15.シェムリアップの夜
シェムリアップの街中に戻る原付トゥクトゥクに揺られながら、賢孝と奈津美は言葉を交わすことなく無言だった。それぞれの人生に突如として起きてしまった不可解な出来事に思いを馳せながらも、繋いだ指の温もりに互いの想いを深く感じ取っていた。時折目が合い、微笑み合い、また視線を逸らしては手から伝わる触覚を喜び愛おしむようにテレパシーのような会話を楽しんだ。しかしその距離感に耐えられないように、奈津美は賢孝の肩に遠慮がちにもたれ掛かって来る。指は繋いだまま賢孝は奈津美を受け止め、互いの身体の温度だけを頼りに運命についてまた言葉無く語り合っていた。
パブストリートというシェムリアップの中心地で下車し、7$に加えて1$のチップを追加してドライバーに渡した。浅黒い日焼けをしたドライバーは、明らかに行きと帰りで違う雰囲気になっている賢孝と奈津美を冷やかすようにニヤけながら口笛を吹いて祝福し去っていく。うだるような暑さでやはり昼間は閑散としているが、ナイトマーケットに向けて準備を始めている店の従業員をちらほらと見かけたりした。賢孝と奈津美は遅めのランチを取るためにベトナム料理の店に入り、冷製の春巻きやフォー、アイスコーヒーをオーダーした。
「奈津美、疲れてない?」
「うん」
キスを交わしてから初めてのまともな会話だったせいか、奈津美は恥ずかしそうに返事をした。今までの奈津美とは全く違うその様子を見て、締め付けられそうなときめきが賢孝の心中をかすめる。その後も言葉少なだったが、オーダーした料理が到着したのをきっかけにやっと2人はいつもの調子を取り戻した。アイスコーヒーを飲みながら、賢孝は言った。
「このあと3時間くらい余裕あるけど、どうしようか? 空港は近いからすぐだけど、またどこかに行くっていう時間でもないしな」
「さっき移動中にね、オイルのフットマッサージが60分1$って書いてあったよ。めちゃくちゃ安くない? たくさん歩いたし、どう?」
「1$って、いくら何でも見間違えじゃないの?」
賢孝は笑って返したが、奈津美は間違いないと言い張った。結局ランチ後に近くのマッサージ屋に寄ってみたら本当に1$だったので疑った罰として賢孝が代金を奢る羽目になった。カンボジアの物価は日本の10分の1以下なのでたまに感覚がおかしくなる。2人は並んでリクライニングチェアに座り、オイルの足つぼマッサージで恍惚の時間を堪能した。
「脳が溶けそうなくらい気持ちよかった……」
奈津美はうっとりとした表情でそう呟く。しかしスマートフォンに届いていたメールを確認した途端「えっ!」という大きな声を出し、賢孝に困り顔を向けて来た。
「どうしよう。使用機材の不良で、予定の便が欠航だって。これ最終便だから今日バンコクに帰れないじゃん」
「つまり明日の便で戻るしかないかないってこと……?」
「うん……」
特に今日バンコクに絶対に戻らなければならない理由など、ない。航空会社の都合だからチケットも保証される。物価が安いから宿代の支払金額に困ることもあり得ない。しかし賢孝と奈津美は動揺を隠せなかった。互いに思っていることはわかり切っていた。わざわざ別の部屋を取るのも不自然だが、一緒の部屋に泊まると露骨に話題に出すのもどうなのか、という狭間で2人はどういう態度を取っていいのかわからず困惑していた。
「とりあえず……。今日のホテル探そっか」
「うん……」
まずはWiFi環境がある場所を探して検索してみることにした。2人は近くのカフェに移動しスマートフォンで空室がある各ホテルの室内などを確認する。普段なら最低限の清掃がしてあって安ければ賢孝はどこでも良かったが、今日ばかりは流石にある程度のクオリティー以上の部屋を探さなくてはならない。週末ということもあり、とくかく安くてボロいか高級ホテルのかなり高額な部屋のどちらかしかなかなかヒットしなかった。「いいのないね、なかなか」と奈津美もスマートフォンを凝視しながら呟いていた。そのうちカフェが昼間帯の営業終了時間になった。夜のBAR仕様での営業に向けて準備があるから一旦クローズするらしい。カフェをとりあえず出ることにした2人だったが、スタッフの1人が賢孝と奈津美を呼び止めた。
「もしかして、今夜のホテル探してる? さっき2人が検索してるのが見えたから」
「そうなの。私達の飛行機が欠航になっちゃって」
「ならこのカフェのオーナーがホテルも経営してるから、聞いてあげようか? 安くしてくれると思うよ」
部屋を見てから決めてもいいか、という約束も取り付けた上で3件隣のホテルに2人は案内してもらった。オーナーは50代くらいの上品な女性でとても感じの良い人だ。
「今日は元々満室でしたが、3時間前にたまたまキャンセルが1件入ったのでそちらの部屋をお見せしますね」
