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追憶のパラレルワールド   作者: 長谷川龍司
第3章 バンコクでの日々
15/23

14.アンコール・ワット

 1週間後、賢孝と奈津美は早朝からドンムアン国際空港のイミグレーションで出国手続きを行なっていた。アンコール・ワットを見に行こうと約束した日の翌日には奈津美が勝手に賢孝の分までエアチケットを予約しており、予定が空いているとかいないとかの確認も取られないまま問答無用で同行することとなった。元々自分も行きたかった上に近距離でチケット代も安かったからそれはそれで別に問題はなかったが、奈津美はいつも自分のペースに賢孝を引き込んで来る。

 タイランド国際航空8時20分発のシェムリアップ行は、50分間のフライトであっという間であった。帰りは最終便の17時30分発だから、十分に余裕を持って観光出来るだろう。シェムリアップは「国際空港」とは到底思えない程のこじんまりとした大きさで、田舎の小さな空港であった。イミグレーションはガラ空きなので5分で通過、入国ビザの30$を支払い、あっという間に外に出ることが出来た。カンボジアの自国通貨も存在はしているが、メインで流通しているのは米ドルである。タクシーかトゥクトゥクを拾って遺跡を回ってもらおうと考えていたがバンコクのようなトゥクトゥクは存在せず、代わりにタクシー乗り場に並んでいたのは、大げさな屋根がついているリヤカーみたいなものに2人掛けのクッションチェアーを載せてあり、それを50ccの原付で引っ張るというスタイルのものだった。原付は、40~50年くらい前のモデルが日本から輸出されたものらしかった。

「なにこれー! いいじゃん、これに乗ろうよ」

 奈津美はその原付トゥクトゥクみたいな乗り物を見て、かなりはしゃいでいる。早起きだったせいで賢孝はまだそんなテンションになれなかったが、奈津美はいつも朝から元気な人だ。アンコール遺跡群は複数の遺跡の集合体になっており、全て回ると丸1日かかってしまうらしいので、有名所を2ヶ所回ってもらうことにした。ドライバーから提示されたのは、全部コミコミで10$という金額であった。

「半日回って1400円くらいなんて、めちゃ安いじゃん」

 賢孝がそれでOKと承諾しようとした瞬間、奈津美がそれを制した。

「ダメだよ賢孝。ファーストプライスなんて、ボッタクリに決まっているんだから。これ、東南アジアで生きて行くための常識だからね」

 そう言って、奈津美はドライバーと交渉を始めた。下げないなら他のトゥクトゥクに行くからね的な素振りをして駆け引きをし、結局7$まで値切ることに成功した。

「すごいな、奈津美。いつもそうやっているの?」

「バンコクは都会だからこんなことする必要はないけど、地方に行ったら全ての金額を疑っておいて間違いはないわ」

 ドヤ顔も、奈津美は可愛い表情だった。遠出のデートに来てるみたいで、久しぶりに賢孝は恋のときめきのような胸の高鳴りを微かに感じていた。南国特有の甘い花のような香水の香りが賢孝の鼻腔を刺激する。初めて感じた、奈津美の香りだった。いつも奈津美は香水はつけていないから、今日は特別に楽しみにしていたのだろうな、ということがそこから読み取れた。

 原付トゥクトゥクは、時速20kmの非常にのんびりとしたスピードで進む。田園風景を見ながらゆったりと揺られて、それが妙に和んで気持ちが良い。途中アンコール遺跡群の共通入場チケットを事務局で購入し、また原付トゥクトゥクは呑気な速度で進んで行く。今日はアンコール・ワットとタ・プローム寺院を観光することにしていた。奈津美がアンコール・ワットの見どころについて前もって調べて来ていたらしく、スマホを見ながら音読して説明してくれた。

「アンコール・ワットは、寺院建設に熱心だったアンコール王朝のスールヤヴァルマン2世によって建てられた。ヒンドゥー教最大の寺院と言われ、建てるために30年を費やした壮大な建築物だ。その後アンコールが放棄されるとアンコール・ワットも忘れられたが、後年発見された。精巧なレリーフが見どころで、聖な寺院を飾るため、老化や壁面は精緻な薄浮き彫りで埋め尽くされている。その中でも特に素晴らしいのは乳海攪拌という壁画で、これは第1回廊にありヒンドゥ教の天地創造の神話が50mほどもある」

 そして程なくして、原付トゥクトゥクはアンコール・ワットに到着した。視界に入って来たのは息を飲むほど荘厳で美しい、神々しい存在感の遺跡であった。しばし言葉を失った賢孝と奈津美はただ茫然と立ち尽くし、宇宙の意思で建立されたかのようなそのアンコール・ワットに魂を奪われていた。美しい緑の絨毯を切り裂くように敷かれている通路を進み、真正面からその雄姿をしばし鑑賞した後は、回廊を回ってヒンドゥーの宗教美術の繊細さに驚愕しながら言葉少なめに2人はアンコール・ワットを堪能した。

「想像の100倍、凄かった……」

 奈津美はうっとりとした表情で、そう呟いた。

「ほんとだね……。誘ってくれてありがとな」

原付トゥクトゥクに乗り、ミネラルウォーターで水分補給しながらまた移動する。タ・プローム寺院は入口からかなり歩くらしいので、水を飲んでおけとドライバーがアドバイスしてくれた。また奈津美がスマホで調べて来た見どころについて音読してくれた。

