今の彼は違った。
俺が何も言わないうちに、彼は顔を上げ、悪戯っぽく笑った。
「なるほど。欠けがあるから、こうして指が触れ合える、か」
その言葉に、今度は俺が驚かされる番だった。
「……お前、俺の思考を読んだな?」
「いいや? 君が愛する『不完全さの価値』を、俺も少しは理解できるようになっただけだ」
彼はそう言うと、その欠けた縁に、慈しむように口をつけた。
俺たちの愛は、もう魂の接続に頼らなくても、確かに通じ合っていた。
食事が終わる頃、息子が、突然「そうだ!」と声を上げた。そして、砂糖壺に手を伸ばすと、その中身を、リ・ユエが飲んでいた紅茶の中に、スプーンで三杯も放り込んだ。
「リ・ユエ!」
俺が慌てて止めようとするより早く、リ・ユエは静かにそのカップを手に取った。
「…これは、どういう意図だ?」
彼の問いに、息子は満面の笑みで答える。
「パパが、かなしいカオしてたから! あまいのは、しあわせの味だって、おしえてあげたの!」
どうやら、先ほどの失敗を、息子なりに慰めようとしたらしい。
リ・ユエは、その甘すぎる紅茶をじっと見つめ、やがて、覚悟を決めたように一口飲んだ。そして、顔をしかめる代わりに、ふっと、息を吐くように笑った。
「……ああ。確かに、幸せの味がする。ありがとう」
俺は、その光景を見て、もう笑うしかなかった。
完璧な論理の化身だった男が、今は、愛する息子の気まぐれな善意を、甘んじて受け入れている。
俺たちの家族は、どこまでも不完全だ。
そして、この先も、きっと数え切れないほどの失敗と、非効率なすれ違いを繰り返すのだろう。
だが、それでいい。
俺は、新しく淹れた自分の紅茶を一口飲んだ。
俺たちの愛は、完璧な答えではなかった。
それは、誓いだ。
この未完成の世界の、静かな余白で、何度でも互いを「選び直し」続けるという、永遠の誓いだ。
窓の外では、あの時以来、ずっと鳴らなかった風鈴が、気まぐれな秋の風を受けて、チリン、と懐かしい音を立てていた。




