12.奈津美
あまりにも安かったために賢孝は少々ビビりながらチェックインしたが、S・S HOSTELは想像以上に清潔で快適な宿だった。同部屋の欧米人のいびきが少々うるさかったが、酔いの助けもありすぐ眠りにつくことが出来た。フロント前のラウンジスペースは自由に使用することが出来て、WiFiも安定感がある。サウナ通いをしていた賢孝にとってシャワーしかないのが唯一物足りない点ではあるが、そんなものはある訳が無いことも最初から理解していたので特に不満は無かった。結局そのままS・S HOSTELでの滞在を延長し、10日間くらいはホステルのラウンジか近所のオープンエアのカフェでほとんどの時間を過ごした。観光地なども検索はしていたがまだ行動的になれるような気分ではなく、何もせずダラダラとコーヒーやビールを飲んで過ごし、腹が減ったら大概はホステル裏のマーケットで100バーツの弁当を購入して食べていた。
「KENはいつまでバンコクにいるの?」
それなりに日本語が話せるS・S HOSTELの受付嬢が賢孝に質問した。彼女は賢孝のことをKENと呼んでいた。日本に2年くらい住んでいたことがあるらしい。たぶん30歳前後で見た目は悪くないのに下品な笑い方をする女だ。
「特に決めてないよ。色々と自己嫌悪で何も考えたくないから、ここでダラダラと過ごしてるだけ」
「ジコケンオってどういう意味?」
「自分のことが嫌になったってこと」
「ふーん。KEN、色々あったのね。複雑なこと?」
「複雑過ぎて、説明出来ないよ」
パラレルワールドから飛ばされてきました、などど言える訳が無い。言ったところでセンスの無い冗談に取られるだけだ。
「KEN、気分転換にどこか行ってきたら?」
「まあ、そうだね。お勧めの場所、ある?」
「遺跡、寺院とか。水上バスの船に乗るのも気持ちいいよ」
リバークルーズか。気分が良くなりそうだ。一番近い乗り場はどこかを聞くことにした。
「シーロム通を真っすぐ突き当りまで行ったら右に曲がって、ちょっと進んだら左側にスーツの仕立て屋があるからそこを左に曲がると、オリエンタルホテルがあるの。そこに確か乗り場があるはずだよ。マンダリン・オリエンタルは一流ホテルだから、サンダルとかTシャツだと入口で止められるから気をつけてね」
早速準備してシーロム通に出たが日差が強過ぎてとても歩く気にならない賢孝は、トゥクトゥクというオート三輪車タクシーを拾いオリエンタルホテルに向かった。東南アジアの大都市独特の雰囲気にトゥクトゥクは良く似合い、南国気分を盛り上げてくれる。生ぬるい風に吹かれて、傷んだ賢孝の心身は浄化されるようであった。10分ほど走ると、メイン通からそれほど明るくない路地の奥にトゥクトゥクは停車した。とても一流ホテルとは思えないような場所に正面玄関があり、賢孝は「ここが本当にオリエンタル?」とドライバーに確認したほどであった。ドアマンがにこやかに出迎えてくれてロビーに入ると、特徴的な装飾が施された釣り鐘ような形のワイヤーで吊り下げたシャンデリアが複数、全体がシンプルにライトアップされている。シャンデリアの間には綺麗に剪定されたセンスの良い植物が飾られ、甘い香りが漂う。この何とも言えないエキゾチックな空間に賢孝は一瞬で魅了されていた。右手にあるガラス張りの長い廊下を進み、外のプールサイドを抜けると雄大なチャオプラヤー川が眼下に突然広がり、賢孝は息を飲んだ。「母なる大河」と呼ばれるチャオプラヤー川の貴族のような風格と気品に圧倒され、言葉を失った。「THE VERANDA」というオープンエアのレストランの脇に水上バス乗り場があり、程なくして船が到着したので賢孝は50バーツを支払い乗り込んだ。オリエンタルに並ぶように建っているシャングリラホテルを通過しタクシン橋の下をゆったりとくぐると、大小さまざまな寺院が遠くに見える。カペラバンコク、フォーシーズンズ、ラマダプラザと続き、それらの妖艶な光色が街全体を演出しているようであった。ここバンコクでは、海ではなくリバーサイドが最もラグジュアリーなエリアであり一流ホテルが連なっている。背の高いオフィスビルとローカルな民家が混在していて一見まとまりが無いように感じるが、決して日本では見ることの無いそのバンコクらしい無秩序と整合性が共存する独特の風景に賢孝は心身の全てを奪われていた。