精一杯のサヨナラ
「覚、この間ね、美弥子ちゃんに逢ったのよ」
突然やってきた彼の姉はそう言った。
覚は広いベッドの上に仰向けになって物思いにふけっていた。
その声に閉じていた目を開け、のろのろと起き上がる。
「みや、こ…?」
「やだあ、あんた忘れちゃったの? あんなに結婚するだの何だのって騒いでたくせに」
「…………」
忘れたわけじゃなかった。
ただ、今ちょうどその美弥子のことを考えていたから、だから少しだけ動揺しただけだったのだ。
(もう一度抱きしめて…)
彼女と一緒に歌ったあの歌。
あれから何度も何度も二人で一緒に歌った。
自殺未遂をしてそれに失敗したけれど昏睡状態に陥って高校三年の一年間を彼女は眠って過ごしてしまったため、彼女は高校三年をもう一度やったんだ。だから、一年間だけだけど一緒に高校生活を送ることができた。
彼女はそれから卒業して就職したけれど、ずっと自分が卒業するのを待っててくれたんだ。
(結婚するつもりだった)
彼は彼女が卒業してから気の合う仲間とバンドを組んで音楽活動をするようになっていた。
卒業したらそれで食っていくつもりだった。
彼にはそれでやっていける自信があった。
美弥子と出逢ったおかげで、自分の隠れた才能に気づき、自分には歌しかないと思うようになっていたから。
彼女も応援してくれてた。
きっと有名になれるって。
覚ならできるよって。
だけど───
「ほら、私この間花見に行くって言ってたじゃない? それで桜公園をブラブラしてたのよ。そしたら彼女が赤ちゃんを乳母車に乗せて散歩しているのに出くわしたの。最初は私気づかなかったのよね。美弥子ちゃんのほうが気づいて、あ、覚君のお姉さんって声かけてくれたの」
彼は姉の言葉も上の空で聞いていた。
そう、彼女は別の男と結婚してしまった。
それは彼女が裏切ったからではなく、もちろん、自分も裏切ったわけじゃない。本当は誰も裏切ったわけじゃなかった。
だがしかし──
(たぶん彼女はまだ僕が裏切ったと思っているかもしれない)
本当に結婚するつもりだった。
あの日、あのオーディションに受かりさえしていれば、きっと彼女の父親だって認めてくれたと思うのに。でも、そうじゃなかった。たとえオーディションに受かったとしても、許してはもらえなかったのだろう。あの時の彼女の父親の言葉を思えば。
「私も君達のことを意地悪で反対しているわけではない」
美弥子の父親はそう言った。
背の高いスラリとした紳士といった風体の男だった。
美弥子は母親に似ているかと思っていたが、かもし出す雰囲気は父親似であるなと、まったく別なことを思っていた覚である。
美弥子の父親は続ける。
「覚くん。君が普通のサラリーマンになってくれるというなら喜んでこの結婚に賛成しよう。だが、君が歌を歌っていくというのなら賛成はできない。私はこの子には平穏な人生を歩んでもらいたいのだ。わかってくれ」
「お父さん、彼は才能があるのよ。きっと有名になるわ」
「美弥子。私はそういうことを言っているんじゃない。彼が有名になることが平穏とはかけ離れたものであるということを私は言いたいのだよ。もちろん、有名にならないというのも問題外だ。生活していく上でお前が苦労するというのも考えたくないことだからね。だからお前には無難な職の男のもとに嫁いでほしいのだ」
「そんな……」
思い出したくもない。
あの時に何も言い返せなかった。
彼女の何か言ってほしいという表情が胸に突き刺さって、今でもキリキリと胸が痛む。
そんな彼の心を知らず、彼の姉は溜息をつきながら言葉を続けた。
「赤ちゃん、かわいかったわあ。さすが美弥子ちゃんの子供よねえって。何でも旦那さんはどこかの会社の課長さんらしいのよ。幸せそうでよかった。あんたと別れたあと、また自殺でもしないかとあちらの親御さんも心配してたみたいだけどね。彼女言ってたわよ。自分の父は本当に覚さんを気に入っていたのよって。私も美弥子ちゃん気に入ってたのになあ。あんな子が妹になってくれたらってほんと当時は思ったもの。ちょっとあんたのこと恨んだりもしたわよ。好きな女のためなら夢も捨てちゃえばいいのにって」
彼は姉の話などもうほとんど耳に入ってはいなかった。
想いはあの日に戻っていく。
二人が別れたあの日に。
美弥子の父親に結婚を反対されたあの日、覚たちのバンドはとあるオーディションを受けたのだが落ちてしまったのだった。
それ以来、覚は少し荒れていた。
自分の音楽が認められないことが受け入れがたく、彼女にも少し辛く当たっていたかもしれない。
彼女の父親にまでも認めてもらえず、その日も彼女が覚の部屋にやってきても優しい態度が取れなかった。
「ごめんなさいね。お父さんを許して。ねえ覚、私もっとお父さんを説得するわ。だから一緒に頑張ろう?」
「一緒に頑張るだって?」
その時の彼はふつふつと憎しみにも似た感情がわき上がっていた。
何もかもがうまくいかない。
自分には才能がある。
自分にはやっていける自信がある。
それなのに誰も認めてくれない。
それなのに彼女は頑張ろうって言う。
何を頑張ればいいんだ?
