【48話】邪神との契約
プロローグの正体。
幼少期のフィアネ視点です。
フィアネ・シルフェール伯爵令嬢はたった五歳にして、この世界を憎んでいた。
「いいか教えてやるよフィアネ。お前の価値はただひとつ、俺に殴られること、それだけなんだ! それ以外何もねぇんだよ! ハハハハハ!!」
父が笑いながら殴りつけてくる。
殴られるようなことはフィアネは何もしていない。
理由もなく、でもそれが当たり前かのように、父は今日もまた拳を振るってきた。
頬を殴られたフィアネの体がリビングの床に転がった。
頬の内側が切れて、口の中に血の味が広がっていく。この味にも、もうずいぶん慣れた。
そんなフィアネを、母はじっと見ていた。
殴られて横たわっている一人娘に手を差し伸べることもなく、ただひたすらに冷たい瞳で見下ろしている。
「……汚らわしい子。あなたなんて産まなければ良かった。不快だから早く死んでちょうだい」
これがフィアネの全てだった。
毎日の中にあるのは暴力と罵声のみで他にはなにもない。
あるのは真っ黒に染まった絶望、ただそれだけ。
そんなものにずっと体を浸し続けているフィアネの心には、深い憎しみが根付いていた。
喜々として殴りつけてくる父親。
早く死んでしまえ、と罵声を浴びせてくる母親。
そして、自分を取り巻く絶望しかないこの世界。
そのすべてが憎い。もういっそなにもかも、ぐちゃぐちゃに壊れてしまえばいいのに――いつ頃からだろうか、毎日そんなことばかりを考えるようになっていた。
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「ふー。今日もいっぱい殴ったぜ」
リビングに横たわるフィアネのみぞおちに、父がつま先をぐりぐりと押し込んでくる。
「お前も楽しかったか? もちろん楽しかったよな?」
「……」
「だったらお礼をしないといけないよな。今日もいっぱい殴ってありがとうございますお父様、って言ってみな?」
フィアネは何も答えられない。
殴られすぎて、一言発する気力すらも残っていなかった。
父の傍らにいる母はいつも通り、フィアネに冷たい視線を向けるだけ。
心配する素振りなど微塵も見せない。
「てめぇおい! 俺を無視してんじゃねぇよ!!」
怒声を上げた父が、フィアネの腹をおもいっきり蹴った。
その衝撃で、熱いものがせり上がってくる。
フィアネの口から出た血が、じゅうたんに飛び散った。
「なに汚しているのよ! このじゅうたん買ったばかりなのに!」
馬乗りをしてきた母に、頬を平手打ちされる。
一度だけではない。何度も何度もだ。
フィアネはもう痛みすら感じていなかった。
痛覚がマヒしていた。
「なんて親不孝なガキだ。これは特別なお仕置きが必要だな」
父に襟首を掴まれる。
フィアネを引きずりながら、父はリビングを出て行く。
そうして連れて来られた先は地下の物置だった。
物置の扉を開けた父は、そこにフィアネを放り投げる。
「この中で反省してろクソガキ」
それだけ言って父は扉を閉めた。
直後、ガチャンという音が聞こえた。
フィアネは体を引きずりながら扉まで近づき、開けようとする。
でも、扉は開かなかなかった。
ガチャンという先ほどの音は、父が外から鍵を閉めた音だろう。
ひとつの明かりもない物置は何も見えない。
カビの臭いが充満する真っ暗闇の空間に、フィアネは閉じ込められてしまった。
「どうして私がこんな目に」
その場に横たわったフィアネの瞳から涙がこぼれ落ちる。
何か悪いことをしただろうか――いいや、していない。ひとつだってしない。
それなのにどうして自分だけが、こんなに辛い思いをしなければならないのか。
おかしい……おかしいおかしいおかしい。こんな世界、絶対に間違っている。
「ぜんぶぜんぶ、壊れちゃえばいいのに……!」
『……面白いことを言うではないか』
「――ひっ!?」
『おお! 貴様、私の声が聞こえるのか!』
暗闇の中、突如として声が聞こえてきた。
この地下室にはフィアネ以外誰もいないはずだ。
正体不明の声に恐怖したフィアネは体を縮こませる。
「……だ、だれ?」
『驚かせてしまったか。これはすまない』
正体不明の声は穏やかで、そしていたわってくれている。
暴力と罵声だけが日常だったフィアネにとっては、この家で触れる初めての優しさだった。
正体不明の声は、物置の奥の方から聞こえている。
フィアネはそこへ向けて、傷だらけの体を必死によじっていく。
「水晶玉……?」
声の正体は小さな水晶玉だった。
手で触れてみると、ところどころひび割れ欠けていることが分かる。かなり古いものみたいだ。
『私はこの中に閉じ込められているんだ。もう千年間もずっとね』
「閉じ込められてるの、私とおんなじ。かわいそう……」
『ありがとう。しかし驚いたな。私の声を聞こえる者に会うのは初めてだ。少女よ、名は何と言う?』
「フィアネ……フィアネ・シルフェール。あなたは?」
『私はアダムル――邪神の名を冠している』
「じゃしん? ……よく分かんない」
『ははは。少し難しかったか。……して、先ほどはずいぶんと面白いことを言っていたな』
「え?」
『全部壊れればいい――そう聞こえてきたが、あれは本気か?』
フィアネは小さく、けれどもしっかりと頷く。
「お父様は毎日私を殴るの。お母様は毎日私にひどいことを言ってくるの。私、なんにも悪いことしてないのに……! なんで!? どうして!?」
『ひどいケガを負っているのはそれが理由か。貴様の両親は性根が腐っているな。……フィアネよ。この世界が憎いか?』
「憎い……!」
『全部壊してしまいたい?』
「私をいじめるものは、みんなみんな死んじゃえばいいんだ……!」
『世界の破滅を願うか……私と同じだな』
アダムルの声が、ふふふ、と喜びに震える。
『これも何かの縁だ。この邪神アダムルが、その手助けをしてあげよう。ただし、私の願いも叶えてほしい』
「アダムルのお願い?」
『あぁ。……十年だ。十年経ったらその体を私にくれ。貴様には素質がある。最高の器となるだろう』
「分からないけど……私、死んじゃうの?」
『入れ替わった際には、貴様の自我は完全になくなる。そう言い換えても差し支えないだろうな。だが今のままでは、貴様は近いうちに両親に殺されてしまうぞ。その傷を見れば分かる』
アダムルの言っていることは正しい。
それは当人であるフィアネ自身が一番わかっていた。
『今死ぬのと十年生きてから死ぬの、どちらがいい? ……私は強制しない。フィアネ。貴様が好きな方を選ぶといい』
「……私はまだ、死にたくない」
辛いだけの人生なんておかしい。
そんなの絶対に間違っている。
生まれてきた意味をフィアネは知りたかった。
「私、アダムルと約束する」
『よかろう。契約成立だ』
この選択がどういう意味を持つのかはよく分からない。
でもフィアネは今を生きることを強く願い、選択した。




