3.
流石にこれはマナー違反だ。未婚の男女が二人きりで密室に居るのはいけないことだから。
腰が引けて、手を振り払おうとする。
「ちょっと、離して」
「生意気な口をきくな。俺たちが婚約して結婚することは、もう決まっているんだ」
「決まっていないわ。ああ、お金と事業のことが気になっているのね。大丈夫よ」
「なんだと?」
アルベールが上から睨みつけてくるし、腕が掴まれているのは恐ろしい。
けれど、リルルメイサは一生懸命説明した。きちんと分かってもらわなければという気持ちでいっぱいだった。
「お父さまは、私たちが結婚しなくても事業に融資してくださるわ」
「お前は商会がどうなってもいいのか? 俺たちが結婚しなくては、商会が上手く立ちいかなくなるぞ」
「お父さまは、そこが腕の見せ所とおっしゃっていたわ。婚姻関係なんてなくても……」
「うるさい! 駄目だ!」
そう言うと、アルベールはリルルメイサをぎゅーっと抱きしめてしまった。
突然の抱擁、それも力強くて動けない強引なものに驚く。このまま抱きすくめられるのはいけないことだと本能的に感じ、リルルメイサはじたばたと暴れた。
「離して!」
「いやだ、離さない」
「どうして? うちからお金だけ出したら、それでいいでしょう!」
「いやだ! リルル、大人しく俺のものになれよ」
「いやよ! やめてっ!」
二人で揉みあいながら揉めていると、扉がバンッと開かれた。次の瞬間、アルベールの肩が後ろからグイッと引かれた。リルルメイサからは、アルベールの肩を引いた男が兄のイーサンであるのが見えた。
良かった、助けに来てもらえた。
安堵もつかの間、イーサンはそのままアルベールの頬を拳で殴ってしまったのだ。
「きゃぁっ!」
重いパンチの音がして、アルベールはリルルメイサから手を放す。思わず声をあげてしまうと、扉の外からなんだなんだと人が覗く気配がした。
イーサンはリルルメイサを背に庇う形でアルベールと対峙した。そして怒り心頭といった声を出したのだ。
「妹に手を出すな!」
これはマズいとリルルメイサの背に冷や汗が出てきた。
アルベールは押しも押されぬ貴族である。いくらイーサンがアシュレイ商会の息子で莫大な資産を持っていても、平民なのだ。アルベールが訴え出たら、イーサンは厳しい刑に処されてしまう。それほど、貴人というのは特別な地位にあるのだ。
「やっ、やめて、お兄さま! 誤解よ、違うから、謝罪を……」
「いくら貴族でも、リルルに乱暴するなんて許せない!」
だからといって、貴族を殴りつけるなんて許されることではない。
しかもここはプレイストン伯爵の領地、伯爵の屋敷だ。イーサンなんてどのような罪にでも問われてしまうだろう。
それが分かっているから、アルベールは殴られた後でもせせら笑って見せた。
「許せないならどうするっていうんだ」
「リルルにこれ以上、手出しさせない」
「お兄さま、本当に違うから。お願い、大事になる前に謝罪して」
「何が違うんだ。強引に迫られていたのは本当だろう。僕の立場より、リルルの身の安全が大切だ」
どうしよう、どうしよう。
これ以上騒ぎが起こると、イーサンが本当に罪に問われてしまう。
焦っていると、時計の鐘が五つ鳴った。五時だ。
ヤバイ!
シャリオスの所に行かなければ。こっちも修羅場だが、あっちは人命がかかっている。
居場所は未来のシャリオスに聞いている。
この場のことは、今リルルメイサがどうこう言っても何ともならないだろう。ここは諦めて、すぐに移動しなければ。
兄とアルベールが口論しているが、全ては後でどうにかなれと逃げ出す。
部屋を出て、勝手知ったる使用人や従者の待機場所に走って行くと、思った通りそこにソフィアは居た。
「あら、お嬢さま。晩餐会の前にこんな所に来てどうしたんですか」
「ソフィア、一緒に来て!」
「えっ、どこへですか?」
「馬車に、早く!」
「馬車? 帰るんですか? イーサンさまは?」
そこが問題だ。イーサンと同じ馬車で来たので、一台しかない。リルルメイサがそれに乗ってシャリオスの元に行くと、イーサンが移動出来なくなる。
それに、家の馬車でシャリオスの所へ行こうとしてもベテランの御者に諫められそうだ。
だったら、ひとまず商会に行こう。それに、父にイーサンたちを何とかするようお願いした方がいいかもしれない。
そう判断して、リルルメイサは命じた。
「商会へ、お父さまの元へお願い。お兄さまがアルベールを殴ってしまったって伝えなくちゃ!」
「えぇっ!」
口にしてしまったら、それが一番良い方法のような気がした。
