第21話 愛のバグと、父親たちの論争
侯爵家の広間は、朝になっても静寂に包まれていた。リ・ユエは警戒を解かず、子供から約二メートル離れた位置に立ち、その存在を「解析」し続けている。
「リ・ユエ、落ち着け。朝食にしよう」
俺はソファに腰掛け、子供を膝に乗せた。子供は満足そうに俺にしがみついている。
リ・ユエは微動だにしない。
「解析続行中です、シン・ジエン。この存在は、私の異能のシールドを無力化する。君の『愛の余白』から生まれたと仮定すれば、この子が持つ力は、私たち二人の魂の接続に由来する可能性が高い」
「理論はいい。とりあえず、この子が腹を空かせているかもしれない」
「飢餓による暴走のリスクは、現時点では0.03%です。それよりも、この子が君の愛情を独占しようとする意図を解析する方が優先だ」
リ・ユエは、苛立ちを隠せない様子で、子供を睨みつける。その目は、以前のエラーコードを排除する時と同じ冷徹さだ。
子供は、リ・ユエの視線に気づくと、俺の首に腕を巻き付け、リ・ユエに向かってニヤリと笑った。
「見てみろ、リ・ユエ。完璧に嫉妬を理解しているぞ」
「嫉妬? それは、所有権の侵害に対する、論理的な防御反応にすぎません」
「違うね。それは、論理を超えた感情だ。そして、あんたも今、その独占欲を子供に抱いている」
リ・ユエの表情が凍り付いた。
「…否定します。私はこの存在に対し、秩序の回復という義務感しか抱いていません」
その言葉を聞いた瞬間、子供が「うーん」と唸った。すると、広間に置いてあった豪華なクッションが、一瞬で巨大なハート型に膨らみ、リ・ユエの足元に転がった。
「…これは?」リ・ユエは困惑する。
「見てみろ。子供の感情の具現化だ。『お父さん(俺)への愛』を、『邪魔な存在への皮肉』として具現化したわけだ」
俺は笑いをこらえきれない。世界システムのバグが、こんなにもコメディな形で現れるとは。
「排除します」
リ・ユエがクッションに手をかざすと、クッションは元に戻った。しかし、その力は、以前のように空間をねじ曲げるような強大なものではない。
「無駄だ、リ・ユエ。この子はあんたの異能を吸収しているわけじゃない。あんたがこの子に抱く嫉妬と、この子の無邪気な独占欲が共鳴して、現象を引き起こしているんだ」
俺は子供を優しく抱きしめた。
「俺に必要なのは、排除じゃない。あんたがこの子に『無償の愛』を学ぶことだ。これが、あんたを論理の奴隷から解放し、真の人間にする、俺の教育計画だ」
リ・ユエは、俺のその言葉に衝撃を受けたように目を見開いた。
「君は…私に父親になれと?」
「そうだ。恋人から父親へ。愛を『所有』から『守護』へと進化させるんだ。この子が、あんたの『愛の次元』を上げるための鍵だ」
リ・ユエは、しばし沈黙した後、ゆっくりと息を吐いた。
「…論理的には、極めて非効率的だ。しかし、君の魂の安定に繋がる可能性がある。承諾します。ただし、観察と解析は続行する」
リ・ユエは一歩近づき、子供の頭にそっと触れようとした。子供は俺の首に強く抱きつき、リ・ユエに向かって威嚇の光を放った。
「シン・ジエンは、僕だけのもの!」
子供は初めて、はっきりとした言葉を発した。
「ああ、そうだろうな。でもな、このリ・ユエは、俺の人生の一部だ。そして、あんたは未来の家族だ」
リ・ユエは、その子供の強烈な拒絶に、目を見張った。彼は、愛という名のバグが、いかに強大で予測不能な力を持っているかを、身をもって知った瞬間だった。
「…解析続行。この感情の複雑さは、世界のシステム構築よりも難しい」
リ・ユエはそう呟き、俺から一歩距離を取った。彼の顔には、最強の異能者としての自信ではなく、初めての父親としての戸惑いが浮かんでいた。




