10.旅立ち
翌日、朝から賢孝は家の中を物色していた。他人の家のような自宅の中で「この異世界での石田賢孝」の手掛かりになるものを探さなくてはならなかった。自分は一体、何者なのか。今までと同様に派遣社員やバーテンダーなのかもしれない。岡本さんが元と同じ職場だったように。しかし残念なことに賢孝の職場は元の場所に存在していなかったし、財布の中に社員証なども無かった。バックの中にも手掛かりになるようなものは無く、恐らく大切な書類をまとめているのであろう引き出しの中にもそれらしいものは全く見つからなかった。賢孝はPCで「SHOTBAR・HIGHLAND」と検索してみた。似たようなものにヒットしたが、全く別の地域や外国のWEBサイトだったのでこれは間違いなく関係の無い情報だ。派遣会社を検索しても、存在は確認出来ない。もうススキノの全てのBARに顔を出してみるしかないのかもしれない。今の賢孝には、それが可能な時間と予算だけはあった。今日か明日から2~3件ずつ行ってみるか、と賢孝は考えていた。
パラレルワールド ── 岡本さんが話してくれたその話は、とても興味をそそられるものであった。仮に奇跡が起きて元の世界に帰還出来たら「パラレルワールドにトリップした人間」として有名になれるかもしれない、と呑気なことを考えながら、パラレルワールドについて検索してみた。
【パラレルワールド】
パラレルワールド(Parallel universe, Parallel world)とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空とも言われている。そして、パラレルワールドは我々の宇宙と同一の次元を持つ。SFの世界の中だけに存在するのではなく、理論物理学の世界でもその存在の可能性について語られている。
138億年前にビックバンが起きた際に気泡のようにいくつかの「双子兄弟のような宇宙」が誕生して、それが別々の場所で膨張しながらそれぞれの宇宙を形成しているが、双方は同じ三次元でしかもリンクし続けているから常に関連のある似たような世界が存在している。故に時空の歪みが生じて賢孝や岡本さんのようにテレポートされてしまうことが稀に起きてしまう、そういった仮説という訳だ。その仮説を立てた人に言ってあげたい。あなたの仮説は正しいですよ、と。生き証人となってしまった賢孝はひとり呟いた。この世界がパラレルワールドだということは、賢孝の中ではすでに確信に変わっていた。何故なら、一見「異世界」とは思えないほど仕組みも言語も人々の習慣も常識も、元の世界とほぼ変わりがない。絢ふぶきのように、全く同じものまで存在している。リンクしている、という学説がとてもしっくりきていた。何千年後には双方を行き来する方法が確立されているのかもしれないが、現時点では壊滅的に無理な話であった。とにかくやるべき仕事などは現時点では何も無い訳だから、今は自分は何者なのかということを突き止めるために思いつくことを日々調べたりやってみるしかなかった。週に2~3回は岡本さんと飲みに行き、パラレルワールドについて新たにわかったことを情報交換したり、元の世界の話で盛り上がったりした。1ヶ月が経過した頃には、互いにとって完全に必要不可欠な存在となっていた。
しかし、その日は突然訪れた。何も進展がないままこのパラレルワールドにも少し慣れ始めていた矢先、賢孝にとって全てが根底から覆るようなとても大きな事件が起こってしまう。その日、いつものように賢孝はサウナに入るために絢ふぶきに向かっていた。あれだけ最初は絶望していたのに今ではそれなりに現状を受け入れられるまでに落ち着けている。岡本さんの存在が大きいのもあるが、人間というのはやはり環境適応能力があるものだ。受付で大小のタオルを受取り、男性浴場に向かう。岡本さんは昨日も今日も見かけないから、多分2連休なのだろう。たまには岡本さんの連休がある時に2人で遠出してみるのもいいかもしれないから今度誘ってみることにしよう。そう思いながら、いつものようにサウナを楽しんでいた。風呂から上がり男性浴場を出た賢孝はそのまま受付へ向かい、会計のための列に並ぶ。受付の後ろの壁にはスタッフの名前一覧があり、賢孝はボーっとしながら意味もなくそれを眺めていた。何度も見たことのあるスタッフ名簿だったが、何故か今日に限って感じた、説明のつかないような微かな違和感。その虫の知らせのような感覚にザワザワし、賢孝は名簿を一人ひとり確認してみる。
「岡本さんの名前が、無い……?」
嫌な予感がした。岡本さんが何も言わずにこの職場を辞めるわけがない。賢孝は列から離れて、話しかけても大丈夫そうな女性スタッフを捕まえて恐る恐る聞いた。
「あの、スタッフの岡本さんって、今日は休みでしたか?」
次の瞬間、その女性スタッフの口から発せられた一言は地獄の底に突き落とすような破壊力を伴い、賢孝の聴覚を突き刺していた。
「岡本、ですか? 当施設に岡本というスタッフは居ませんよ」
その後の記憶はあまり無い。気が付いたら、自宅に到着していた。何が起きたのかは、確信めいて理解していた。岡本さんは、この世界に存在していないことになっていた。つまり、元の世界に飛ばされたのだ。2年以上、この世界で孤独に耐えていた岡本さん。きっと家族の元に戻れたのだろう。それは賢孝にとっても喜ばしいことではあったが、その1000倍くらいの孤独という苦痛が賢孝の元に置き土産として残された。岡本さんは、心の支えの全てだった。賢孝は、この世界に飛ばされたばかりのあの絶望的な心境に引き戻されていた。いや、むしろそれ以上の悲しみと失望感であった。もう、ここには居られない。今後、絢ふぶきに行く度に岡本さんのことを思い出すかと思うと、とても行く気にはなれなかった。一瞬で全てがどうでも良くなってしまい、もうこの世界での自分を探すことも、この街に留まることも、この日本に残ることさえも耐えられる気がしない。むしろ、何もかもを全く知らない場所に行きたい。賢孝は突発的だが、強い意志の元でこの街を去ることに決めた。ダラダラとここに留まっていたら、重度の鬱になる自分がくっきりとイメージ出来てしまう。幸い、期限が残っているパスポートを家を物色中に見つけていた。明日にでもこの国を出よう、そう賢孝は決断し次の瞬間にはエアチケットを購入するために検索を始めていた。正直どこでも良かったが、亮太が以前タイに旅行に行った時の話をしていたのを思い出し衝動的にバンコク行の片道切符を購入した。部屋は特に片付けないまま、完全に現実逃避という自覚を持ち合わせ、憔悴しきった身体を引きずりながら、賢孝はバンコクへと旅立って行った。