3.
貴人の前に出てもおかしくないデイドレスに着替えて、応接室に行く。
こういう時、やはり平民は楽だし貴族になるのは面倒だなと思う。日に何度も着替えたり、屋敷の中に居るだけでも礼儀だ作法だととにかくうるさいのだ。
アシュレイ商会は領地一番の財力を持っていても、リルルメイサは平民なので出掛けない限りは気楽な格好でだらけても大丈夫だった。結婚したら、その生活が変わってしまうと考えたら今から憂鬱だ。
応接室の中には、リルルメイサの父と兄、アルベールと彼の父であるプレイストン伯爵まで来ていた。
伯爵とアルベールはにこにことしているが、父と兄は苦い表情をしている。
伯爵が口火を切った。
「やあ、リルル。うちは息子ばかりだったから、うちにお嫁に来てくれて嬉しいよ」
「伯爵。まだ婚約するだけですから」
父が苦言を呈するが、伯爵は陽気に笑う。
「はっはっは。一応は婚約期間を設けるが、いつ嫁いできてもいい。一応、伯爵家の礼儀作法を習ってもらうことになるから、ちょくちょく屋敷に来てもらうことになるだろうし」
礼儀作法。
伯爵夫人は、王宮で女官をしているくらいだから立ち振る舞いなども完璧だった。
平民のダラダラ暮らしていたリルルメイサとは全然違う。
婚約期間中は、伯爵家に出向いて厳しく躾けられ、教育されることになるだろう。そう考えると一気に婚約が嫌になってきた。
やはり、結婚は本人同士の好意など関係ない。家同士の結びつきになるから、貴族は貴族同士で相応しい身分の人が結婚すべきなのだ。
「…………」
血の気が引いて黙り込んでいると、アルベールが優しい笑顔で励ましてくれる。
「大丈夫だよ、リルル。何も難しいことはないから。王都の学園では、誰でも出来ていた」
リルルメイサは王都の学園には行かなかった。学園の中で集団生活、しかも寮で暮らすなど絶対無理だと分かっていたからだ。父も兄も王都の学園で学んだが『リルルは行かなくて大丈夫』と家庭教師を雇ってのんびり過ごさせてくれた。
その分、今窮地に陥っているわけだが。
やっぱり無理なのでは。
「やはり、リルルにそんな難しいことは……」
考えていたことを父が言ってくれた。
しかし、伯爵もアルベールもそれを否定する。
「過保護すぎる。きっとリルルだって学べば出来る筈だよ」
「もし出来なくても、俺がフォローします。リルルは守りますから」
そうまで押し切られると、アシュレイ家側はなんとも言えない。
「………………」
黙り込んでいるうちに、婚約式の日取りが決められ、指輪や結納金などの細かな設定も決められ、もう逃げられない気がひしひしとした。
部屋に戻ってから、むっつり黙り込んでいるとソフィアが声を掛けてくれる。
「お嬢さま、やっぱり結婚はお嫌ですか」
「嫌なのかしら。変わってしまうことが、とても怖いの」
「もうマリッジブルーじゃないですか。まだ婚約もしていないのに」
「もうマリッジブルー……」
今の気持ちにそのような名称が付くとは知らなかった。
はあ、と溜息を吐くとソフィアが元気付けてくれた。お茶を淹れ、チョコレートをくれる。キャンディのように包まれた、可愛くて美味しいチョコだ。
「アルベールさまが嫌でしたら、今からでも婚約してからでも、いつでも断れますからね」
「ええ、ありがとう。少し休むわ」
一人になりたいと伝えると、ソフィアは部屋を出て行った。
まだ、机の上に母のメモが置いてある。無くなっていない。
ということは、これを使って婚約を断るべきなのではないだろうか。
あの時、つい『はい』と言ってしまった婚約の申し出を断るのだ。
だとすると、屋敷の屋根裏部屋に行かなければ。
すぐに決断し、さっきまで着ていた動きやすいワンピースになる。そして何となく、ポケットの中にチョコレートを入れて移動した。
屋根裏部屋は薄暗いが、本はすぐ分かった。背表紙が真っ白で明るくなっているから目立っていた。というか、こんなに一冊だけ明るかったら誰かがすぐに気付きそうだ。
ともかく、メモに書いてあったことを思い出し、目を瞑りながらえいっとページを開く。
本には森が載っていた。
えっ、森?
そう思った時には本が輝き、辺りが真っ白になって目を瞑る。
次に目を開けた時には、リルルメイサは森の中に居た。
葉っぱや木に触っても、本物だった。どこの森だろう。
考えていると、子供の声が聞こえてきた。女の子が泣いているようだ。
「えーん、えーん」
「もう泣くなよ」
「アルのせいでしょ、もうあっち行って! えーん」
「そんなことしたら、お前一人になるだろ。一人で帰れないくせに」
「えーん、お父さま、お母さま~」
子供たちが揉めている。どこかで見たような、と思っているとアルと呼ばれた男の子が言った。
「泣くなって、リルル」
何~!
リルルと呼ばれる女の子をよく見たら、どこかで見たどころではない。自分と全く同じ白に近い淡い金の髪と緑色の瞳だった。
だとすれば、これは子供の頃の自分なのだろうか。
リルルメイサはガサガサと草むらをかき分けて二人の前に歩いて行った。
一瞬身構えた子供たちだったが、こちらを見てすぐに顔を輝かせた。
「お母さま!」
「マーサおばさま!」
子供のリルルが飛びついてきてわーんと泣いている。
「どうしたの、二人とも」
一応尋ねてみると、小さなアルが答えた。
「ちょっと探検!」
「危ないから森に来てはいけないと言われていたでしょう」
するとリルルが泣きながら言う。
「アルが私のうさちゃんを盗ったー!」
あっ、と思う。そういえば、そんな事も昔あった。
ということは、これは過去の出来事に介入しているのか。
「泣かないで。アルには後できっちり怒られてもらうことにして。これを食べて泣き止んで。ね?」
何となくポケットに入れていたチョコレートを二つ、子供たちに渡す。
二人は喜んで食べて、泣くのを止めてくれた。
「美味しい!」
「本当だ、食べたことのない味だ。でもリルルは一つだけにしとけよ」
「もう一つ、欲しい……」
食いしん坊な小さなリルルはもっと欲しがっている。そんなだから太るんだ、と我が事ながら思う。出来るだけ冷静に断った。
「生憎、二個しか持って来なかったの。もうおしまいね」
チョコレートの包み紙を小さな手から回収し、またワンピースのポケットに入れてから言った。
「多分、あっちが屋敷ね。行きましょう」




