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第20話 世界システムの余白からの“誕生”

 侯爵家の朝は、以前にも増して完璧だった。


 俺、シン・ジエンは、昨日リ・ユエが淹れた紅茶の温度と濃度を正確に記憶している。その隣には、俺の健康状態と今日の政務リスクを数値化した、リ・ユエの自作データシート。そして、その全てを無言の圧力で監督するリ・ユエ本人がいる。


「シン・ジエン。君の今日のストレス値は3.2%で、昨日より0.1%上昇しています。原因は、朝食のパンに塗ったジャムの量が、許容範囲を超えていたためと解析します」


 リ・ユエは静かに言った。その瞳は、青く澄み切っている。かつて世界を崩壊させかけた狂気的な力は、今、俺の心身の最適化という名目で使われている。


「それはジャムじゃなくて、俺の自由だ、リ・ユエ」


 俺はため息をつき、ソファに身を沈めた。


 前作で、俺たちはリ・ユエの「独占欲」を「愛」としてシステムに承認させた。その結果、彼の愛は「支配」から「保護」へと性質を変えたが、その過保護は、もはや息苦しい溺愛という名の新たな監獄だ。


「保護と自由は同義です。君の破滅は、世界の破滅を意味します。私はそれを二度と許さない」


 リ・ユエは俺の隣に座り、まるで猫のように、俺の肩に頬を擦り寄せた。この行為が、彼の「愛情の表示」であり、「対象の異常なし」というシステムへの報告なのだ。


「わかったよ。あんたの愛は最強だ。だから、頼むから俺の昼食の献立を政務より優先するのはやめてくれ」


「君の栄養バランスは、国家予算よりも重要です」


 この男との論争に、知略は通用しない。彼の愛は、もはや論理ではなく、信仰の領域に入っている。


 その日の深夜、侯爵家の時計がすべて止まった。


 チクタク……という音が消え、静寂が屋敷を包み込む。俺はベッドから飛び起きた。リ・ユエはすでに警戒態勢に入っており、異能の青い光が彼の指先に微かに灯っている。


「システムエラーだ。リ・ユエ、何が起こった?」


「解析できません。この静止は、世界の法則から外れています。私の異能も、この現象の起点を探知できない」


 リ・ユエは、何かに焦燥しているように、鋭く周囲を見回す。彼の異能が感知できないものなど、この世界には存在しなかったはずだ。


 その時、リビングの方から、微かな水の滴るような音が聞こえた。


 俺たちは静かにリビングに向かった。


 広間の中央。そこに、水と光の粒子が収束してできたような、七歳ほどの中性的な子供が立っていた。子供は裸だが、その身体は淡い光を放ち、リ・ユエの異能とは異なる、清澄な青色を帯びていた。


 リ・ユエは一瞬で臨戦態勢に入った。


「システム外存在! 排除します!」


 彼の指先から、青い異能の光が放たれようとした、その刹那。


 子供は、リ・ユエの異能を無効化した。


 光は霧散し、リ・ユエの瞳に、激しい動揺と困惑が走る。


「…解析不能。私の力が、通じない」


 子供は、リ・ユエには一瞥もくれず、俺の方へと歩み寄ってきた。そして、小さな手を俺のズボンにぎゅっと掴ませた。


 その瞬間、俺の魂に、圧倒的な愛のエネルギーが流れ込んできた。それは、リ・ユエの愛と同じ熱量を持つが、より無邪気で、純粋な独占欲に満ちている。


 子供は俺を見上げ、その青い瞳を細めた。そして、リ・ユエの方を振り返った。


 ギュッと、その小さな瞳に強い嫉妬が宿る。


 リ・ユエは、その子供の感情を、魂の繋がりなしで感じ取った。


「シン・ジエン…この、存在は…」


「まるで……俺とリ・ユエの『愛の副産物』みたいだな」


 俺は、呆然としながらも、どこか嬉しそうな笑みを浮かべた。


 リ・ユエは、俺のその言葉に顔色を変えた。


「笑えない冗談だ。システム外の存在は、世界の秩序を脅かすバグだ。排除します」


 リ・ユエは再び異能を集中させたが、その力は子供の無邪気な愛のバリアによって、再び霧散した。


 子供は、満足そうに俺の足にしがみつくと、リ・ユエに向け、ニッコリと笑った。その笑みは、俺の愛を独占した勝利の表情だった。


「リ・ユエ。落ち着け。この子は、害じゃない。これは、俺たちの愛が強固すぎた結果だ」


 俺は確信した。この子は、俺たちの「世界システムを超える愛」が、世界の余白に生み出してしまった、未来の鍵を握る存在だ。


 俺の知略は、今、子育てという、最も非論理的なシステムエラーに挑むことになったのだ。

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