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イオの『悪魔誑し』の妙技を目撃した翌日、桜子はまたもや暗いうちに急かすようなノックに起こされた。
ヴァルナの用意してくれたネグリジェと表現するしかないような寝巻きでイオの前に出るわけにもいかず、肩からシーツを被って渋々招き入れると、イオはミザルを連れていた。
「ごめんね、朝早くから」
と、全く悪びれた様子も無く、悪魔を誑すとびきりの笑顔だ。
だが、早朝の割にはシャツには皺が入っているし、ネクタイも結ばれずに首に掛かっているだけで、なんだか疲れているようにも見える。
「あの、私を睡眠不足にして何か得でもあるんでしょうか?」
眠たい倦怠感で言葉遣いがぞんざいになるのは致し方ない。
「違うよ~、桜子ちゃんって寝起きのポヤンとした感じが可愛いからさ、それが見たくってこの時間に来ちゃうんだよね」
一瞬動揺しかけたが、何とか顔に出す前に理性で表情の変化を押さえ込んだ。
・・・込めたはずだ。
今までの桜子の生活ではお目に掛かれないような美形にこんなことを言われたら、動揺するなという方が無理だ。
だが今回はイオの背後に相変わらず不機嫌一歩手前の顔をしたミザル(本人は至って機嫌が良いそうなのだが)が立っていたので、理性は普段よりも0.1秒早く働いた。
「おはようございます。早くにすみません。内密にお話したいことがあったので」
ミザルが幾分申し訳なさそうに言った。
彼もなんだか疲れたように見える。
「おはようございます。お話ですか?」
「ええ、ちょっとお手伝いをしていただきたいことがありまして」
そこまで言うと筒状の紙をイオに渡し、イオはそれを桜子の顔の前で広げて見せた。
「じゃーん。偽造入学届け」
「偽造?」
広げられていたのは古くて厚みのあるB4サイズくらいの大きさの紙だ。
その紙の中心には大きく円が描かれ、その円の中には細かな文字や文様が描かれていた。その円いがいの場所にも所狭しと文字らしきものが書かれているが、左下の部分だけが丸く残されている。
「コレが完成したら桜子ちゃんは入学できます。はい、後はミザルに任せた」
イオは素早く用紙を桜子に押し付けると、ミザルの背後に回り肩を叩いた。
「はい。桜子さんの事情は先輩から詳しく聞きました。僕も出来るだけ協力させていただきます。で、ですね、僕はこういった文書のコピーが得意です。ですから今回は特別に入学届けを作りましたが、この状態では使えません。少し右手をお借りしても?」
「あ、どうぞ」
桜子が差し出された掌に自分の右手を乗せると、ミザルが腰の小さなバッグから万年筆のようなものを出し、桜子の手の甲にサラサラと何かを描き出した。
描かれたのは先ほどの用紙に描かれたような円と文様。
(魔方陣・・・?)
拙い知識からそれらしい言葉を見つけ出した。
「ミザル、術までの時間がまた短くなったね」
イオが独り言のように呟き、ミザルも視線を桜子の手に据えたまま小さく頷いた。
魔方陣は不思議なことに七色に光り、陽炎のように揺らめいてる。
驚いて思わず手を引きかけたが、ミザルの手がそれを引き止めた。
「・・・?」
ミザルは一瞬首を傾げ、気を取り直すように再び筆を走らせた。
「先輩、羊皮紙を」
「ほい」
渡された紙を描いた魔方陣の上に翳すと、魔方陣は紙に吸い取られるように消えてしまった。
「・・・・・・すごい」
桜子は手の甲とミザルの間で視線を数回往復させてから、慌てて手の甲と掌を確認するように目の前でひらひらと振ってみた。
魔方陣は綺麗さっぱり消えてしまっているし、痛みや不自然な感覚は全く無い。
その間にイオとミザルは羊皮紙を覗き込み、細部まで確認をするように忙しく眼を動かしていた。
「よし、大丈夫そうだ」
イオは満足そうに頷くと口角をぐっと上げるような笑顔を向けてきた。
ミザルも珍しく満足そうな笑みを浮かべているところを見ると、上手くいったのだろう。
「また朝食後に迎えに来るよ。おやすみ」
イオは手にした羊皮紙で肩を叩きながら手を振って部屋を出て行った。
ミザルもそれに続くかと思いきや、イオが部屋を出て行くのを見送ると、そっと桜子に近づいて耳に囁きかけた。
「レグルスのこと、ありがとうございました。桜子さんの事情も分からずあんなお願いをしてしまって・・・。反省しています」
男の子からこんなに丁寧に謝られたことのない桜子は大いに驚いた。
「あ、え、えっと大丈夫です。そんな・・・」
折角押さえ込んでいた動揺が倍になって跳ね返ってきたようだ。
ズルイっ。こんなのフェイントだ!
男の子から耳に囁きかけられる。
そんな今の状態を頭の中で想像して、桜子の顔が真っ赤になった。
「レグルスくん可愛いし、こう怒れないっていうか・・・、とにかく大丈夫です」
自分でも訳の分からないことを言っている自覚が大いにあったが、兎に角頭で考えるよりも先に、言葉が口からポロポロ零れてしまった。
「あんまり甘やかすのもと思うんですが・・・」
眼鏡を押し上げながら視線を逸らしている。
どうやら照れているらしい。
その様子を見て少し冷静さを取り戻した桜子は改めて表情の乏しいミザルを見上げた。
「入学届け、ありがとうございます。もしかして徹夜してくれたんですか?」
「まぁ、そうですね」
言いにくそうにしながら小鼻を掻く。
「偽造ってことは見つかると駄目なんでしょ?」
ミザルはハッとしたように桜子を見下ろすと、
「でも、これは桜子さんが気にすることではないですから。では、失礼します」
若干唐突の感は否めなかったが、逃げるように部屋を出て行った。
桜子は手にしていたシーツを強く握り、胸の中の罪悪感を大きな溜息で吐き出そうと試みた。
「うぅ。帰りたいよぉ」
罪悪感と被害者意識。
両方がせめぎ合い、思考が楽な方へ逃げていこうとする。
私は被害者なんだから、気にすることは無い。
助けてもらって当たり前。
桜子はそんな感情が嫌で仕方が無かった。でも、事実その感情は桜子の頭にも心にも居座っている。
昔からそう。
失敗が怖くて、非難されるのが怖くて自分では何もしない。
何もしないから、何も出来ないし進まない。
きっと誰かが何とかしてくれる。
自分自身に自信なんて一片たりともない。
テレビで漫画で小説で、卑屈な人 物や嫌な人 物が出るたびに自分と重ね合わせて息が苦しくなる。
何度も経験した慣れることの無い思考。
今もそう。
半分殺されて、冥界に連れてこられて悪魔との共同生活。
物 語の中なら、実は自分には不思議な力があって大活躍・・・。でも、そんなことはありえない。
だって私は私だから。
レグルスのことを怒れないのも、自分を諦めているからかもしれない。
(でも)
と桜子は思う。
転地がひっくり返ったような今だったら、何かを変えられるかもしれない。
大きく変えられなくても、一歩踏み込んで行動できるかもしれない。
少しでも自分が好きになれるかもしれない。
生き返ったときに、自分が少しでも好きになっていられるように。
(頑張ってみよう)
自分の中で強い感情を感じたのは久し振りだった。