「俺は頑張ってるよ! これ以上何を頑張れって言うんだ?」
「覚!」
そこまで思い出して、覚は頭を抱えた。
幸い、彼の姉は自分の話に夢中になって、彼のその態度には気づいていなかったようだが。
(よく覚えてないんだ、あの時のことは)
よく覚えていない。
だが、凶暴なまでの気持ちが止められなくなり、たぶん彼女に酷い仕打ちをしたんだと彼は思う。
気が付いた時には、傍らでボロボロになった服をまとった彼女が横たわっていた。
彼も半裸状態で、肌が露になっている箇所に痣ができている彼女の裸体を呆然と見つめていた。
何をしてしまったか。
それは火を見るよりも明らか。
だが、彼には自覚がなかった。
「みや、こ?」
彼はそっと彼女に近づき、腕に触れた。
瞬間、ビクッと彼女が震えた。
それにひるんで彼は手を引っ込める。
すると、閉じられていた彼女の目がうっすらと開き、囁くように言った。
「いい、の。気にしない…で、まな、ぶ。あなたがそれでしっかりと生きていけるのなら、私の命、なんて…もともとあなたに救われた…いの、ち、だし…」
「みやこぉぉぉぉぉぉ!」
彼は泣きながら彼女を抱きしめた。
「ごめん、ごめんよ、こんなことするつもりじゃなかったのに。弱い俺を許してくれ。許して…」
「まな、ぶ、愛して、るよ…」
美弥子は微かに彼に微笑みかけた。
覚はその笑顔がまるで泣いているように見えた。
その時、はっきりと彼は自分はどうすべきかがわかったのだった。
(誰よりも君を愛しているから、だから僕は…)
突然、彼は物思いから覚めると、傍らの姉に頓着せずにギターを取り出し歌い始めた。
微笑んで泣いている君を抱きしめた
誰よりも愛した君を抱きしめた
戻れるものならあの夜に戻りたい
君と出逢った奇跡の夜に
一緒に歌った歌とともに
愛しいほどの想い出を
僕にくれた愛しい君よ
もう泣かないで
もう微笑んだまま泣かないで
僕のために泣かないで
僕はずっと君を愛しているから
僕はずっとずっと忘れないから
君がどこにいようとも
君が誰といようとも
僕らの魂は触れ合ったのだから
いつかまた逢えるよ
その時は笑いかけて僕に
心からの笑顔を僕に
強がって別れを告げた僕に
精一杯のサヨナラを告げた僕に
精一杯の笑顔を
僕に見せて
そしたら僕は初めて君に
一粒の涙を見せるだろう
そして笑って見せるよ
君の笑顔に負けないくらいの
笑顔を君に
歌い終わった彼に、彼の姉は何も言わずに微笑んだ。
そして、覚の顔には満足したような微笑みが浮かんでいた。
それは過去の哀しみと決別した微笑みでもあった。
ゲクトの新曲「笑顔を君に」は、彼にしては優しく歌われた曲であった。
たった一人の相手に贈られた歌であるということは誰も知らないことであったが、そのたった一人、それを贈られた人物には気づいていることであった。
「精一杯のサヨナラ…」
美弥子は明るい日差しの差すリビングで、寝入ってしまった子供の顔を見つめながら流れる曲に聞き入っていた。
彼女は彼女であの日のことを思い出していた。この曲を聴きながら。
彼に、あのとき暴力を振るわれた彼女であったけれど、彼女はそのことはちっとも恨んでいなかった。
彼が激情にかられやすいということはわかっていたし、またそれに惹かれてもいた自分だったので、当然、彼があのような行動を取ることはわかりすぎるくらいにわかっていた。
ただ、彼の方はそれを受け入れることができなかった。
自分の中の凶暴な想いを持て余し、それを恐れていた。
そして、それを愛する者に振るうことが許せなかったのだ。
このままでは愛する者をまた傷つけしまうと思った彼は彼女と別れると決心し、それを実行に移したわけで。
「ほんとにバカな人…」
寝入る子供の布団をポンポンと叩きながら呟く。
別れたあの日、彼女はちゃんと彼と話し合おうと彼の部屋でずっと待っていた。
何時間も何時間も。
朝八時から次の日の朝まで。
彼は帰ってこなかった。
けれど、夜になってケータイに電話が入り「俺たち別れよう」と、有無を言わさない声で告げられた。
彼女は何も言えなかった。
彼は決めたことは絶対に曲げない人だったから。
それが彼の答えだった。
彼女は何も言わずにケータイを切ると、バッグから口紅を取り出した。
傍らの鏡に文字を描く。
「さようなら」と。
そして、のろのろと立ち上がり、ぐるりと部屋を眺め渡した。
覚と愛し合った想い出の部屋。
もう二度とこの部屋には来れない。
もう二度と二人で抱き合うこともない。
もう二度と───
彼女の眦から一粒涙がこぼれる。
「覚、愛していたわ」
「…………」
我が子を見つめながら一粒涙をこぼす美弥子。あの最後の日のように。
そしたら僕は初めて君に
一粒の涙を見せるだろう
そして笑って見せるよ
君の笑顔に負けないくらいの
笑顔を君に
部屋に響く彼の歌。愛しい人だった人の声を聴く。彼女の目はいつのまにか涙も乾き、そして微笑んでいた。今では愛しい我が子に向けて。
【こっそり追記(笑)】このお話はとある人の実体験が描かれています。自分で書いていてなんですけど、読み返すと泣いてしまいますね。