7.歪んだ時空
外界にいるのが怖くなり、賢孝はとりあえず帰宅した。だが、自宅でさえ今までの住み慣れた部屋の風景ではないので落ち着くことは出来なかった。青い傘、ジャケット、コーヒーメーカーなどの元々使っていた数少ない私物に精神安定の全体重を託すという、非常に心細い状況である。何から何まで全てが変わってしまっていたとしたらそれはそれで身の毛もよだつ恐ろしい光景だが、一部だけが残っているという現状もある意味妙に気持ちの悪いものだった。今夜、寝て起きたらまた元に戻っていないだろうか。そんな薄すぎる可能性に賭けてみることしか、解決策がわからなかった。
とりあえず、あらためて状況を整理しようと賢孝は紙とペンを取り、思いつくことを書き留めてみることにした。どんな状況でも感情的にならず「一旦落ち着こう」というのが普段からの口癖だった。まず今、自分がいる国は日本の北海道札幌市だ。これは先程地下鉄に乗って確認したし、スマートフォンでMAPを見てみたら昨日までの世界と同じものだったから、ほぼ間違いないだろう。次に自宅について。場所は昨日までと同じ。数点の私物も同じものがある。だが部屋の中の造りや壁紙も違うし、ほとんどが見たことのないものだ。地下鉄や街中の光景も同じだ。一部が昨日のままだが、ほとんどが見たことのないものだった。ただ、街の区画は全て昨日までと同じ状態であった。次に、自分の精神状態について。ここが本当に正直わからない。精神不安定とか鬱っぽいなどどは一度も言われたことが無ければ、自分でもそのような自覚は無い。いつも冷静で落ち着いているし、家族からもそのような指摘は一度もされたことはなかった。さすがにHIGHLANDが存在していなかった時は動揺してかなり取り乱してしまったが、精神的に自分がおかしいとはどうしても思えなかった。時間軸については、どうだろうか。スマーフォンの表示は「2018年5月10日」ということは、ここは何も変わっていない。昨日5月9日は父親の誕生日だったから忘れる訳もなく間違いが無い。あとは、人について。家族も美里も同僚も会社やHIGHLANDも、誰にもどこにも連絡がつかない。というより、存在自体が消えている気がする。だけど街中にはいつも通りに人々で込み合っていたし、車も渋滞していたし、地下鉄の中も普通に乗客がいた。自分の知り合いや会社だけが、消えている。賢孝は、それらを箇条書きにまとめてみた。
【残っているもの】
コーヒーメーカー、ジャケット、傘、スニーカー、PC、財布、街の区画、駅名、西暦と日時、テレビ塔、その他いくつかの建物、昨日までの世界の記憶、賢孝自身
【残っていないもの】
部屋の造り、ほとんどの私物、会社、HIGHLAND、街の建物のほとんど、全ての知り合いや家族
とにかく不可解なのは、全てが中途半端だということだ。ただ、書き出してみてひとつだけはっきりしていないことがあることに賢孝は気付いた。本当に「全ての知り合いや家族」が消えているのだろうか。同じこの世界の中で、自分と同じように動揺して恐怖心に耐えている知人がいるのではないか。確かめたい、と思った。しかし微かな希望であると同時に、それは今の賢孝にとってとても勇気のいることでもあった。もし仮に実家などを確かめに行き何も無かった時に感じるであろう、えげつない絶望感をイメージするだけで身動きが取れなくなる。賢孝は考えることに疲れてしまい、一旦、ペンを置いた。こういう時はサウナに限るのだが、どうせ行ってみても存在していないことが何となく予想できたからすぐに行く気は失せた。解決策は皆無であり、唯一の可能性と言えば、明日の朝に起きた時に元の世界に戻っているかもしれない、ということだけであった。とりあえず冷蔵庫にあるものを適当に食べて、シャワーを浴びて今日は早めに寝よう。そう、賢孝は切り替えた。21時からビールとウィスキーを現実逃避するためにハイペースで飲み始め、22時にはベットに身を沈めていた。