バンコクには衝動的に何となく来てしまったが、縁や運命があったのかもしれない。五感の全てから溶け込んで来るような心地良さがこの街にはあった。30分ほど下って一旦下船し、復路便に乗ってオリエンタルホテルに戻った賢孝はロビーに足を向けながらもTHE VERANDA越しに流れるチャオプラヤー川をぼんやりと眺めていた。気持ちの良さそうなオープンエアのレストランでは食事をしたり、のんびりワインを楽しんでいる客で賑わっている。その中に、真っ赤なワンピースを着た女性の一人客がふと賢孝の視界に入ってきて思わず意識を取られた。何故だろう。ここには初めて訪れたはずなのに、この感じは見たことがある気がする。川岸に立つ、赤いワンピースの女性 ──
「そうだ……。夢でいつか見たかもしれない……。元の世界の時に」
気のせいだろうと思いながらも、賢孝の視線はその赤いワンピースに縛り付けられていた。そもそもこんな一流ホテルのレストランのディナータイムに女性が1人で来ていること自体が妙な光景なのだが、言い表せないようなそれとは違う断ち切れない何かがあった。待ち合わせなのかもしれない。話しかける訳にもいかないが、引き寄せられるように賢孝はTHE VERANDAに立ち寄った。スタッフからどの席が良いか尋ねられた賢孝は、たまたま空いていた赤いワンピースの女性の隣のテーブルを選び、着席した。いつもマーケットの100バーツの弁当を食べて生きている賢孝の基準値から見てドリンクもフードもとても値段が高かったが、冷静に考えたら普段食べているものが安すぎるだけで、まあ普通のレストランの金額かと思い直し、シンハーと軽いシーフードを注文した。現地のSIMカードを差し込んであるスマートフォンをバックから取り出し、何となくMAPを眺めながらも意識は赤いワンピースの女性に奪われていた。直視したいが席が近すぎてなかなか目線を動かすことが出来ない。そんなことを考え油断していたのか、賢孝は手を滑らせてスマートフォンを落としてしまった。コンクリートの床に思いっきり叩きつけられたが、奇跡的にスマートフォンは無事だった。思わず賢孝は、安堵を声に出してしまう。
「あぶねー。よかった……」
「あなた、日本人なの?」
突然ネイティブな日本語で声を掛けられ、驚き顔を上げてみたら声の主は赤いワンピースの女性だった。不意を突かれて無言になっている賢孝に、その女性は続けた。
「日本人が1人でこのレストランに来るなんて珍しいから、ビックリしちゃった」
「ていうか、あなたもじゃないんですか? 日本人の1人客」
この可笑しな状況と会話の内容に思わず2人は同時に笑っていた。
「水野奈津美。よろしくね」
「水野さん。俺、石田賢孝です」
「賢孝、奈津美でいいよ。年齢同じくらいでしょ」
「俺、今年25」
「ふーん。私の2コ下か。落ち着いてるから年上かと思った」
「よく言われるけど、けっこう実はそれ気にしてる」
奈津美はまた笑っていた。南国では浮いて目立ってしまうであろう透き通るような真っ白な肌とスレンダーで長い手足。軽く茶色に染めた肩よりも少し長いサラサラなストレートがよく似合っていた。赤いワンピースがさらにその特徴を引き立たせて、周囲の客や男性スタッフの視線を集めている。奈津美は賢孝のテーブルに自分のドリンクと共に移動して来て「これもご縁だから一緒に飲みましょ」と居酒屋ノリのようなことを、とても上品な口調で賢孝に言った。真正面から奈津美の顔を見たら左目の目元にほくろがあり、やたらとセクシーな雰囲気が際立っていてドキドキした。
「賢孝は、一人旅?」
「まあね、そんな感じ」
「いつからバンコクにいるの?」
「10日くらい前かな」
「ふーん。いつまで?」
「わからないな……。何も決めないで来ちゃったから。どこでもよかったけど、衝動的にバンコク行のチケット買って気が付いたら飛行機に乗ってた」
「なにそれ~。現実逃避旅行とか?」
「図星だけど、そんなにハッキリ言わないでよ、またヘコむから」
その賢孝の発言にまた笑っていた。会ったばかりなのに、その屈託の無い無邪気な笑顔に吸い込まれそうになっていた。
「奈津美は? いつからバンコクにいるの?」
うーん、と賢孝から目線を外し数秒間、遠くを見つめた後に奈津美は言った。
「記憶があるのは、1ヶ月前くらいかな」
「どういうこと?」
