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追憶のパラレルワールド   作者: 長谷川龍司
第1章 リアルワールド
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5.BROST

 札幌市営地下鉄東西線の始発に乗り帰宅した賢孝は、シャワーも浴びずにすぐにベットに身体を沈めて泥のように眠った。HIGHLANDで閉店まで勤務した日は、心が充実しているせいなのか、決まってよく眠ることが出来た。

 夢を見ていた。顔もはっきり認識出来ず会ったこともない、赤いワンピースを着ている女性がひとり川岸に佇んでいる。何故か賢孝は、やたらとその女性に執着したくなるような気持になり必死に話しかけるが、相手には一切聞こえておらず、そのうち彼女はフッと消えてしまった ──

「妙な夢だったな……」

 14時に目覚めた賢孝は、寝起きの朦朧とした意識の中で先程見た夢について回想していた。悩み過ぎたせいで何か心理的な作用で見た夢なのだろうか。夢占いでググってみようかとスマートフォンに手をかけたが、それに影響されてまた心がブレていくのも疲れる気がして、思い直した。ダークローストされた豆をお気に入りのコーヒーメーカーで濃い目に落とし、暖めた牛乳で7:3の苦めのカフェオレにした。加熱式タバコと共にゆっくりと味わいながら、赤いワンピースの女性の顔を何とか思い出そうとしていた。誰なんだろう。会ったことのある人なのだろうか。BARに来たお客さんとか……? 顔そのもの自体が思い出せない上に、当然誰かもわからない。しかし、気になって仕方なかった。今日もHIGHLANDのバイトが入っているので少し経ったら出掛ける準備をしなければならない。出勤前にサウナに寄っていくことがいつものルーティーンとなっていたが、何故かさっき見た夢の内容に気を取られてしまい、動けずにいた。

 17時半にHIGHLANDに到着した賢孝は、店のシャッターを開けた後、開店準備に取り掛かった。BGMを流し、全テーブルとカウンターを水拭きし、簡単なトイレの清掃を手際よく済ませた後、店の看板を表通りに出した。今日は早番なので23時半までの勤務だ。無理なく継続出来るよう、翌日に本職の勤務がある日は全て早番シフトにしてもらっていた。カウンター裏の厨房に置いてあるスマートフォンをチェックすると、美里からLINEが入っていた。

「今夜、高校の同級生と飲み会があるんだけど、それ終わったら二次会には行かないからBARに寄ってもいい? 22時くらいかな」

 そんな時間に来るのは珍しな、と思いながら「もちろんオッケー」と美里に返信した。混み出す前に済ませておこうと、ロックアイスを板氷から切り出す作業に取り掛かった。この作業をしている時にはいつも心が穏やかになり、何とも言えない充足感と安心感に賢孝は包まれていた。パラパラと来客があったが、全員ひとり客だったので啓子と2人でカウンター内で接客した。啓子はオジ様キラーな見た目と若さ、そしてウィスキーの知識量が豊富なバーテンダーだったせいか、出勤日には酒好きな30~40代の男性ひとり客がやたらと集まって来る。その邪魔にならないように、賢孝は裏方作業に自ら進んで徹して厨房でフードオーダーなどに対応していた。遅番の店長が20時に出勤して来た頃、店はいつものように満席となっていた。次から次へと入っていくるオーダーに対して、バーテンダーの3人は阿吽の呼吸でリズミカルに場を回して行き、店全体に一体感が生まれてくる。その雰囲気に呑まれて知らない客同士の会話が交錯し始め、HIGHLANDの空気感は最高潮に達していた。最も「生きている」と賢孝が実感できる瞬間であり、この感じが好きでたまらなかった。未来についてはまだ相変わらず悩んではいたが、今はまだこの異空間にどっぷりと浸っていたい。そんなことに思いを巡らせていたらあっという間に22時を過ぎ、美里が店に入ってきた。いつものように「RESERVE」のマークが置いてあるカウンター1番シートに案内した。

