1.鬱蒼とした日々
札幌市営地下鉄東西線は、朝のラッシュアワーで混雑していた。大谷地駅から乗り込む時点ではそれほど込み合っていないが、各駅に停車する度に人口密度が上昇していき、東札幌駅や菊水駅でピークとなる。大通駅で一気に人混みが車外に放出されるその流れに身を任せ、石田賢孝は改札へと続く階段を昇って行った。スマートフォンをかざし、うんざりするほど聞き慣れた電子音で決済を確認すると、さらに通路を進み外に続く階段を昇って大通公園に出た。4月末になると札幌も桜が咲き始めるが、天候によってはコートが必要なくらい寒い。たまに、桜が咲いているのに雪がちらつくこともある程だ。どんよりした空と朝の独特な鬱蒼とした気怠さに小さなため息をつきながら、大通7丁目のオフィスビルへ向かう。
高校卒業後、賢孝は派遣社員として仕事をしていた。気が付けば6年目になってしまった。進学する気にも就職活動する気にもならず何となく平凡な日々を消化してしまい、あっという間に24歳になっていた。変化をつけたことと言えば、2年前から始めた趣味と実益を兼ねたバーテンダーのアルバイトくらい。モテない訳ではなかったのでたまにデートくらいはしていたが特定の恋人も作らず、趣味と言えばサウナ通いくらいなもので、目標や夢もなく、流れるままに生きていた。
多少の焦りはあった。高校時代の陸上部の友人達の中には大学に進学し一流企業に就職した者や、海外に留学した者もいる。自分との差は歴然だった。そんな同級生達は賢孝の出勤日に合わせてBARに飲みに来てくれるし、みんな昔と変わらず接してくれはするものの、明らかに自分とは全く違うスペックの連中と話しているうちに否が応にも賢孝自身の立ち位置を悪い意味で再認識させられてしまう。独立起業を目指している友人に影響され「自分のBARをススキノに出したい」と一時期考えたこともあったが、現実的ではないと思い、すぐその熱は冷めた。借金をして店を開業するまではいいとしても、自分の店を出してしまったら最後、昼夜逆転の生活から一生抜け出せなくなることは目に見えている。一応、将来的には結婚して家庭を持ちたいとは思っているから、店を出すということは非現実的だな、と感じていた。
高校卒業して以来、同じ派遣会社に所属しているが、2年に1度くらい出向先が変わる。最近、4社目の職場に移ったばかりだ。様々な影響により売上が激減した企業や個人事業主向けの給付金の申請書類に不備が無いかチェックする仕事だ。経済産業省の政策に関する仕事なので時給は割と良いが、期間限定の仕事であり当然キャリアアップなどは無い。全く未来に繋がる仕事ではないが、正社員ではない気楽さもあり、案件が終わるまではとりあえずこの仕事を続けようと思っていた。
「賢孝くん、おはよう。2日ぶりだよね? 出勤が一緒になるの」
同じタイミングで入社した2歳年下の美里から声をかけられた。出勤が重なる日はたいがい隣の席に座ってくる。美里とは、高校時代に陸上部だったという共通点もあり意気投合していた。スレンダーな体型ですっきりした顔立ち。ゴールドのハイライトが印象的なショートカットだが決してボーイッシュな雰囲気ではなく、むしろ色気があり女性らしい感じが正直かなりタイプだった。先日初めて2人きりで2件ハシゴして飲みに行き、ちょっとした恋の始まりの予感を感じているが、美里は実際どうなんだろう。変に意識してしまい、彼氏とか好きな人がいるのかということを聞けずにいた。美里が賢孝に対して好意を抱いているのは疑う余地は無いが、果たしてそれが友達という枠を超えるものなのかどうかはまだ判断出来ない範囲にいた。
「8時間ずっとただ申請書類の不備があるかないかチェックしてるだけって、飽きてきちゃうよね。目もすごく疲れるし。私も賢孝くんがバイトしてるBARで働こうかな」
「やめとけよ。寝不足で肌が荒れちゃうし、酔っ払い相手だから女の子のスタッフはけっこう嫌な思いすることもあるからな」
「けどバーテンやってる時の賢孝くん、楽しそうじゃん。可愛い女子のお客さんとかと喋ったりしてる時は特にね」
「茶化すなよ。それも仕事だから楽しそうに話さなきゃダメってもんじゃん?」
「ふーん。演技には見えないけど。鼻の下、いつも伸びてるし」
そんな、ちょっとした彼氏彼女のような会話が嫌いではなかった。同僚の男子達からは「おまえら、付き合ってるんじゃなかったの?」と言われるくらいの雰囲気だったが、早とちりして振られるのも嫌だったから、この「付き合う直前のときめいてる時期」みたいなものをしばらくは楽しんでいようかな、とも思っていた。美里は見た目や話し方とは裏腹に内面や考え方はとても古風な女だから、あまりグイグイ行き過ぎるとドン引きされそうなことが抑止力にもなっていた。
朝礼が終わり、今日の担当する案件が振り分けられる。取りこぼしが無いように同じ書類を2人ずつで確認するダブルチェック形式で仕事を消化していくルールだ。仕事内容は本当につまらないものだったが、たいがいは美里と組んでいたから仕事中はいつも楽しかった。
