13.CONNECTION BKK
翌朝、賢孝はいつものお決まりのカフェでアイスコーヒーを飲みながら、PCでパラレルワールドについての記事や文献などを読んでいた。都市伝説的なオカルト寄りのものから真面目な学説的なものまで。科学的進歩が恐らく元の世界と同レベルであるから、やはり何を読んでも「仮説」という領域を超えないものばかりだ。この世界の中の専門家や研究者を訪ねて「パラレルワールドから来たんですけど」と言ってみたらどうなるのだろうか。大騒ぎになったりテレビ業界の格好のネタにされて晒され生きにくくなるのは目に見えているし、言ったところで元の世界に戻れる方法などある訳が無いからやはりやめておこう、と賢孝は思った。日中のパッポンストリートは、夜と同じ場所とは思えない程の静寂だった。南国特有の文化なのだろうが、昼間は暑すぎるから人々は外をなるべく歩かない。陽が沈み涼しくなった頃にナイトマーケットがオープンして街に活気が出てくるという風習だ。
「あ、賢孝、おはよう! 起きるの早いね」
散歩をしていたのか、奈津美がカフェのテラス席にいた賢孝を発見して声をかけてきた。やばい、と思い慌てて、しかしそれを悟られないようにパラレルワールドについての記事を閉じた。ワンポイントのロゴが入った白いTシャルに軽くダメージが施されているスリムなデニム、大きめのサングラスにキャンパス生地の黄色いサンダルという、昨夜と印象が全く違うシンプルな装いが良く似合っている。奈津美は許可も無しに賢孝のテーブルに座って来た。注文を取りに来た店員にレモネードをオーダーした後、奈津美に尋ねられた。
「いつも朝は、ここにいるの? 毎日、必ず? 何時くらいから?」
「まあ、だいたいはそうかな。けど、なんで?」
「賢孝と話したくなったら、朝にこのカフェに来たらいいんだなと思って」
「だったらその前にスマホあるんだから電話くれたらいいじゃん。昨日連絡先教えたでしょ」
「そうじなくて。今日みたいに通りがかりにたまたま会いました、的な感じがいいの」
「違いがよくわからないけどな」
屈託の無い顔で奈津美は笑っていた。昨日偶然に出会い3時間話しただけだったが、正直すでに奈津美に引き込まれそうになっていた。今まで誰にも感じたことのない初めての感情が生まれつつあるのを自覚していた。絶対に一目惚れなどしない性格だし、確かに奈津美は美人だとは思うが好みのタイプではない。しかし奈津美に対して自分の潜在意識が先走ってしまいそうになり、賢孝の顕在意識が必死にそれを捕まえ抑え込んで常識的なラインの内側に留めておこうとするが、決定的な何かを発見してしまった潜在意識は言うことを聞こうとしてくれず、まるで訴えかけてくるかの如くその線を越えようとして困らせてくる、そんな感覚だった。これって、井本さんが言ってた「決定的に運命を感じたら、自分を止めることなんて出来ない」ということなのかもしれない。賢孝自身の中に発生しているこの未体験の感情は、井本さんが言っていた話に十分な類似性があると感じていた。とはいえ出会ってからまだ24時間も経っていない訳だから、全ては時期尚早だ。一旦落ち着こう、と賢孝はいつもの冷静な自分に心の中で移動した。
出会ったばかりの相手に対して奈津美は土足で踏み込んでくるかのように遠慮がない上にそもそも初対面から呼び捨てでタメ口だったが、普段の賢孝なら一番苦手なタイプだ。礼儀を重んじる両親に育てられたせいなのか、馴れ馴れしい人が好きではない。だけど、何故なんだろう。奈津美のペースに乗せられていても全く嫌な気持ちにならないどころか、どちらかというと初めて話した感じではなく、前から知っていたような懐かしい体感があった。引っ掛かる肌感が何もなく、浄化された純水が肌の表面から違和感なく全身に染み渡っていくような。気を遣わなければならないような雰囲気もなく、気の合う友達以上の特別な間柄になりそうな予感を初見から感じさせられていた。たまたま夢で見た光景と似ていたから、そう思い込んでしまっているのかもしれないけれど、と冷静な自分も今の段階では並行して存在はしていた。