「珍しいじゃん、こんな時間に来るの。飲み会、楽しかった?」

「うん、久しぶりのメンバーもたくさん来てて、最高だったよ」

 美里はすでにほろ酔いで、かなり上機嫌だ。その表情に胸がキュッと締め付けられる。やっぱり、この顔が好きだなと素直に思った。どうせ一杯目はいつもと同じだから、何も聞かずにサザンコンフォート・トニックを作り、美里に差し出した。

「わ、オーダーしてないのに飲みたいものが出てくるなんて、私もついにHIGHLANDの常連客の仲間入り?」

 嬉しそうに細く長い指で大切に包み込むような持ち方でグラスを手にして、美里は笑いながら賢孝に言った。その様子をまるで監視するように、対極にあるカウンター11・12番シートから賢孝目当てのOL2人組の視線が背中に刺さって来る。あの女は何者なの、と言葉を交わしてなくても聞こえてくるようであった。OLから見えないよう賢孝に隠れながら「行ってきなよ」と目くばせで合図してくる美里。バーテンダーとしての賢孝の立場をよく理解してくれていた。踵を返し、11・12番シートに座る2人の元へと戻る。他の女性客と話していても何も聞かれたことは無かったのに、美里のことに関しては根掘り葉掘り聞かれてしまい、何とかはぐらかしてその場を凌いだ。美里に対しての感情は確かに他の客とは明らかに違うが、それを態度に出したことは無い。なのに、何であんなに一瞬で見抜かれてしまうのか。女の直感というやつなのだろうか。女という生き物は、全員に超能力が備わっているのかもしれない。だとしたら、世の中の男達が完璧な嘘をついたり絶対にバレる訳がない隠し事をしたとしても、全部女達はわかっていて、気付かぬ振りをして男を手のひらで転がしているということなのか。恐ろしいな、と賢孝は心の中で身震いするような感覚に駆られていた。8番シートにも賢孝目当てのニュークラ嬢が1人で飲みに来ていて、その一連のドタバタ劇を楽しむように不敵な笑みを浮かべて賢孝に目線を送って来る。そしてその様子を美里は見逃さず、ふーん、と言わんばかりの何とも言えない表情で8番と11・12番シートの女達を細めた遠い目で交互に見ていた。何となく予想はしていたが、やはり美里が遅い時間に来るとこうなってしまったか、と賢孝は苦笑いするしかなかった。店長や光輝が同じような状況になることは何回も見ているが、2人とも平然として場を回して全員の客を楽しませる。その点、賢孝だけは素人感から抜け出せずにいた。ナチュラリストに映るのかもしれないその純朴さが好きで来てくれている客もいるのは確かだと思うが、店長や光輝のようなプロの領域に達するには女性経験が浅すぎる気がしていた。

 23時30分。退勤の時間になったが、美里はまだHIGHLANDのカウンター1番シートから動かずにいた。回りを気にしながら、賢孝は小声で美里に伝えた。

「俺、上がる時間だけど?」

「賢孝くん、この後ちょっと時間ある? 少しだけ、一杯だけ飲んで帰ろうよ」

「いいけど、同時に店から出るのは流石にまずいから、先に出てそこのコンビニで待っててもらってもいい? 10分くらいで行くから」

「うん、わかった。待ってるね」

 今までに無いパターンに、ちょっとした動揺と緊張感が押し寄せてくる。冷静さを装い、美里の会計を済ませて見送り、急いでいることを周囲に悟られないように着替えて店を後にした。足早にコンビニに向かい、美里に「お待たせ」と声をかける。

「どこにいこっか」

「うーん…… 賢孝くんのお勧めの店ってある?」

「そうだね、じゃあBROSTにしようか」

 BROSTは、駅前通沿いの南3条の角にあるバーガーショップ横の地下にあるSHOTBARで、そこは賢孝がBARという世界を好きになったきっかけの店だ。照明はかなり暗めで横長のカウンターがあり、いつも1人客が数人静かに飲んでいるような光景を見て「何てカッコいい世界なんだ」と感動を覚えたのが始まりだった。店に到着するとテーブル席は全て埋まっていたのでカウンター席に並んで座ることになったが、最近妙に意識しているせいか、やたらとソワソワしそうになる自分を賢孝は美里に気付かれないように必死に落ち着けていた。バーテンダーがオーダーを取りに来たので急いでメニューに目を通す。

