第13話 鎖の無い世界で
俺の腕の中で、リ・ユエは静かに呼吸を繰り返していた。祭壇の青い光は消え、神殿には静寂が戻っている。床に描かれた盟約の文字は、もはや何の力も持たない、ただの装飾になっていた。
「…終わったのか」
リ・ユエの声は、信じられないほど穏やかだった。数百年の重圧から解放された、本当の彼の声だ。
「ああ。俺の知略が勝った。あんたはもう、世界の柱じゃない。ただの、俺の共同の柱だ」
俺は、力の抜けたリ・ユエを支えながら、ゆっくりと立ち上がった。体は鉛のように重いが、心はかつてないほど軽かった。魂を繋いだことで、リ・ユエの安堵感が、そのまま俺の喜びとして伝わってくる。
「君の魂は、私を破壊しなかった。それどころか、私に…人間の感情を与えた」
リ・ユエは、自分の手のひらをじっと見つめている。
「私は、この数百年間、ただ世界を維持するための機能だった。怒りも、悲しみも、狂気も、全てが世界を繋ぎ止めるためのエネルギーでしかなかった。だが、君と魂を繋いだ瞬間、私は初めて…孤独ではないと感じた」
彼の瞳から再び涙がこぼれたが、それはもう悲しみの涙ではない。生を実感する、温かい涙だ。
「それを『愛』と呼ぶんだ、リ・ユエ」
俺は笑いながら、彼の頬を拭った。
「さて、世界のシステムは安定した。でも、俺たちの物語はまだ終わってないぞ。俺は、悪役令息シン・ジエンとして、元の侯爵家に戻る必要がある。そして、あんたは…」
リ・ユエは、俺の言葉を遮った。
「私は、君と一緒に行く。君は私の天啓だ。君から離れれば、私は再び、世界のシステムに引き寄せられかねない」
彼は、俺の腕を掴み、離そうとしない。その行動は、もはや世界の柱の理屈ではなく、一人の人間の強い依存心と愛情だった。
「わかったよ。だが、一つ約束しろ。二度と、俺に『君を壊す』なんて言うな。俺は、あんたの狂気も孤独も、全部ひっくるめて受け入れると決めたんだ」
「…ああ。約束しよう。君は、私にとっての新たな理だ」
◇◆◇
神殿を出た俺たちは、元の侯爵家に戻った。
数日後。侯爵家では、シン・ジエンが悪役令息としてではなく、若き天才貴族として、着実に権力を固め始めていた。俺の知略で、父侯爵が抱えていた財政問題や、領地の統治問題を次々と解決したのだ。
そして、俺の隣には、常にリ・ユエがいる。彼は、俺の護衛という名目で、常に俺の傍を離れない。
「シン・ジエン。今日の領地会議の報告書だ。君の指示通り、効率化を最優先に処理した」
リ・ユエは、完璧な書類を俺のデスクに置いた。彼は、今や俺の秘書であり、最強の異能者であり、そして魂を共有する唯一の存在だ。
「完璧だな。あんた、秘書としては優秀すぎるだろ。もしかして、世界のシステムを解析するついでに、ビジネスのシステムも解析したのか?」
「ああ。君の要求は、世界の安定と同じくらい重要だ」
リ・ユエは、真顔でそう言い、俺の肩越しに窓の外を眺めた。
「…シン・ジエン。君が望むハッピーエンドとは、具体的にどのような結末だ?」
俺は書類から顔を上げ、リ・ユエの腕を引いて、俺の膝の上に座らせた。彼は、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに俺に身を委ねた。
「そうだな。俺の望むハッピーエンドは、悪役令息の成功と、世界の柱の自由、そして…」
俺は、リ・ユエの青い瞳を覗き込む。彼の瞳には、もう世界を繋ぎ止めるための重い鎖はない。あるのは、俺の姿だけだ。
「そして、俺たちが、この『物語の外側』で、誰にも邪魔されずに、俺たちの愛を育てていくことだ」
俺は、リ・ユエの唇に、静かにキスをした。
リ・ユエは、戸惑いながらも、そっと俺の首に腕を回した。彼の体温が、俺の冷たい悪役令息の魂を、温かく包み込んでいく。
「…ああ。その結末を、私は全力でサポートする」
世界の命運は、ひとまず安定した。
しかし、新たな問題が生まれた。それは、最強の力を手に入れた秘書が、俺に過保護すぎるということだ。俺の周りを常に『システムエラー(危険人物)』と見なし、俺に近づく全ての人間を、狂気的な力で牽制しようとするのだ。
俺の新たなプロットは、バッドエンドを回避した悪役令息と、最強の愛が重すぎる元・世界の柱の、ドタバタな溺愛BL物語へと変わっていった。
(第一部――完。そして、物語は続く。)