「タ・プローム寺院は1186年、ジャヤヴァルマン7世が母親を弔うために建てた仏教僧院だったが、後にヒンドゥー教寺院に改造されたとみられているため、仏教色の強い彫刻の多くが削り取られている形跡がある。碑文によると建立当時、僧院には5000人余りの僧侶と615人の踊り子が住んでいたと伝えられている。建設後も建物の増築が続けられたと見られ、周壁の内部は迷路のように入り組んでいる。タ・プロームは自然の力をそのまま表現するために、樹木の除去や本格的な積み直しなど、修復の手を加えないまま据え置かれてきた。しかし、近年この方法は限界に達してきており、樹齢300~400年にもなる巨大榕樹が遺跡を浸食して押しつぶされながらもかろうじて寺院の体裁を保っている」

 奈津美は普段から活舌よくハキハキと話す人だから、説明もとても聞き取りやすかった。読み終わり、微かに笑みを浮かべながら賢孝に視線を送ってくる。

「何かで見たことあるかも。遺跡が樹木に浸食されてるやつでしょ」

「オレも、前にテレビで見た記憶あるな。ていうか奈津美、それって過去の記憶? 全部忘れてしまってる訳じゃないんだ」

「うん、あまり自分の生活や人生に関係ない知識的なそういうことって覚えてるんだけど、それをどういうシチュエーションで知ったみたいな場面的なことがわからないんだよね」

 その後、何て言っていいかわからずに賢孝は言葉が続かなかった。その代わり、励ますような気持でアイコンタクトし、奈津美は優しい眼差しでそれを受け取ってくれた。タ・プローム寺院の入口に到着して2人は遺跡に向かって歩き出したが、まだ視界に入って来ないのでなかなかの距離がありそうだ。けど時間はたっぷりとあるから、ゆっくり進めばいい。ガジュマルの一種であるスポアンの大樹が辺り一面に生い茂っておりある程度の日光は避けることが出来たが、それでもやはりカンボジアの昼下がりは燃えるように暑かった。人を寄せ付けないようなその大自然の風景に賢孝と奈津美はただ静かに足を進めていき、時折目が合う度に微笑み合い、無言の会話を繰り返した。

 そして15分程歩いた先に、ついにタ・プローム寺院が姿を現した。樹木に浸食され、他排的なその遺跡はかつての繁栄を見る影もない。大蛇のように見える木が石に絡みつき丸ごと飲み込んでしまいそうになっていたり、スポアンの根の上にさらに別の植物の根が張り巡らされ、まるで生物の毛細血管のようだ。時の空虚を感じるタ・プロームの姿は、複雑な事情を抱えた賢孝と奈津美自身に重なるものがあり2人は言葉を失っていた。それぞれの人生を代弁しているような、儚い夢の跡。奈津美は、静かに涙を流していた。賢孝は奈津美の濡れた頬に触れ、涙を拭った。周囲に全く人影は無く、静寂の中2人はただ見つめ合い佇んでいた。

「あの…… ね、賢孝、教えて欲しいことがある」

 視線を外して俯き、風化してしまいそうな小さな声で奈津美は言った。

「あの日……。私達が出会った日、どうしてあの店に1人で来たの? 何を言われても受け止めるから、本当のことを教えて」

 今、その話を出すということの意味を理解し賢孝は驚愕していた。賢孝の胸の内を全て奈津美はわかっていて、わかっていることなのにあえて言わせて確認を取りたいという、そんなニュアンスだった。賢孝は、意を決して奈津美に告白した。

「けっこう前に夢を見たんだ。川岸に佇んでいる赤いワンピースを着た女性の。顔はわからないんだけど、オレはやたらとその人に固執して一生懸命何かを訴えかける。けどその女性はこちらには全く反応せず、スッと消えてしまう、そんな夢だった。水上バスを降りた後に奈津美が視界に入ってきて、夢と全く同じ光景だったから引き寄せられるように店に入って奈津美の隣に座った。けど、話しかけるつもりは無かったよ。そこまで勇気は無かった」

 奈津美はまた言葉を失い泣いていた。思わず賢孝は奈津美を抱き寄せた。何故、奈津美が泣いているのかはわからなかったが、賢孝の話を確認したあとの安堵の涙のようにも見えた。

「わたしね…… 夢を見たの」

 奈津美は、賢孝を見つめながら続けた。

「わたしが川岸にあるお店で誰かを待ってる。それをもう1人の自分が俯瞰して見ている夢。理由はわからないけど、絶対に会わなきゃダメな人なの。けど待っても待っても来なくて、痺れを切らしたわたしはその場を去ってしまう。入れ違いのようにその人は現れて一生懸命わたしを大きな声で呼んで探すんだけど、わたしには聞こえていなくて気付かない。それを俯瞰して見ているわたしはとても悲しくて……。そんな夢だった」

 運命のようなその奈津美の夢の話に賢孝は言葉を失った。奈津美はタ・プロームの女神のような慈悲深い美しい表情で、賢孝を愛でるように見上げていた。

 風が止み、辺りは完全な静寂となる。この世界に存在するのは賢孝と奈津美だけであった。引き寄せられるように、静かなキスを交わした。


 そして時は止まり、2人は永遠となっていた。

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