申請書の記載内容、確定申告書、身分証明書、対象月の売上台帳、要件を満たす領収書等、誓約書のサインなど、WEB申請されてきたものを流れ作業のようにPC画面でチェックしていく。登録システムに審査結果を入力し、同時に紙媒体のチェックシートにも記入して後ほど二重で確認を取る。作業中はミスが無いように会話は控えているが、時折、美里の甘い香水の香りが鼻をついてきてドキッとした。そんな賢孝自身の様子を悟られないように無表情で淡々と仕事をこなしているつもりだが、意識しているのがバレていないかいつも心配だった。けど、どうなんだろう。むしろ、意識していることを悟られた方がいいのかもしれない、などど仕事中としては不謹慎なことを考えたりもしながら作業を進めていた。
13時、交代制の昼休みの時間になり、美里に誘われてオフィスビルの地下にある定食屋に2人で来た。店内はピーク時間が過ぎているのでそれほど込み合っていないのですぐに座ることが出来た。
「賢孝くんさ、今は私達って派遣だから期間限定の仕事じゃん? 将来的には仕事とかどういう風に考えてるの?」
生姜焼き定食と野菜炒め定食を注文した直後に、言われると非常に痛い質問が美里から飛んできた。24歳の派遣男としては一番聞かれたくないコンテンツの話題であった。男として値踏みされているような気持になり、めげそうになる。こういった場合、回答は二択ある。ひとつは、カッコつけずに正直に言ってみること。もうひとつは、大した本気で思ってもない夢みたいなことを語ってみることだ。ほとんどの24歳派遣男子はカッコつけて夢を語り出したりする場面であったが、賢孝はBARで勤務している時、酔っぱらって本気じゃないくせに夢みたいな話を語っている男達を散々見てきていて、それがとにかくカッコ悪いことだと感じてきたから作り話のような目標や夢を語ることに嫌悪感を抱いていた。
「まあ、正直自分でもダサいと思うけど、今は流れるように日々を過ごしているって感じなんだよね。もちろんそろそろちゃんと正社員で就職したりするべきだと思っているけど、そうなるとBARは辞めなくちゃならないじゃん。楽しいのはバーテンの仕事だけど将来性ゼロだし、難しいとこなんだよね」
「確かに一番楽しいと感じてる仕事が将来性ゼロって、ちょっとせつない」
美里はクスクスと笑って言った。それが単純にウケていて笑っているのか、それとも苦笑なのか、絶妙に判断がつかない雰囲気だったから賢孝はブルーな気持ちになっていた。そもそも将来性が無い男が、女性から見て恋愛対象になる訳がない。美里はまだ22歳だけど、精神年齢は賢孝よりずっと上な感じがしていたから、どうしても値踏みされているような気持から抜け出せずにいた。もう流石に人生の次のステージに進まなければならないのかもしれない。頭ではわかってはいるものの、何も考えず、現実逃避しながら日々を楽しむことから抜け出せずにこうやって今まで来てしまったことに対する後悔も少しはあった。
「あ、ごめん。せっかくの昼休みなのに、考えさせちゃった?」
振ってしまった話題に後悔するように、美里は言った。
「いや、いいんだよ。本当にそろそろ、ちゃんとしなきゃって思ってたから」
「賢孝くんちゃんとしてるじゃん。仕事も2つして無駄遣いとかしないし」
「無趣味ってだけなんだよ。サウナくらいかな、やってること。唯一出来てることと言えば、貯金だけ。つまんない男なんだよね、俺」
「そんなことないよ。賢孝くんの淡々と穏やかに生きてる感じ、けっこう共感するっていうか、生き方のリズムが私と近い気がするんだよね。だから一緒に居て落ち着くのかな」
ドキッとした。古風な美里の性格を考えると、かなり踏み込んで来たような話に動揺していたが、ここで挙動不審になったら間違いなくキモがられると思うので、軽く同意するような仕草で返し、自分自身を落ち着かせた。美里は終始ニコニコしながらこちらを見ていて、まるで見透かされているようであった。
「賢孝くん、今夜、バイトだっけ?」
「うん、20時から」
「今日、わたし飲みに行ってもいい?」
「もちろん。カウンターの端っこの席、ひとつ空けとくよ」
「ありがとう。そろそろ戻ろっか」
オフィスビルのエレベーターは混雑していた。ピークの満員電車のような人口密度になり、美里の髪が賢孝の顔に触れるギリギリくらいまで接近してくる。胸がキュンと、締め付けられるような気持にちなった。こんな風に誰か1人に心を奪われそうになるのは久しぶりだった。しかし踏み込めない理由は、賢孝自身がよくわかっていた。何もかもが中途半端。歳を重ねるたびに、男として自信が無くなっていたから。
高校時代は陸上競技に夢中で、青春の全てを捧げていた。インターハイに出場し、夢を実現した。しかし残念なことに、その夢の実現は達成感以外のものを賢孝の人生にもたらしてはくれなかった。部活を引退し、卒業した後は人生そのものが燃え尽き症候群のような状態になってしまい、それ以来、情熱を注げるものを見つけられずにいたから、仕事も恋も、全てが中途半端な20代を過ごしていた。派遣社員のまま30代に突入しそうな自分が少しよぎる度に、背筋に寒いものを感じていた。高校時代は、何であんなに情熱的だったのだろうか。そもそも、本気になったきっかけって、何だっけ。何かに情熱的になる方法って、あるのかな。甘えなのだろうか、それって。
そんな複雑なことを悶々と考えているうちに午後の業務のスタートが管理者から告げられ、ハッとしてPC画面に意識を移動させ、また淡々と仕事をこなしていった。