9.並行世界
19時ジャストに居酒屋に到着したら、あの男性スタッフはすでに店の前に居た。慌てて駆け寄り賢孝は声をかけた。
「すいません、お待たせしてしまったみたいで」
「大丈夫ですよ、私が待ちきれなくて先に来てしまっただけですから」
全席個室のこの居酒屋は、今夜話さなければならない話の内容から考えて最適な店だった。案内された2人はとにかく少しでも早く話を始めたい気持ちが一致していたのか、メニューも見ずに同時に「生ビール」と言って個室の引き戸を閉めた。
「今日は本当にありがとうございます。絢ふぶきの岡本と申します」
「ご丁寧にありがとうございます。石田賢孝です。岡本さん、賢孝と呼んでください」
「ありがとう賢孝くん、お言葉に甘えるよ」
他人のはずなのに、すでに2人の間には難破船から奇跡的に生還した同志のような空気が流れていた。岡本さんは32歳で、やはり予想通り、賢孝と同じく元々の世界からこの異世界に飛ばされてきたとのことだった。とにかく色々と聞きたくて仕方なかった賢孝は、まず岡本さんに何が起こったのかを話してもらうことにした。
「ある日いつものように目覚めたら、全く知らない部屋にいてビックリしました。同居していた妻と娘は部屋中を探しても見当たらず、驚いた僕はカーテンを開けて外を確認したら、全く知らない光景でとにかく動揺して、かなり取り乱しました」
全く自分と同じだ、と賢孝は思ったが口を挟まなかった。岡本さんは続けた。
「途方に暮れました。何から何まで突然変わってしまったから。けど、手元にいくつかいつも使っている私物があった。もしやと思って職場に行ってみたら、奇跡的に絢ふぶきがあったんです。中に入ってみたら見たこともないスタッフばかりでしたが、僕を発見したその中の1人が言った一言にとても驚いたんです」
「なんて言われたんですか?」
「あ、岡本さん、お疲れ様です。休日にどうしたんですか? 忘れ物? って……。僕は、その人を初めて見るから名前も知らないのに、向こうは知ってた」
「ど、どういうことですか……?」
「どうやら、この異世界でも僕は絢ふぶきに前から勤めていたことになってる。だから僕は前から居るような態度を貫いて、異世界でもずっと絢ふぶきで働いているんです。もう2年になります」
2年、ですか。そう賢孝は返した後、その重く長い月日のことを思い、いたたまれなくなり次の言葉を排出することが出来ず黙り込んでしまった。岡本さんは、涙ぐんでいた。妻と娘とある日突然、何の前触れもなく離れ離れになり、しかもこんな異世界に。そのぶつけ所のない無念を思い、賢孝は胸が軋むように痛んだ。
「賢孝くんは? どうやってこの世界に飛ばされたのですか?」
「岡本さんと、ビックリするくらい全く同じです。ある朝起きたら、知らない部屋で……。ほんの1週間くらい前のことです」
「そうですか……。職場や知り合いは?」
「全て無くなっていて、誰にも連絡がつきません」
「辛いですね……。私はまだ奇跡的に職場があったから何とか2年、精神を保ってきました。けど全てが無くなってしまったとしたら、正直1人では持たないと思います。1週間で、私とこうして話せるようになって良かった。同じ境遇の者同士、支え合っていきましょう。何でも頼ってくださいね」
賢孝はその瞬間、嗚咽して泣いていた。店内に声が響いてしまわないように必死で口元を手で押さえていたが、涙が止まらない。落ち着くまで、岡本さんも一緒に泣きながら頭や背中をさすって慰めてくれた。どう解決してよいのかわからないこの境遇は悲劇だが、思いを共有出来る仲間を得た2人には、すでに固い絆が生まれつつあった。10分くらいしてやっと落ち着きを取り戻した賢孝に対して、岡本さんはわかったことなどを色々と話してくれた。
「多分、私と同じように賢孝くんも元々この世界に生きていたことになってると思います。例えば、私物の中でこちらに来てから初めて見たものは無いですか?」
あ、そうですね、と言いながら、賢孝は財布の中からキャッシュカードを取り出した。