「ね、どうして昨日、1人であのレストランに入ってきたの? 特別に絶対に来たかった店って訳じゃなさそうだったし」
かなり返答に困る質問だった。赤いワンピースに引き寄せられてしまった、なんて絶対に言えない。キモがられることが確実だし、賢孝自身も何故あの時に店に入ってしまったのかよくわからないというのが実直な本音だった。
「正直に言うとね、オレも何で店に入ったのか自分でもよくわかならい」
なにそれ、と奈津美はレモネードのグラスを両手の細く長い指で抱えながら笑った。
「奈津美は、あの店にはよく行ってるの?」
「昨日が5回目。5日連続で、5回目」
「5日連続? 5日とも1人で?」
「うん、そう」
「そんなに好きなの? あの店、確かにロケーションは本当に素晴らしいから気持ちはわからなくもないけど。けど1人でレストランって寂しくない?」
「寂しいよ、とっても」
「じゃ、どうして行くの?」
「ええとね、ナイショ」
「なんだよ、それ」
記憶喪失の女と、異世界から飛ばされた男。複雑な事情を抱える普通ではない者同士なのだから、詮索すると古傷を抉るようなことにもなりかねないから深追いすべきではないな、と思った。過去の記憶を全て失ってしまった自分のことを悲観して川面を眺めながら物思いに更けていたのかもしれない。しかし天真爛漫なこの奈津美の性格から考えて、あのレストランに1人で5日連続というのは必ず何か理由があるのだけは明確に感じ取っていた。
「賢孝ってさ、日本では何の仕事をしてたの?」
先程の話題を避けるかのように奈津美は質問してきた。
「バーテンダーやってた」
「へー、すごいじゃん。お酒詳しいの?」
「まあ、仕事だからね」
「じゃあ、BARに連れてってよ。お酒のこと教えて」
「まあ、いいけど。いつ?」
「今夜。だって賢孝、予定なんて無いでしょ」
失礼だな、と茶化して返したら、奈津美は無言で悪戯な笑みを浮かべていた。
「暇なの、奈津美もじゃん」
「わたくしはいつも忙しくってよ」
「はいはい」
そんな他愛もないやりとりを楽しんでいるうちにあっという間に正午近くになっていた。高度を上げたバンコクの燃え立つ太陽が燦々と照り付けてくる。流石にそろそろ暑くなってきたから戻ろっか、と解散して、一旦それぞれの部屋に戻ることにした。
CONNECTION BKKは、シーロム通を挟んでパッポンエリアの反対側にあるオーソドックスなBARだった。夜のオープンエアのテラス席はとても開放的な気分を盛り上げてくれる。
「このBARね、前から来てみたかったんだけど女1人で入るのはちょっと恥ずかしいっていうか勇気が要るから来れなかったの」
「けどさ、THE VERANDAには1人で行ってたじゃん。しかも5日連続で。あっちの方が1人で行きにくいと思うんだけど」
「それはね、色々とあるの」
不可解というか、奈津美はとても謎めいていた。何に対しても物怖じしないタイプかと思ってたけど、そういうところは普通の女子なんだな、と賢孝は思った。それよりも、そんな性格の奈津美がTHE VERANDAに5日連続も行っていたことが気になって仕方なかった。理由を聞きたかったが、その話題になったらいつも濁す様子を考慮すると今はまだ触れない方がいいのかもしれない。とりあえずの1杯目はいつものシンハーにする。バンコクに来て以来、爽やかでコクのあるシンハービールを賢孝はすっかり気に入っていた。
「賢孝のお勧め教えてよ、甘くないやつ」
「じゃあモヒートは? 飲んだことある?」
「飲んだことないかな。じゃ、それで」