翌朝、賢孝は6時に目が覚めた。大量に酒を飲んだのが功を奏してすぐ眠ることが出来たが、二日酔いで多少の頭痛とまどろみの中にいた。昨日、本当に恐ろしい夢を見たな、世界がほとんど変わってしまっていて、誰にも連絡がつかないという夢だった。それにしても、なんてリアルな夢だったのだろうか……。そんなことを半分寝ぼけながら思い返していた。スマートフォンに手を伸ばし、LINEが届いていないか確認したその瞬間、賢孝は凍り付くような恐怖心に血の気の全てが引いていた。履歴そのものがない。そして周囲を見渡してみたら、住み慣れた自分の部屋ではないどこか。夢ではなかったのだ。賢孝はあまりのショックに愕然とし、思わず顔を両手で覆った。カーテンを開けて、窓外の風景を確認する。やはり、夢ではなかった。まだ全く受け入れられないが、一昨日までの世界とは乖離したどこかに自分は飛ばされているという現実。最悪の一日が、また始まってしまった。一昨日までの自分がやるべきことは、とても明確だった。給付金の審査業務と、バーテンダー。サウナに定期的に通い、そして美里との恋。なのに、今はどうだろう。こんなにも不明瞭で孤独な状況に晒されたのは人生で初めてだった。こんな状況の解決策は、もちろん学校でも教わったこともなければ、聞いたこともない。恐らく、地球上の誰も知らないだろう。人類で初めて解かなければならない難題が、こんな平凡な男の元に突然託されてしまったようなこの運命を賢孝は呪った。とはいえ、現実は現実だ。どうにかこの状況を打破しなくてはならない。1日経過し睡眠を取ったことで、昨日よりは若干冷静になれているのも確かだ。一度脳内を空っぽにして、ひとつずつ整理し考察する必要がある。脳内疲労をリセットするにはサウナが一番なのだが、この世界にはサウナ自体が存在しているのであろうか。賢孝はその時、昨日は動揺しすぎて、当たり前過ぎる大切なことを忘れていた事実に気付いた。それは「インターネットで何でも調べてみればいい」ということだ。昨日スマートフォンでMAPを開いていたにも関わらず、あまりにも取り乱し落胆していたせいで、そんなことすら忘れていた自分が少し可笑しくなって笑った。数少ない元々の私物であるノートパソコンの電源を入れ、検索画面にアクセスしてみる。よかった、繋がった……。インターネットが使えるか使えないかはこの状況に立ち向かうことを考えたら雲泥の差であり、死活問題だ。早速「天然温泉 絢ふぶき」と検索してみる。
「あ、あった! マジかよ……」
賢孝は、泣きそうになっていた。自分をリセットして心身を快活にするために必要不可欠だったこの場所が存在していたことは、今の賢孝にとっては生きる希望であった。衣装ケースには見慣れない服ばかり入っていたが適当に選んで着替え、自分の存在をこの世界で現状唯一肯定出来るその地にまるで巡礼する教徒のような晴れ晴れとした心情と共に駆け足で向かった。道中の風景はやはり今までとは全く異なるものであったが、道路の区画は変わっていないので迷うことはなかった。そして12~13分ほどで絢ふぶきの看板が視界に入ると、賢孝はさらに加速度を高めて走り出していた。こんなにも全速力で走ったのは、高校の陸上部に在籍していた時以来だ。息を切らせながら施設内に入場すると、奇跡的に以前と全く同じ光景が広がっていた。靴箱のレイアウトも受付も売店も広めの廊下も全て見慣れた風景で残っており、賢孝は思わず泣いた。サウナの受付前で嗚咽するのを堪えている青年は明らかに周囲から見て異質で浮いていたが、張りつめていた何かが解放され、感動と安堵の涙を賢孝は止めることが出来なかった。いつものように全身を洗ったあと、湯船で身体を温め、サ室で大量の汗を流し、水風呂に浸かり、外の木製のベンチでととのった。全身が脳を中心に浮いていくような、そしてそのまま地面に沈んでいくような恍惚かつ安穏な時間。しっかり時間をかけて3セット、2時間ほどで賢孝の心身は一気に回復した。一時的にはなるがすっかり気分が良くなった賢孝は、会計をするために受付へと向かった。