「名義は賢孝くんだけど、元の世界には存在しない銀行名ですよね。でもよく見て下さい。そのカード、新品ではなくけっこう前から使ってる感じじゃないですか?」
言われてみれば、岡本さんの言う通りだった。まさにこれは、自分が前からこの世界に存在している証拠であった。自宅を思い返してみても、同様であった。
「ということはですよ、岡本さん。こちらの世界での僕のことを認識してる人がいるってことになりますよね?」
「恐らく。ただ職場が無く誰とも連絡がつかないとなると、どうやって探すかですよね」
「後で、家の中をとにかく探してみます。情報になりそうなものを」
「そうですね。それが一番近道かもしれないですね」
少し話し込んで互いに気分が落ち着いてきた頃合いに、ちょうどオーダーしていた刺身の盛り合わせや焼き鳥などが運び込まれる。店員が引き戸を閉めて下がっていったのをきっかけに2人は次の話題へと移行した。
「岡本さん、僕達に起こったこの現象って、一体何なんですかね?」
当たり前にわからないであろう質問だったが、この異世界での大先輩なら何かを掴んでいるかもしれないと安易に考え、賢孝は聞いてみた。
「とにかくこの2年間、インターネットで調べまくったりありとあらゆる文献も読みました。その中で、一番近いと思われる事象についての話を見つけたんです。【パラレルワールド】って、聞いたことありますか?」
パラレルワールド。フレーズだけは聞いたことがあった。別の世界、みたいな意味ですよね? と賢孝は岡本に聞いた。
「そうです。具体的に言うと【並行世界】と呼ばれているらしいです。似たような別の宇宙が存在していて、双方はリンクし合いながら似たような世界を形成している。パラレルワールドから飛ばされて来た人がいる、という事例なども文献には記載がありました。まあ、僕達もその一員ですけどね」
岡本は、笑って賢孝にそう言い、続けた。
「僕達にとってはこちらの世界がパラレルワールドですが、こちらの世界から見ると、元々僕達が生まれ育った世界の方がパラレルワールドということになると思います。きっと、元々の世界にも同じような文献があるんじゃないですかね」
説明は、非常に腑に落ちるものであった。自分の身に起きたことが理論的に理解出来たような気がした。文献ではあくまでも仮説として書かれているだろうが、自らの身を以てそれを証明してしまった今、疑う余地が無い話だと賢孝は深く納得した。
「最大の僕達の問題点は、元に戻す手段がわからないということです。この世界で2年生活して思うことは、とりあえずこちらの世界での生活も確立させることです。じゃないと、生活費も精神も持たない。ある日突然、元に戻るかもしれないし、一生このままかもしれない。どちらにせよ、社会性をしっかり保った方が精神衛生上、いいことには違いないですからね」
「そうですね。岡本さんのお話で、少し前向きになれました。とにかく、自分が働いていたであろう場所を探してみます」
「お手伝いしますよ。協力出来ることは何でも言ってくださいね」
3時間があっという間に経過した。2人ともこの世界ではまともに人と話せていなかったから、息継ぎするのも忘れたかのようにとにかく喋りまくっていた。頻繁に会いましょうね、と約束し解散した。帰路、賢孝は暖かな気持ちになっていた。この先、自分の人生がどうなるのか全く予想もつかないが、岡本さんとの出会いは神の思し召しであった。元の世界の話を誰かと出来たことが賢孝にとってこの上ない癒しとなった。そして久しぶりに美里のことを思い出していた。元の世界では今、どうなっているのだろうか。自分がいなくなり、騒ぎになっているのか。それとも、最初から存在しなかったことになっているのか。どちらにしても、寂しすぎるこの現実。まだ全てを受け入れられないが、受け入れなければならないことも理解はしているつもりだ。
冷たい夜風が吹き付ける度に身体全体が反射的に強張る。悲しいけれど、それは賢孝がこのパラレルワールドに存在してしまっている確かな証拠であった。電球が切れそうな街灯が不規則に点滅を繰り返していた。とても寂しそうに、儚げに、頼りないさまで。