「久々にちょっといいウィスキーにしようかな。じゃあ、グレンフィディック18年をシングルのストレートで。あとチェイサーもお願いします」

「ウィスキーって飲んだことないけど、それって美味しいの? 私も同じのにしようかな」

「やめときなよ。いきなりストレートは無理だって。飲むなら、せめて薄めのハイボールとかにしといた方がいいよ」

「そうなの? けどたまには強めのお酒も飲んでみたいっていうか、飲める女がカッコいいって思ってるから今日は練習ね。すいません、同じのをロックでお願いします」

 大丈夫かよと思ったが、案の定、美里はフィディックのロックを一口飲んだ瞬間、半笑いしながらむせ返っていた。賢孝は慌てて自分のチェイサーを美里に手渡す。

「だから言ったじゃん」

「賢孝くん、こんなのいつも飲んでるの?」

「まあね。美里、他のをオーダーし直したら? そのロック、俺が飲むからさ」

「ううん。ゆっくり飲んでみる。ウィスキーを飲める大人の女になりたいから」

 HIGHLANDを出た時点ですでになかなかの度合いで酔っていた美里は、さらに自分自身に追い打ちをかけるようフィディックを少しずつまた飲み始めた。

「何か、忘れたい嫌なことでもあったのかよ」

「そうじゃないけど、たまには酔いたい時もあるじゃん」

「まあ、わからなくもないけどな」

 酔いたい時もある、その一言には何か含みがあるような気がした。その後、何故かお互いに無言になってしまい、2人とも数分間ウィスキーの陳列棚を眺めながら定期的にグラスを回したり口元に含みながら、次の会話のきっかけを互いに相手に求めて様子を伺うという攻防戦が続いていた。

「賢孝くん、あのね」

 痺れを切らしたように美里がアイスブレイクする。賢孝は黙って美里の次の言葉を待った。

「私ね、賢孝くんのこと……。あのね、えっとね……。異性として惹かれている感情があるのか、それともすごく仲のいい友達としての感情なのか、行ったり来たりしてよくわからなくなる」

 酔いの勢いで思わず言ってしまい、そのことに後悔をしているような表情だった。それ以上に驚いたのが、賢孝の中にあった美里への複雑な感情とほぼ同じようなものが美里の中にもあったということだ。美里は俯いて黙っていた。両手を膝の上でグッと握り、恥ずかしさに耐えている。訳のわからないことを言ってしまった、という羞恥の表情にも見えた。

「ごめん、意味わからないこと言って。忘れて」

「美里、あの……。俺もな、同じような感情が美里に対してあるから、言っている意味はよくわかるよ」

「えっ」

「俺、美里のことが好きだっていう自覚はある。けどそれが本物の恋心なのか、それともただ仲が良くて顔がタイプってことなのか、よくわからなくなる時があるよ。もちろん、美里に対してすごく好意があることには違いは無いんだけどね」

 うん、とほとんど聞こえないような虫のような音量で美里は頷いた。少しの沈黙の後、まるで他人の話をしているように客観ポジションな口調で「こういう場合、みんなどうしてるんだろうね」と賢孝の顔をまじまじと見つめながら美里は言った。きっと互いに感付いてはいた。お互いに友達以上の特別な感情があるということを。ただ、友達というラインを越えた先のすぐに「明らかな恋愛感情」というものが存在していると信じて疑わなかったのが今までだったが、その狭間みたいなゾーンがあることを初めて知ってしまい、まだ若い賢孝と美里は未経験の感情に動揺してどうしていいのかわからなくなってしまっていた。

