4.決定打
平日でしかも世の中は給料日前ということもあり、今日のSHOTBAR・HIGHLANDは閑散としていた。普段はなかなか手を付けられない冷蔵庫内やウィスキーの陳列棚の掃除をしたり、混雑時の店の回し方などを堀田店長と話したりしながら来客を待った。19時半頃になり、同じランド・ジャパンビルの地下にあるニュークラブの嬢2人が出勤前に立ち寄ってくれた。2人とも店長の顔見知りだ。賢孝は話し相手がいなくなり、南5条通に面した大きな窓から見える外の風景をぼんやりと眺めながら、今後の人生について思いを巡らせていた。自分らしいゆったりとした生き方と、社会の中でちゃんと認められるような企業への就職の道、この二択に揺れていた。先日、亮太に言われたことが頭を過る。「お前もそろそろちゃんとしなよ」的なことを言われたなら迷いは無かったのかもしれない。しかし亮太は大きな企業で忙しく働くことに疑問を感じていて、賢孝のことが羨ましいと言ってきた。互いに無いものねだりなのかもしれないが、人生の方向性の最終決定を下さなければならない年齢に差し掛かってきていることには変わりはなかった。
何かに対して、理屈もなく無条件に情熱的になりたい。理由を聞かれても「だって、無性にそうしたいから」と感じるような、真っすぐな自分をもう一度取り戻したい。しかし色んなことを調べたり考えたりいつもしているが、心が動くものに全く出会えずにいた。「情熱」というものは10代の特権で、20代以降にはそんなものは生まれるはずもないという話なのだろうか。でも、サラリーマンにも起業した者にも本気で人生を賭けて仕事に取り組んでいる奴はたくさんいる。賢孝の脳内は非常に複雑になり過ぎて整理がつかず、全てがよくわからない状態になってしまっていた。
そんなことをひとり考えていたら、珍しく井本さんが1人でHIGHLANDに入って来るのが見えた。お決まりのカウンター9番シートに座った井本さんの前に素早くコースターとおしぼりを賢孝は用意した。
「珍しいですね、井本さんがお一人でいらっしゃるなんて」
「待ち合わせしていたんだけど、急用で遅れてくるらしいから」
「そうだったんですね。レーベンブロイでいいですか?」
「さすが、賢孝わかってるな」
井本さんはそう答えたあと、悪戯な笑顔で続けた。
「ところで賢孝、あの娘とはどこまで行った?」
「えっ?」
「カウンターの端でいつも1人で来てるショートの子、いい感じなんだろ」
さすが、井本さんは何でもお見通しだった。店内が空いていたこともあり、これまでの美里との関係や雰囲気について全て井本さんに告白した。理由は色々だが、なかなか前に進む決断が出来ないことも。美里とどういう風に関係を深めたらよいのかアドバイスをしてくれると思っていたが、井本さんは全く予想外の回答を賢孝に伝えてきた。
「決定打が無いってことだな。彼女は確かに賢孝の好みのタイプかもしれないけど、あくまでも好みのタイプというだけで、心を突き動かされるような存在ではない、そういうことなんじゃないのかな」
「決定打、ですか……」
「そう。運命の相手に出会ってしまったら、人間なんて自分を止めることは出来ない。自信があるとか無いとか、今、忙しいからとか、全部関係無くなって、夢中になって一直線にそこに向かって行くもんだよ。恋愛はもちろんそうだけど、仕事とか趣味も同じようなもんじゃないかな」
そんな風には考えたこともなかった。美里のことは好きだという自覚はあるけれど、自分を止められない程の想いの強さかと聞かれたら、確かにそこには疑問が残る。仕事についても、やはり天職というか運命的な仕事に出会ってないから、このような無気力に近い状態なのかもしれない。核心を突かれて無言になっている賢孝を、井本さんは父親のような優しい眼差しで小さく頷きながら見つめてくれていた。
「まあ若いんだし、あまり真面目に考えすぎずにポップに恋愛を楽しんだらいいんだよ」
「性格なんですよね、ついつい真面目に考えちゃうのが」
「一度、抱いてみなよ。抱いてみて、2~3日経って初めて彼女に対しての自分の本当の気持ちがわかってくる。抱いてみるまでは、その女に対して本気で好きなのか、ただ好みの女というだけなのか、自分でもわからないもんだよ、男ってのは」
「え、えっ」
動揺している賢孝に、爆笑している井本さん。ニュークラ嬢2人がニコニコしながら興味を引かれて話に聞き耳を立てていた。その視線に気付き、井本さんは2人と何かを話し始めていたが、その輪に賢孝は入らずにひとり美里のことを考えていた。どっちですかと聞かれたら、もちろん美里を抱いてみたい。その線は越えてみたいが、もし美里に拒絶されたとしたら、その後の昼間の仕事は毎日が地獄のような日々の始まりになる。さすがに今はまだ踏み出せないな、と賢孝は感じていた。そんなことを悶々と考えていたら、気が付けばニュークラ嬢2人は井本さんの両側の席に移動していて、3人で盛り上がっていた。相変わらずモテる人だ。こんなに漫画みたいに露骨にモテる人ってなかなかいない。そうこうしているうちに、ちらほらと来客があり、HIGHLANDは日常のざわめきを取り戻していた。賢孝は仕事モードに心を移動させ、いつものように慣れた手つきでカクテルを作り始める。店長の客がカウンターの半分以上を占めたのを見計らい、ホール担当に切り替えた。初来店の客のオーダーを取りながら、何気ない会話で雰囲気を盛り上げる。そんな穏やかで心地の良い時間が静かに流れていった。
翌日の本職は休みだったので、賢孝は朝5時の閉店までHIGHLANDにいた。片付けを終え、店長と「お疲れ~」と挨拶を交わし、賢孝は家路に向かっていた。夜明けのひんやりとした澄んだ空気に差し込む眩しい朝陽。仕事終わりの解放感と心地よい疲労感。バーテンダーが天職だという気もしていた。しかし将来性があってこその天職というものであり、年齢的な賞味期限があるこの仕事で人生の未来をイメージすることには無理があった。そんなことばかり考えていて、ここのところずっと、何とも言えない慢性的な焦燥感に支配されていた。
「決定打か……」
独り言のように呟いてみた。答えはどこにあるのだろうか。時の流れに全てを任せてしまうことが正解のような気もしているが、それは甘えであることも理解はしていた。美里のことも考えていた。井本さんに核心を突かれたことで、美里に対する今の自分の心の立ち位置がはっきり見えてしまったような気がしていた。その自分自身の本音に、がっかりするような気持ちが湧き出してくる。美里のことは好きだ。しかし、魂を揺さぶられるような決定的な何かは、無い。けど、恋心があることも間違いはない。
真正面から強烈な太陽光線が遮ってきて、眩し過ぎて思わず手をかざし目を細める。ほとんど前が見えないけれど、それでも賢孝は足を止めずに進んで行った。自身の人生を体現するような歩調で、一歩ずつ、着実に。