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死にたいな。
そう思ったことが無いとは言わない。高校の受験のときは何度も思った。友達に影で色々言われていたことを知って、暗い穴に放り込また様な気持ちになったときも死にたいと思った。
祖父が亡くなった時、死ぬことはもう逢えなくなることだと理解した。そして、色んなしがらみや悩み事から開放されて、嫌なことから逃げられる手段のように、楽になれる方法のような気がしていた。
でも、本当に死んでしまうなんて。
高校を卒業して、大学へ行って就職して、恋愛をして結婚をして子供を生んで・・・。
具体的に成したい事も成すべき事もなかったけれど、このまま人生は続いていくと思っていた。
それがいきなり断ち切られてしまうなんて。
桜子はあまりのことに胸の中がちりちりと焦げて締め付けられている気がした。
「あ、あの」
少年の声に我に返った。
「正確には完全に亡くなったわけではないんです」
桜子の視線を感じて一瞬目を逸らしたが、唇を噛んで見詰め返した。
しかしとよく見てみると桜子の目には力が無く、少年の体を通り越して別の何かを見詰めていた。
「僕は一度で魂を回収することが出来ないんです。だからまだ桜子さんの体はこっちに存在できています。師匠か先輩に話して何とか・・・何とかします」
少年の言葉は虚しく桜子の体からも心からもすり抜けてしまったようだ。
聞こえているのか聴くことを拒絶しているのか、桜子は目を見開いたまま微動だにしない。
「キッチンお借りします」
少年は部屋の中を見回し、扉をすり抜けて階下へ消えていった。
しばらくして帰ってきた少年は大きなマグカップを手にしていた。
「勝手にお借りしました」
片手にカップを持ったままで、不器用に桜子の手を開きそっと持たせる。
すると、桜子の瞳が戻ってきた。掌の中のマグカップを反射的に掴み、驚いたように目を落とす。
カップの中には温かい紅茶が入っていた。
「これ、入れてきてくれたの?」
「勝手にお借りしました」
同じ言葉を硬い表情で繰り返す少年の鼻は赤くなり、瞳の淵にも擦った痕があった。
「ありがとう」
あまりに真剣な顔で見詰められて、桜子は思わず笑ってしまった。
すると少年はあからさまに安堵した表情で、力が抜けたようにヘナヘナとその場に座り込んだ。
まだ混乱しているし、胸には大きな穴が開いたようで息も意識をしないと吸えないが、柔らかく立ち上る湯気を眺めていると、次第に頭が働いてきた。
「!」
一口紅茶を飲んでみると、飲み下すのが難しいほど甘かった。よく見るとカップの底には溶け切れなかった砂糖が残っている。
少年が慣れない台所で悪戦苦闘して紅茶を淹れる様子を想像して、桜子の唇が解けた。
「おいしいよ。えっと、君は何君?」
「あ、僕レグルスといいます」
少年は姿勢を正してぺこりと頭を下げた。
そうしていると、良い所のお坊ちゃんにしか見えない。
「あなたは・・・人間?じゃないよね。死神?悪魔?妖怪?妖精?幽霊?」
「そっ、そんな悪魔なんて滅相もないです!」
両手を振って否定しながらも顔がにやけている。
喜ばれるようなことを言ったつもりの無い桜子はその笑顔に不本意ながら、少しだけ癒されてしまった。
「僕はまだまだ半人前で、師匠や先輩みたいな立派な悪魔にな・・・りたかったんです・・・でも、間違って桜子さんの魂を奪ってしまって・・・ごめんなさい」
明るく興奮したように話していた表情が一瞬で沈んでしまった。
まるで百面相だ。
「あたし、死んでないって言ってなかった?」
「はい。半分死んでるというか・・・死に切れていないというか・・・」
可愛い顔で恐ろしいことを口走る。
「すみません」
しゅんとして俯いたレグルスの全身から疲労感やら挫折感やら色々とモヤモヤしたものが滲み出ている。先ほどまでの輝かしいまでの美少年ぶりはどこかへ消えてしまったようだ。
桜子はベットに腰掛けてその見事な落ち込みっぷりを観察している。
何となく電気はつけないままでいるが、それを忘れてしまいそうになるほど暗さが気にならない。見たいものは日中の中で見えるのと変わらないのだ。
壁際に置かれた大きな本棚の小説のタイトルもデスクに置かれた時計の秒針まで読める。
夜目が利くようになったということか。
それが自分が死んで幽霊にでもなった証拠のような気がして落ち着かない。
落ち込み中のレグルスに問い質したいことや言いたい事がそれこそ山のようにあるが、あまりの落胆振りにどう声を掛けていいのか悩んでしまう。
本当に悩んでいるのは半分【殺された】桜子の方のはずなのだが・・・。
ふと壁に立てかけてある姿見が目に入った。
(映らなかったら・・・どうしよう)
怖いもの見たさに近い感覚で、桜子はそろそろと立ち上がり何気ない様子を装って鏡の前に立った。
恐る恐る覗き込んだが、いつもと同じ寝癖のついた髪にシャツに短パンと言う姿の自分が映っていた。
「良かった・・・」
思わず言葉が出た。
肩より少し長い髪、眉と瞳の中間で切りそろえられた前髪、顎に出来た赤いにきび、自分ではなかなか気に入っているたれ気味の大きな瞳、小さな鼻、節々が少し目立つ痩せぎすの腕や足。
体が透けて背景が見えることも、足が消えてなくなっていることも無かった。
「本当にすみません」
少年の声に振り返ると琥珀色の瞳は涙を浮かべ、唇はワナワナと震えている。虐めているような気持ちになってしまう。桜子の行動と言葉から色々察しったようだ。
「えっと、あの、説明してもらえるかな?」
桜子は少年の前に座り込むと、彼に倣って正座した。
「そ、そうですよね。僕も混乱してるんであれなんですけど・・・」
レグルスはそう前置きすると大きく息を吸い込んだ。
「師匠が人間と契約して、契約が果たされたら報酬の魂を貰うのが僕の仕事なんです。しかも今回が初仕事で・・・やっとお仕事を任せてもらって、張り切ってたんです。でも僕、契約者の飯沼柚子さんと桜子さんを間違ってしまって・・・失敗しちゃって・・・師匠に殺される・・・先輩に怒られる・・・」
元々水っぽい声で話していたのが段々聞き取り不可能になってきた。
お隣のおしとやかな柚子がどんな契約をしたのか気になったが、魂と引き換えなんて神頼みでは足りない願い事だったのだろう。
「その師匠さんとか先輩は元に戻す方法とか知らないの?」
「わかりません・・・」
ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らしながら肯定する。
「師匠が飯沼柚子さんと契約したのが13日前。で、契約内容を果たしたんですが思ったよりも時間がかかってしまって、次の契約を遂行するためにどこかへ行ってしまったんです。師匠は基本的に行方不明なので、一旦どこかへ言っちゃうとあっちから連絡が無い限り、こっちからは・・・」
師匠が聞いてあきれる。どんな放蕩爺さんなのだろう。
「でも、先輩ならきっと迎えに来てくれます」
言葉とは裏腹にレグルスの表情は晴れない。いや、逆に沈んでいる。
「先輩は僕の失敗を見つけて虐めるのが大好きですから・・・」
あまりに沈んだ様子に桜子が声を掛けようとしたとき、背後から冷たい空気が流れてきた。
窓は閉めているはずなのに・・・。と、桜子が振り返るのとレグルスが息を呑むのが同時だった。
「コレは一体どういうことですか?レグルス」
窓の外に大きな人影らしきものが立っていた。