「井本さんみたいな恋愛マスターは、こういう時、どうするんだろうね」

 何とも言えない独特の張りつめた緊張感に耐えられず、笑いながら誤魔化すように美里がそう切り出した。

「実はさ、井本さんに率直に聞いてみたんだよ、昨日か一昨日くらいに」

「そうなの? 井本さん、なんて?」

「ちょっと…… 言いにくいっていうか……」

「そこまで言ったら、最後までちゃんと言ってよ。気になるじゃん」

 誤解されそうな内容の話を切り出すかどうか、賢孝は決断出来ずにいた。美里を抱いてみたい。抱いてみたいのは確かなんだけど、一瞬で美里の賢孝に対する感情が嫌悪感になる可能性もあるこの話をするべきかどうか、躊躇していた。けど井本さんが言ってたこと、という予防線があることとフィディック18年の酔いが賢孝を勢い付けてもいた。

「あくまでも、井本さんが言ってたことだからね、誤解しないでよ」

「うん」

「えっとさ…… 抱いてみないと、自分自身の気持ちがはっきり認識出来ないもんだよ人間という生き物なんて、って……」

 えっ、という表情をした後、美里は黙り込んで俯いてしまった。その場を凌ぐように髪の毛を指でクルクルと巻いては解き、落ち込んでいるような、どうしていいのかわからないような微妙な表情になってしまった。やはり、するべきではない話だった。あくまでも男同士の会話として留めておくべきものであった。

「終電、そろそろだよね。いこっか」

 完全に引かれたことを、その美里の一言で認識した。酔った勢いとはいえ、あまりにも軽率だった自分に落胆する賢孝。立ち上がり、会計を済ませて地上へ続く階段へと向かった。美里はかなり酔っているようで足元がフラフラだった。大丈夫かよ、と笑って和ませたかったが、その一言すら出せないほど後悔の念に支配され落胆していた。階段に差し掛かると、美里はもう自力では進めないくらいに酔っているのがわかり、後ろから背中を支えるようにしてゆっくりと階段を昇った。途中、美里が足を止めて、動かなくなる。

「美里、大丈夫か? 動けない?」

 その時、美里が静かに振り返り賢孝の方を向いた。段差の高低差の影響で同じ高さの至近距離となったが、照明の逆光で顔がよく見えない。眩しさで反射的に目を細めた瞬間、賢孝は口唇に柔らかく生暖かいものを感じた。柑橘系の香水の香りがダイレクトに鼻腔を刺激した。細いサラサラな美里の髪が頬をくすぐる。10秒くらいの、控えめな、しかし甘美なキスだった。賢孝の口唇から名残惜しそうにそっと離れて、美里は言った。

「賢孝くんに、抱かれてみよう…… かな」

 賢孝は衝撃で答えられずに固まっていた。美里は目を開けたまま無言で、また賢孝に口唇を重ねて来た。すぐ頭上の駅前通は、飲み終わり地下鉄の駅へ向かう人達で騒然としていたが、2人はそれとは乖離した世界に飛ばされていて聴覚が機能せず、何も聞こえていなかった。

 終電に何とか間に合い、フラフラの美里を連れて賢孝は自宅に到着した。女の子を部屋に連れ込むのは初めてだった。美里は酔いのせいで全てが面倒になっているのか、ローファーを投げ出すように脱ぎ許可も無しに賢孝のベットに倒れ込むように身を投げる。その勢いでひざ丈のスカートがはだけて真っ白でスレンダーな脚が膝上30cmくらいまで露出していた。賢孝は一瞬で欲情してしまい思わず美里に覆いかぶさり、少し激し目にキスをした。美里は抵抗せずそれを同じ強さで受け止める。シャワーも浴びずに若い2人は糸が切れたように大胆に求め合い「相手への気持ちを確かめるため」という、言い訳なのか真っ当なのかよくわからない理由を互いの盾にしながら、初めての交接をした。

 1時間後、カーテンの隙間から天井に差し込む薄い街灯の光をただ静かに2人は茫然と見つめていた。遠くにサイレンの音がかすかに聞こえる。賢孝は、美里の手にそっと触れてみた。遠慮がちに美里がそれに応える。言葉は何も無かった。薄っすらと照らされた美里の美しい裸体が呼吸と共に静かに波打っている様子をただ賢孝は見つめながら、恍惚と朦朧とした中で自分自身の感情がこの先どう変化していくのだろうか、という思いに身を委ねているだけであった。

 

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