イーサンとアルベールの問題は、リルルメイサにはどうしようも出来ない。伯爵と夫人にバレたら、イーサンの分が一気に悪くなるだろう。
上手く話しを収められるのは、父だけの気がする。
二人で急いで馬車に乗って、御者に商会まで急ぐようお願いする。
イーサンが伯爵家のご令息を殴った話をすると、御者もスピードを出して商会まで走らせてくれた。
転がるように商会の中に入って、仕事中だった父に先ほどの出来事を伝えると、流石に慌てた様子になった。
「では私はすぐに伯爵家に行ってくる。リルルは行かない方がいいだろう」
「そうね、話がややこしくなりそうだものね」
「屋敷に戻って、誰とも会わないようにするんだよ」
父の言いつけに、リルルメイサはこくりと頷いて了承した。
「ええ、お父さま。分かったわ、気を付けて」
「商会の馬車を使って、屋敷まで送ってもらうように。ソフィア、頼んだよ」
「はい、旦那さま」
二人で父を見送った後、リルルメイサは言った。
「ソフィア、行きたい場所があるの」
「えっ、お嬢さま。屋敷に戻らないんですか」
「ええ。行かなきゃいけない場所があるのよ」
商会の中も、ちょっとした騒ぎになっていて、あちこちで
「大丈夫かな、若旦那」
「旦那さまが上手いこと言ってくれりゃいいが」
なんて声が起こっているので、二人に注視する者はいない。
スッと外に出て、辻馬車でも捕まえようかとそそくさと離れていく。
すると、裏手で不穏な声が聞こえてきた。
「ったく、こんな簡単な仕事も出来ねぇなんて、お前、何の役にも立ってねぇよ。やめちまえ」
「ぐっ……!」
「図体だけデカくて、役立たずの無駄飯喰らいだな」
「ガハッ……」
どうやら数人で一人を苛めて殴っているらしい。商会のビルの裏手なんだから、きっと商会の者だろう。
リルルメイサはそっと様子を見て、そして殴られている人物が見覚えのある男だと気付いた。
あれは、フランクだ。
だとすると、苛めているのも商会の雇われ人たちだろう。
リルルメイサはつかつかと近付いていって口を開いた。
「おやめなさい」
「なんだぁ? お前」
「私はリルルメイサ・アシュレイ。貴方がたは、アシュレイ商会の従業員ですか」
そう言うと、一気に男たちは低姿勢になった。
「あぁっ、お嬢さま! これは仕事で必要な指導なのです。コイツときたら、全く役立たずで……」
「では彼を、商会の従業員ではなく屋敷の使用人にします」
「えっ、お嬢さま。それはやめといた方が。コイツ、本当に役に立ちませんぜ」
ソフィアも援護してくれた。
「お嬢さまの決定に不満があるのですか? 貴方がたの返事は、はい分かりました以外に必要ありません」
「……へぇ」
不満そうに、男たちがそう言う。しかしソフィアは更に指示した。
「もうお行きなさい」
「へぇ」
フランク以外の男たちを路地から追い出し、リルルメイサは、彼になんと声を掛けようかと迷った。
自分はフランクのことを知っているし、彼が馬車の操作が上手だと知っている。
けれど、彼は何も知らないし初対面になるのだ。
「あの、貴方について来てもらいたいんだけれど、名前は?」
「……フランク、です」
「よろしくね、フランク。ではさっそく、出掛けましょう」
フランクは黙ってついてきた。
しかしソフィアは黙っていない。
「お嬢さま、一体どこへ行くつもりなんですか」
「酒場よ」
「酒場……?」
「人に会いに。でもちょっと、治安がよろしく無さそうな場所なの。だから、彼に後ろに立っていてもらおうと思って」
「ああ、用心棒代わりですか。でもこの方、全然強く無さそうですけど。それに、服もボロボロですし」
身体は大きいが、弱気な様子が全身から漂っている。それに確かに、粗末な服が暴力で余計に薄汚れてヨレヨレになっていた。
「そうね。それに、私の服も豪華すぎるわ。古着屋に行きましょう」
「分かりました、知っているお店があります」
ソフィアは古着屋に連れて行ってくれた。そしてリルルメイサの豪奢なドレスを売って金貨を貰い受け、更に三人が酒場に行ってもおかしくない服を購入出来た。
それでも、金貨は豊富に手元に残った。それくらい高価で惜しみなく布と宝石が使われたドレスだったのだ。
「よし、では行きましょう」
辻馬車の中で、フランクが言いにくそうに口ごもりながら言葉を伝えてくれた。
「あの、俺、本当に、弱くて、何も出来ませんが……」
「いいのよ、後ろに立ってくれているだけで」
「そう、ですか……」
「でも屋敷に来てもらいたいのは本当なの。御者になってほしいんだけれど、どうかしら」
「御者……?」
「きっと、貴方は馬の扱いが上手くて御者も向いてるわよ」
フランクは不思議そうながらも、黙って頷いてくれた。