案内された部屋はとても綺麗で快適そうだった。バスルームとテラスが明るく広いのが特徴的で申し分ない。テラスからは雰囲気の良い緑に囲まれたプールが一望できる。普段は1泊50$で出している部屋らしいが、キャンセル料100%を元々の客から徴収しているから20$でいいと言ってくれた。文句のない最高の条件であったが、ひとつだけ気後れする要素があった。ダブルベットということだ。しかしこのホテルの空きもこの1部屋しかない。賢孝はとりあえず、オーナーに20$を手渡し、部屋を押さえた。「Have a good time!」と意味深な笑みを浮かべてウィンクしながらオーナーは出て行った。胸の内が全て見抜かれているようで賢孝は途端に恥ずかしくなった。2人きりになった部屋の中は、妙な緊張感を伴う沈黙となりさらに気まずさが増幅する。
「もしあれだったら……。この部屋、奈津美に使ってもらってオレ別の安宿に移る感じでもいい、からね……」
奈津美を直視出来ずに賢孝は窓の外を見ながらそう伝えた。奈津美は無言になり返事をしなかったが、その代わり賢孝の正面に何も言わず移動してきて、遠慮がちに首を横に振ってきた。
「一緒の部屋で……。だ、大丈夫なの?」
「うん……。一緒に、いたいから……」
奈津美の手を取りテラスに出た。焼け付くような熱量で1日中照らし続けた太陽は、いつしか辺りをピンク色に染め上げている。美しい色彩の光線が降り注ぐ奈津美をぼんやりと見つめていたら、この人と出会うためにこの異世界に飛ばされて来たような気がしてきていた。奈津美も似たようなことを想っているのかもしれない。先のことは何もわからないが、今は奈津美と寄り添いながらこの美しい世界に抵抗せずただ溶けていたい、そう賢孝は感じていた。奈津美はやっと緊張感も落ち着いたようで、穏やかな表情になっていた。
「せっかく雰囲気いいから、プールサイドでお酒を飲みながら賢孝と話したいな」
「うん、いこっか」
ホテルにはBARは無かったから、1Fのショップで瓶のシンハーと缶入りのモヒートを買ってプールサイドのデッキチェアに寝そべりながら乾杯した。奈津美はやっといつもの調子を少し取り戻し、とても美味しそうにモヒートを飲んでいた。しばらく今日1日の楽しかった観光やランチの話で盛り上がっていたら、すっかり陽も落ちて快晴の満月の夜に変わっていた。
「奈津美、ひとつ聞いていい?」
「うん」
「夢を見た後、どうしてTHE VERANDAで毎日待ってたの? あの店だと思ったのは、どうして?」
「夢で見た光景のお店がどこなのか全くわからなくて。川沿いということが唯一の手掛かりだったから、チャオプラヤー川沿いのカフェやレストランを100件以上は回って探したの」
「マジかよ……。バンコク以外の場所かもしれないって思わなかったの?」
「それは思わなかった。確信があったの、バンコクだって。理由はわからないけど、バンコクでその人に会わなければならないって感じてた」
奈津美はしっかりとした強い口調に変わっていた。
「THE VERANDAを初めて訪れた時、全身の細胞が活性化するような感覚があったの。やっとたどり着いたって思った。夢で見た光景そのままだったから。3週間もかかったけどね。理由はわからないけど、取りつかれるように毎日探してたかな」
賢孝は驚きと感動が入り混じって、何も言えなくなっていた。
「翌日からね、開店から閉店まで毎日居たの。流石にスタッフからは変な目で見られてたけど。今だから正直に言うとね、賢孝がお店に入って来た時、すぐわかった。わたしが待ってた人は、この人だって」
賢孝は泣いていた。涙が止まらない。奈津美のその行動にただ感謝すると共に、この出会えた運命の尊さにひれ伏すような思いだった。奈津美も薄っすらと涙を浮かべていた。互いに泣き笑いしながら、2人は見つめ合っていた。
「プール、入りたかったね。本当に暑かったから気持ちよさそう」
「オレ達日帰りの予定だったから、水着どころか着替えも持ってないしね」
リゾートの解放感なのか酔いのせいなのか、奈津美は瞬間、服を着たまま誰もいない夜のプールに飛び込んでいた。あっけに取られる賢孝。濡れた髪をかき上げ、楽しそうな笑顔で奈津美は手招きする。観念して賢孝も服を着たまま、飛び込んだ。爽快感と背徳感に高揚し、2人は顔を見合わせて水に浸かりながら爆笑した。
水面に反射する真っ白な月光がシャンデリアとなり、美しく濡れた奈津美をキラキラと照らしている。賢孝は奈津美を抱き寄せた。銀色に輝いている運命の人に、濡れたまま祈るように熱いキスを贈った。2人は激しく求め合い、朝まで果てることなく愛し合った。アンコールの神々が2人を祝福してくれているような、艶めかしく麗らかな夜であった。