17.約束
半年以上が経過し年が明けて2019年になった。年中気温の変化があまり無いバンコクの正月は全く季節感のないもので、特に何もイベントなどせず賢孝と奈津美はシーロムフラマホテルで仲睦まじく暮らしていた。屋上プールでのんびりしたり、サウナに一緒に通うことが2人の欠かせないルーティーンとなっていた。シーロムエリアにある日本食の店やCONNECTION BKKにもたまに訪れたり、時にはアユタヤ遺跡などのタイ国内の観光地にも足を延ばしたりして楽しく過ごす日々。
元々、奈津美がそばにいない中で普通に過ごして来たのに、今は奈津美が居ないと生きていけない、そんな自分になってしまった。このパラレルワールドという孤独な環境により作り上げられた奈津美に対する依存心ではなく、きっと元の世界で出会ったとしても同じ気持ちになっていたであろう確信めいた愛そのものであった。それは奈津美も同様であった。記憶喪失になった謎は未だに解明出来ていないが、それを全て打ち消してくれるような運命の人との愛の暮らし。奈津美は賢孝の全てに没入し、自分のことが怖くなることもしばしばあった。裸で抱き合っていると、魂が賢孝の内側に吸い込まれて同化していくような感覚があり、賢孝なしでは生きていけない体質になってしまっている奈津美自身を自覚していた。ただ2人とも理解していたことは、このまま一生何もせずホテル暮らしは出来ないということだ。資金的にも互いに3分の1程の貯蓄を消化してしまっているのでコストのかかるホテル暮らしをやめ、部屋を借りて仕事をする必要がある。互いに抱えていた心の傷もほとんど癒えていたので、そろそろ次の段階に動き出すタイミングかもしれないと最近はよく話していた。
「このままバンコクで仕事を探して定住するか、日本に帰るか、なんだよな。奈津美、どうしたい?」
「わたし、日本での記憶が本当に全く無いから……。けど、帰国したら何かを思い出すかも、という期待も少しはある。ちょっと怖いけどね」
「オレ、すっかりバンコクが気に入っちゃったからこのまま居たい気もするけど、でも仕事を探すとしたらやっぱり日本の方が安心感あるしね、難しいとこだよ」
賢孝と奈津美は、次の人生に向けての選択を決めかねていた。ただ特にどちらからも確認はしたことがなかったが、2人の中では「一生寄り添って生きていく」という想いだけは明確に一致していた。焦る必要は無いし、可能ならまずはバンコクで仕事をしてみるのもいいかもしれない。日本人が経営している会社や飲食店はたくさんあるから、探せば何かかしらの仕事には就けるだろうという楽観的な思いでゆっくりと考えてみようと賢孝は思っていた。
「賢孝、バーテンダーならバンコクでも出来るんじゃない?」
「仕事自体は慣れてるけど、タイ語は全くだし英語もギリギリ会話が出来るか出来ないか程度だから、勤まらない気がするけど、どうなんだろうな」
「じゃあ、わたしも同じ店で働いちゃえばいいんじゃない? サポート出来るから」
奈津美が楽しそうに提案してきた。確かに奈津美は賢孝よりも英語が話せるから安心感があるし、それもなかなか悪くないのかもな、と素直に思った。その線で考えると、求人情報を探してみるよりも色んなBARに奈津美と一緒に直接飲みに行って、店の雰囲気も確認しながら直接交渉する方が早そうだ。意見が一致した2人は盛り上がり、近いうちに早速1件ずつ回ってみようと決めた。
久し振りにどう? という奈津美の提案に乗り、サンセットの時間からオリエンタルホテルでディナーに行くことになった。いつもの短パンとビーチサンダルではホテル内に入れてもらえないから、久々に賢孝は普通の靴を履いた。シーロム通でトゥクトゥクを拾い、眩しい西日に向かって走り出す。安っぽいエンジン音、バンコク特有の生ぬるい風と雑踏。今ではすっかり身体に馴染んで心地が良い。茜色に染まった奈津美の横顔を見ていたら、出会ったあの日が感情を伴いフラッシュバックする。目線を合わせずに奈津美の手にそっと触れてみると、奈津美は優しく賢孝の手を握り返してきた。同じような奈津美の想いが、その手の温もりから伝わって来るようであった。スーツの仕立て屋の角を左折し路地を進み、突き当りでトゥクトゥクは停車した。正面玄関のドアマンは、胸のあたりで両手を合わせるタイ式の挨拶でにこやかに出迎えてくれた。甘いお香の香りと特徴的なシャンデリアのロビーを抜け長い廊下の先で外に出ると、雄大なチャオプラヤー川とTHE VERANDAが眼下に広がった。水上バスに乗り込む人達、夕陽が反射する川面の輝き、サンセットに包まれた店内の騒めき。懐かしく思い入れのあるその光景に思わず立ち止まり感嘆のため息をついた奈津美は、薄っすらと涙を浮かべながら満面の笑みで腕を組んできた。予約で押さえていたあの日と同じテーブルに案内された2人は、無言で見つめ合いながら着席する。運命の出会いから今日まではあっという間であったが、非常に濃密な忘れられない日々でもあった。普段はあまり飲まないが、せっかくだからと奮発してクリュッグのグランドキュヴェをボトルでオーダーし、精妙で美しいカットが入ったシャンパングラスで乾杯した。多国籍料理を堪能しながら思い出話に花を咲かせていると、気が付けば陽はすっかり落ちていた。薄暗い店内と周囲の高層ビル群が作り上げる夜景のコントラストが何とも言えないエキゾチックな情景を演出していた。奈津美がかしこまったように椅子に座りなおして、賢孝に言った。
「あのね、お願いがあるの」
「うん」
「2年後の4月24日、わたしの30歳の誕生日に、この席でお祝いして欲しいの。賢孝と出会った、この席で」
「今年の誕生日じゃなくて、2年後なんだね」
「そう。30歳の人生の節目だし、その記念の日に賢孝とここで過ごせたら、一生の思い出になると思って」
「うん、わかったよ。約束する。何なら、今日予約入れていく?」
流石に2年後の予約なんて受けてもらえないんじゃない、と奈津美はとても嬉しそうに笑って言った。照明の幻想的な光が差し込むシャンパングラスが反射し、宝石のように輝いている奈津美に見惚れていた。その煌めきは奈津美自身から発光されているかの如く、太陽のように賢孝の魂を照らし続けてくれた。
「奈津美、綺麗だな……」
あまりにも尊いその運命の人に相応しい表現が見つからず、思わず賢孝はシンプルにそう呟いていた。奈津美は照れ隠しするように無言で微笑みながら一度俯いたあと、ゆっくりと顔を上げて賢孝を見つめ直し、5秒くらい間を置いて、感慨深い面持ちで言った。
「賢孝、愛してる……」
伝う涙を拭うように、奈津美の頬にキスをした。
時は止まり、音は消え去っていた。その寸陰の刹那、世界は2人だけのものになっていた。