不思議な出会いにかんぱーい! と奈津美はふざけてグラスを当てて来た。陽気なミドルテンポのBGMが気持ちのいい風が流れるバンコクの夜を演出してくれる。ラムとミントが効いてさっぱりとした南国に相応しいモヒートを奈津美はかなり気に入ったようで、2杯目も同じものをオーダーした。賢孝はメニューの中になかなかお目にかかれない珍しいウィスキーを発見したのでダブルロックを頼んだ。ジャックダニエルのテネシーファイヤーは蜂蜜、メープルシロップ、ナッツフレーバーを加えた「口当たりのよいジャックダニエル」的なリキュールだ。雑味の強いバーボンと甘味の相性が良く、アルコール度数は35%と強いが非常に飲みやすい。奈津美は断りもせずにそのロックグラスを賢孝から取り上げ口に含む。最初の一口飲んだ瞬間は度数の強さに顔をしかめていたが、かなり好きな味らしくすぐに賢孝の顔を見ながら笑顔に変わっていた。
「これすごく美味しいね。次、私も頼もうかな」
「めちゃ度数が強いけど大丈夫? 奈津美、お酒強いの?」
「わたし、弱いよ」
「じゃ、やめときなよ」
「いいの。酔いたい日もあるじゃん」
瞬間、あの日のことがフラッシュバックしていた。美里を抱いたあの夜。抱いてみたらわかる、と井本さんは言っていたがそれを思い出したり考える余裕は今まで無かった。今となっては美里との関係は状況的にあまりにもリアリティーが無く、賢孝の中でも回答を出せるような心境でもなかった。自分はこんな異世界にいるのだから。
「フラれた彼女のことでも思い出した?」
覗き込むように奈津美が聞いてきた。茶化している、けど心から心配しているような、最も賢孝の心を悪戯に傷つけずに済むこれ以上ない完璧な表情であった。
「ううん。そういうんじゃないよ。色々とね」
「じゃあ、何で現実逃避旅行してるのよ」
「それは……。まあ、そのうち話すから」
「ふーん」
互いのことを聞きたいけど、色々と事情がありそうな若い2人はある一定のラインから先にはまだ踏み込めずにいた。こんな異国の地で孤独な他人同志なのだから別に何でも言ってしまえばいいのかもしれないという共通の思いを抱えながらも、全てを忘れられそうなこの楽しい時間を汚してはいけない、という暗黙の了解が2人には形成されていた。今はまだ、傷付いた心をゆっくり癒していくためにただ馬鹿な話で笑い合っていることが正解なのかもしれない。当たり障りの無い話題を脱力してただ意味も無く話し込んで、笑って過ごす。今はそれ自体に意味があるように思えた。
「賢孝、お寺とか遺跡とか、バンコクに来てからどこか行った?」
2時間程経過した頃、テネシーファイヤーですっかり酔い少々ろれつが回っていない口調で奈津美がそう尋ねてきた。
「ダラダラとシーロム周辺で過ごしてただけで、どこにも行ってないんだよね。水上バスに乗ったくらいかな」
「じゃあ、今度アンコールワットに行くの付き合ってよ。カンボジアの」
「タイから出るの? マジで?」
「出るって言っても飛行機で40~50分だよ。観光して、日帰りも出来るから」
「外国に日帰りって、日本じゃ考えられないな。うん、いいよ。じゃ、いこっか」
アンコールワットは、いつか行きたかった遺跡だった。パラレルワールドにもアンコールワットはあったんだ、と酔いの油断で思わず言いそうになり、ハッとして堪えた。バンコクに来て以来、自分が異世界に飛ばされていることを忘れる瞬間が多々あった。それ自体が目的だったから喜ばしいことではあるが、奈津美との今後の関係を考えたらその秘密は死守すべきであり、決して口を割ってはいけない。孤独にまた戻ってしまうことが怖い訳ではなく、理由はわからないがただ単純に失ってはいけない人のような気がしていた。
突然のスコールに見舞われ、賢孝と奈津美は一目散に店内へと避難した。コンクリートを打ち付ける耳障りの良い雨音。酔いのまどろみの中で2人は立ち尽くし、そのBGMに身を委ねてバンコクの夜に溶けていった。