「ちょっと待てよ……」
この異世界に迷い込んでから初めて現金を使うことになることにハッとして立ち止まった。お金という概念はそのままだとは思うが、果たして紙幣は同じものなのだろうか。仮に財布の中にあるのが元々の紙幣だとして、この世界では別の紙幣が流通しているとしたら、偽札を使おうとした人間として通報されてしまうことが容易に想像できた。今朝になって気付いたのが、財布も元々使っていた賢孝のものであったということだ。恐る恐る財布の中を確認してみる。そこには、見慣れた1万円札2枚と千円札5枚が入っていた。ここはむしろ、知らない紙幣が入っていて欲しかった。何故なら、その方がこの世界の流通紙幣だと確信が持てるからだ。ここはもう、一か八か出してみるしかない。館内のスタッフは見覚えのある人は当然1人もおらず入れ替わっていたが、その中で最も優しい雰囲気の50代くらいの女性スタッフのレジに進んだ。
「あの…… この紙幣で支払い出来ますか……?」
賢孝は恐る恐る、挙動不審な雰囲気満開で訪ねてみた。
「あら! 懐かしいですね。何年振りかしら、昔の千円札を見たの。もちろん使えますけど、いいんですか? もったいない気もしますけど」
「あ、あの、全然大丈夫です。そちらでお会計してください」
ホッとしたと同時に動揺していた。これが旧紙幣になってる? どういうことだ? 西暦と日にちはズレてないのに、この紙幣だけが古いものになってるってこと……? 時空が歪んでる? スッキリしないまま絢ふぶきを出た後、往路とは真逆でゆっくりとした歩調で自宅に向かいながら賢孝はまたこの異世界についての考察を再開していた。途中コンビニに立ち寄ってATMで現金を引き出そうと思った時、また確かめなくてはならないことに気付いてしまった。しかもこれは、この世界での賢孝の命運を握る最重要な案件であった。元の世界のカードが果たして使えるのか。そして、数年にわたりコツコツと貯めていた預金はどうなっているのか。使えなかった場合、絶望的だ。この世界から抜け出せなかった場合、数日後には生きていくこと自体が困難になってしまう。賢孝はまた祈るような気持で財布の中のカード類を確認した。そこには、見たこともないカードばかりが入っていたが、全て名義は自分のものであった。キャッシュカードをATMに差し込んでみる。直後に大問題がそこに登場した。暗証番号だ。果たして今までの番号と同じなのだろうか。
「頼む! 頼む! 頼む!」
賢孝は神に祈るような気持で元の世界で使っていた暗証番号を入力してみた。電子音が鳴り、その暗証番号は、何とか最も厚いそのセキュリティーを通過した。
「マジで助かった……」
残高照会をしてみる。長年貯蓄してきた「320万円」という残高は、維持されていた。何とか1年くらいは生きていけそうな金額が確保された瞬間だった。賢孝は安堵と共に、何が起きるかわからない状況なので多めの10万円をとりあえず引き出した。全く見たことがない1万円札10枚をATMから受け取る。もう見たことがないものが登場してもあまり驚かないほど、この異世界に耐性が付き始めていた。コーヒーとビール、弁当を購入し自宅へと向かった。この世界のことが、少しだけわかってきた。時空が歪んでいる。元の世界と異世界が混在している、無秩序で混沌とした世界 ──
道路脇に小さな石ころが転がっている。生い茂っている雑草を優しい春風が揺らした。ああ、何気ないこんな風景は元と同じなんだなと、ひとり孤独に呟いてみた。正午を回り、日差しが強くなった。太陽だけは自分の味方でいて欲しい、そう心の中で祈った。賢孝はすがるものが何も無いこの世界で、虚しく自分を慰めてみるしかなかった。