3.天然温泉 絢ふぶき
昼間の仕事が休日なので、賢孝は市内の温泉サウナに来ていた。高校時代の陸上部の同級生の亮太と月1~2回、休みが重なる日には一緒に訪れていた。ここ「天然温泉 絢ふぶき」は、湯質が違う5種類の浴槽と2種類のサウナがあり、ととのい用のイスやベンチの数も多く、外気浴スペースも広くて快適だ。サウナの温度は100℃以上とかなり高くオートロウリュも強め。賢孝と亮太にとってはこれ以上ないお気に入りのサウナであった。館内着のまま利用できる24時間営業の飲食店もあり、風呂上がりにビールを飲みながら2人で語るということがお決まりのパターンだ。
世の中がサウナブームのせいなのか、大学生が5~6人の団体で流行りのファッションのように来てサウナ内などでおしゃべりしているのが最近目に付くが、それはマナー違反でもありサウナを楽しんだことに全くならない、と賢孝と亮太は考えていた。サウナは基本的には1人で入るものであり、仮に2~3人で来たとしても決して会話をすべきではない。サウナ、水風呂、ととのい時間、この一連の作業の間は、連れの友達だとしても基本的には一言も話さない。これが本物のサウナーとしての正しい所作であり、それが「サ道」である、その理念が賢孝と亮太は一致していた。
全身を丁寧に洗い、まずは湯船で身体全体を温める。ここを省略しては真のととのいに到達しないので、重要なファクターだ。サウナハットを装着すると、戦闘モードにスイッチが入る。いよいよ、自分との闘いの時間だ。当然、一番温度が高い最上段に2人で陣取る。今日はいつもより温度がかなり高めに感じて、思わず顔をしかめた。これは10分も持たないかもしれない。横に座っている亮太もキツそうな表情をしていて、同様であった。無の境地に精神を移動させ、ただひたすら状況を受け入れて、耐える。何も考えられない、脳内がリセットされるこの時間が賢孝は好きだった。程なくしてサウナ内の照明が暗くなり、60分に1度のオートロウリュの時間になった。サウナストーンに水が自動で投入され、蒸気で室内の温度が一気に上昇する。追い打ちをかけるように送風口からアウフグースがオートで発動し、耐えられなくなった大学生達が思わず立ち上がり室外へ出て行った。賢孝と亮太は玉のような大量の汗を滴らせながら無の境地の精神状態レベルをさらに高め、10分間の苦行のような時間をやり切った。サウナ内、いわゆる「サ室」を出て水風呂に向かう。持ち手付の洗面器を手に取り、足元、頭部、全身の順番で水をかけて行き汗を流す。何度やってもこの作業はキツい。毎回、修行僧のような気持になるが、これもサウナーとしてのマナーだ。そして、心臓に負担がかからないように静かにゆっくりと水風呂に身体を沈めていく。この瞬間も、サ室内とは別の意味で精神修行だ。60~90秒、しっかり身体を冷やしたあとは、いよいよお待ちかねの「ととのい時間」となる。人によって、最もととのう体勢は異なる。亮太はよりフラットになるチェアーがいいらしいが、賢孝はベンチに座り上半身を垂直の状態にキープすることで、ととのい易い。水風呂で一度収縮した全身の血管が徐々に開いて血液が流れ出す。その作用で脳内セロトニンやオキシトシンが大きく変動し血中エンドルフィンが上昇して、最高に気持ちの良いリラックス状態になる。快楽物質が全身を痺れさせながら駆け巡るような感覚。このかけがえのない時間を定期的に設けることで、心身共に快活な状態をキープすることが出来ていた。一定時間が経過した後、またサ室へと繰り返す。3セット後、館内のレストランへ移動した。
「今日マジで温度やばかったけど、その分、鬼ととのったよな」
美味そうにビールを飲みながら、亮太は言った。
「俺、5分くらいで本当にリタイアしそうになったよ」
ゲラゲラ笑いながら、今日のサ活について2人で話した。特段面白い要素は全く無いはずなのに、どうしてサウナについての話になったらみんな笑うのだろうか。
「ところでさ、最近、賢孝はどうなのよ」
「どうなのよ、って?」
「仕事とか、恋愛とか、色々」
亮太は昔から勘が鋭いというか、以心伝心なのか、賢孝が話したいなと思ってる話題をタイミングよく何故かピッタリ振ってくる。美里っていうかなり気になってる同僚がいること、そして最近ずっと考えているこれからの人生に向けてちゃんと就職するべきだと考えていることなど、包み隠さず話した。亮太は大学卒業後に割と大きい商社に就職していたから、率直な実情なども聞いておきたかった。商社マンから見て、派遣とバーテンのバイト男はどう見えるのかも素直に言って欲しい、と付け加えた。
「確かに将来の保証みたいな話で言うと、正社員っていう立場の方が安心感あるかもだけどさ。けど、俺も考えてたんだよ。この生活を一生やっていくの、何かキツいなって。賢孝のこと見てて、正直羨ましいって思ってた。特にバーテンの仕事やってる時、本当に楽しそうで輝いてて、まるで高校の部活の時と同じような表情に見えるし。ダブルワークだからっていうのもあるけど、賢孝と俺の年収ってそんなに変わらないっていうか、むしろ賢孝の方が多いじゃん。大学まで出て就職するのが正しい道だと信じて来たけど、果たしてそうなのかなって、最近思ってる」
かなり意外だった。確実に説教されるか、そろそろ就職しないとやばいよ的なことを言われるに違いないと思っていたから。と同時に、賢孝はますます自分がどの方向に向かって行ったらいいのかわからなくなってしまっていた。
「隣の芝生は青く見えるってことなのかもしれないけどね」
軽く頷きを繰り返しながら、亮太は言った。
1時間半ほど、亮太とは色々話して解散した。一度帰宅してHIGHLANDに出勤する準備をしなくてはならない。今日は金曜日だから、朝方まで込み合うことは確実だ。絢ふぶきから自宅のマンションまでは徒歩15分。亮太が話してくれたことについて思い返しながら、帰路をゆったりとしたペースで歩いていた。自己嫌悪に陥っていた賢孝自身の人生を、親友の亮太は羨ましいと言ってくれた。まさか、こんな目標も無く流れるままに生きている自分を見て、良い意味で人生を考える人がいるとは夢にも思わなかった。確かに、意に反することは避けるように生きてきたが、違う角度で言えば「自分自身に実直に生きている」ということなのかもしれない。心の赴くままに、素直に生きていく。それも良いのかもしれないな、と賢孝は思い直した。
初夏の心地良い風と日光がサウナ上がりの身体に染み渡り、自然と一体化するようなチルアウト状態になった。青春の燻りをほんの少しだけ引きずりながら生きている、典型的な20代半ばの少年のような青年は、まだ見ぬ未来に思いを馳せていた。