「私ね、過去の記憶が無いの。気が付いたらバンコクに1人だった。自分が日本人ということはわかるんだけど、何故自分がバンコクにいるのかも覚えていない」
賢孝はそれに対して的確な返答を生み出すことが出来ず、絶句していた。驚き過ぎて、ただ無言で奈津美の顔を見つめることしか出来なかった。自分の身に起きていることもあり得ないくらい不幸だったが、奈津美から発せられたそれと比較するとまだ自分は記憶があるだけマシなのかもしれない。自分が何者かわからない状況で1人異国の地に放り出されている奈津美の立場を考えると、いたたまれない気持ちにもなった。
「ビックリした?」
「そりゃ驚くよ。けど何か思い出せたりは、した?」
「思い出せそうになったりならなかったり、かな。最初はもちろん動揺した。朝起きたら、知らないホテルの部屋で1人で。えっ、て思って外に出たら、すぐに日本じゃないってわかって」
賢孝は思わず自分の身に起きていることを告白しそうになったが、耐えた。シチュエーションが同じなだけで、奈津美はただの記憶喪失なだけなのだから。パラレルワールドの話などしたらドン引きされるのは目に見えているから、賢孝は沈黙を貫いて奈津美に続きの話を促した。
「とりあえず落ち着こうと思って部屋に戻ったんだけど、何でここにいるんだっけ? とかそもそもここはどこ? とか考えてるうちに、過去のことを何も思い出せない自分に気付いて……」
その気持ちが良くわかる賢孝は、胸が痛んだ。慰めの言葉を逆に言われたくない今の奈津美の気持ちがよく理解できる賢孝は、話題の線を少しだけ変えてみた。
「そのままホテル滞在してるの? 生活予算とかは?」
「それがね、バックの中に封筒が入ってて。恐らく銀行の窓口で引き出した明細と一緒に200万円が入っていた。突然そんなものがあったら怖くなるでしょ? けど口座名義人が私の名前になってたからそこから推測できる唯一の情報は、記憶が無くなる前の私自身が銀行から200万円を引き出して1人でバンコクに来たであろう、ってこと」
「なるほど……。で、今も思い出せてないってことか」
「うん」
「ていうかさ、会ったばかりでいきなり突っ込んだ話を聞かせてくれたけど、その話、他に誰かに話したり相談してるんでしょ?」
「ううん。初めてした」
「えっ……。どうしてこんな会ったばかりなのに話してくれたの?」
「何でだろうね。話したくなっちゃった、賢孝の顔を見てたら」
そう言ったあと、奈津美は目線を対岸の夜景に移し黄昏れて無言になった。賢孝は胸がキュッと締め付けられ、同じ思いが湧き上がっていた。奈津美の顔を見ていたら、自分の境遇を話したくて仕方なくなる。出会ったばかりなのに、何故か。一旦落ち着こう、とまた賢孝はいつもの口癖を心の中で呟いて自分自身をクールダウンさせた。目線を戻しパッと明るい表情に切り替えた奈津美は言った。
「賢孝は? 滞在期間決めてないんでしょ? 生活費はどうするつもりなの?」
「オレも。300万貯金してたのを持ってきた」
「ちょっと、真似しないでよ」
「真似してないよ。オレの方が100万多いし」
シリアスな空気がまた一変し、2人は笑い合った。互いの複雑な身の上話は自然と終わり、バンコク市内のお勧めの店や周辺の観光スポットの話題になり、今度一緒に行こうと約束した。これまでに起きた辛い出来事を全て消し去るように、間を置かずに2人はずっと笑って話し込んでいた。とにかく楽しくて、癒される時間だった。奈津美も同じような気持ちを感じている気がしたし、奈津美に自分が溶け込んで行ってしまいそうな感覚にも陥っていた。THE VERANDAとチャオプラヤー川の空隙の魔力が2人をそうさせたのかもしれない。あっという間に夜は更け閉店時間となり、2人はそろってオリエンタルバンコクのロビーから外に出た。
「奈津美は、どこに泊まってるの?」
「シーロムフラマホテルってとこ」
「マジで? オレのホステルの斜め向かいじゃん」
「そうなの? じゃ、一緒にトゥクトゥク乗って帰ろ」
夜のシーロム通は空いていて、2人を乗せたトゥクトゥクは加速度を上げていった。横並びに座った奈津美のサラサラな髪が風圧で乱れ、賢孝のほほをくすぐった。ほろ酔いの奈津美は無言で慈しむように微笑んでいた。
きらびやかで艶やかなバンコクの夜は、孤独に傷付いていた2人を照らし慰めてくれるように光り輝き続けていた。