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夜を終えた日

作者: 南野李茶

 寒い。指先が凍え、動かない。かじかんだ手を軽く揉んでから、白湯の入ったマグカップを手に取り握りしめて、ベッドに身体を横たえた。

 暖炉の火がか細く明滅を繰り返す。それでも薪を足すため一度横たえた身体はもう起こす気にはなれなかった。パチ、パチと幾度と無く音を響かせ、火の粉がゆらゆらと昇っていくのを、目の端で捉えた。

 ああもう消えるな。寒い。冷たくて痛い。面倒くさい。隙間風が、机の上の本をひらひら捲る音が心地よい。少し目を細めて、ねむたいようなまたたきを三度繰り返す。閉じてしまえば終わるかもしれない。


 終わるはずはなかった。これまでどうしたって終わることだけはできなかった。

 眠るたびに終わりを祈るようなことはしなかった。どっちだってよかった。目が覚めても覚めなくても、何もできないのは同じだ。


 世界中が海に沈んだ。水の惑星と呼ばれたこの世界は、ほんとうにまっさらでまん丸い、青くぼんやりと照らされた、ただの星になってしまった。

 わたしだけが選ばれずに取り残された。誰にも手を引かれず、呼ばれずに、お気に入りのマグカップと古ぼけた本だけを道連れにして。


 そうだったらよかったのにと思う頃には瞼を持ち上げることすら難しい、眠気の波にゆらゆらと押しこまれていった。

 ほんとうのところはわからない。わたしの知らないたくさんの誰かは、見えないどこかで変わらない日々を生きているのかもしれない。

 確かめることはしなかった。必要がなかった。ただ眠りの淵でそんなうすうすとした関心が漂うことがある。それが原動力にはならなかっただけだ。ならこのままでいい。白い砂浜と黒い海、大切なわたしの一部たち、私の世界はそれで全てだ。すっかり色を失ったこの身体もいずれはこの地に溶けていくのだろうと、夢に満たない記憶の奥底を弄りながら、ただ明日が来ることを待ち続けていた。





 目を覚ますと砂浜に雪がほんの少しだけ積もっていた。今夜の海は白んでいた。ほっと息を吐いて外套を羽織る。

 虹色の光を吸い込んでひしゃげた雪のかたまりを指の先にですくい上げて鍋に移し、その下から覗いた貝の殻と、砂と、丸い木の枝を一緒にほうりこんで蓋をした。夜と潮の匂いも閉じ込めて、暖炉にまかせて煮込む。庇から伸びる氷柱の先を少しだけ削り椀に盛り付けて並べたら、まるで豪勢な晩餐だった。

 底が鮮明に映る器をじっと見つめながら、スプーンで少しかき混ぜて、すくって、落として、湯気がそよそよと帯状に流れていくのを見つめる。ほんのりと潮のにおいがした。口に含むことはできなかった。

 空腹も感じず、食への関心もなく、そもそも食べられそうなものなんてなくて、せめてままごとだけでもしようと始めたこの習慣も、そろそろやめたほうがいいのかもしれない。わかっているけれど、この平らな世界で他にできることもなかったのだ。


 気が済んだら少し外に出てみるつもりだった。今日は風がゆるくて、春を思い出す。

 わたしは左の脚があまり自由ではない。膝から下の関節がもうずっと鈍い。痛みも重さも感じない。あるのかないのか、わからないような存在は砂浜を引きずることでようやく思い出すことができた。

 ゆっくり、ゆっくりと歩いて、波を寄せる海の端に立つ。毒のように黒い海の真ん中は、星の空のすべてを写して漂うたびに煌びやかに輝いてみせた。月影が海に道を伸ばすようで、波のたびに途切るのを見ているのは楽しい。


 たくさんの人間が、こんな不安定な美しい時間を眠りに捧げていたことを考えると不思議な気分になる。明けの、昼日中の、触れるだけで切り裂けそうな強い光は視界を遮るだけのように感じて、わたしはその時間に目を閉じることを選ぶようになった。朝も昼も夜もないような生き方をしていたあの人は、最後にこんな景色を懐かしく思ったのだろうか。記憶に尋ねてみたところで思い出せるのは背中ばかりだった。

 夜は死に似ているとあの人は言った。死んだこともないくせに、なぜそう思うのか問うたら、私がそう願っていると答えた。

 わからなかった。染み付くように深まる闇を、毎日毎日取り払うように部屋中の明かりを灯していたあの人が、願うと言った意味がわからなかった。夜をまるで恐怖に思うような振る舞いは、誰がみても一目瞭然だったと思う。


 打ち返す波が水を弾き、それを反射的に避ける。引きずった足が軋みその不快さに目を閉じた。


 こんな夜のような深い闇色に逃げる間をすべて委ねて取り込まれて、あの人は消えてなくなった。手を引こうと飛び込んだわたしの手を振り払い、突き飛ばして、私はこう望んですらいたのだと、掠れた声でそう言ったのだ。

 あの光景を思い出せば、わたしは夜も海も嫌いになると思った。心地良ささえ感じている。あんなに鈍ましい波の音も、さらさらと細く柔らかい、ひんやりとした優しい音にすら感じている。

 夜の海は甘ったるいにおいがする。澄みきっていて、それでいて傷みはじめたように複雑で重たい。こんなに難しくて魅惑的なものを、愛しく思えないわけがない。こんな潮風にゆすられて、頭の奥深いところまでゆっくり錆びて、錆びて、すこしずつなにも考えられなくなってくれたらいいのに。そうしたら終わりも始まりもわからなくなって、気づかずに済むだろう。


 最早わたしに生きる意味はなく、死ぬ意味だけがどんどん濃く色づいていた。あの人の想う死が、ほんとうに夜に似ているのか、確かめてみたいのだ。こんな可惜夜を永遠に彷徨えるのなら、わたしもそれを望みたい。はやくほんとうの一人になりたい。

 わたしが何かを望むことに意味はなく、あの人が連れて行ってくれなかったから、わたしは生きるしかなかった。寒さに震え、何も食べられず、脚が思うように動かなくても、死ぬことはない。時間が進むたび身体が朽ちて、そうしてこの場に溶けるためにはただ明日を待つことしかできなかった。この真っ黒い海にひとたび飛び込むだけでわたしは死んでしまうのに、それを許してくれる人はもういない。


 引きずってきた脚が砂に不器用な線を描いていた。それはまるで蛞蝓がもがき這い蹲った跡のようで、まるで、わたしだった。

 波際からすこし離れて砂浜に腰を下ろす。靴を脱ぎひっくり返すと流れるように砂がこぼれ落ちていった。頭上に舞う銀河が一斉に死んだとき、こうなるのだろうか。にどと瞬かず、にどと結ばれることのないこの一帯の星の死骸たちをあの人はどんな顔をして見るだろうと思う。この世界はもともと、天上に生きるものたちの墓場なのかもしれないと、あの人なら諭したかもしれない。海を、見たことはあったのだろうか。

 指の間にまで入り込んだ砂は手のひらで払うように落とした。指で浜を撫でると指から伝う感触が心地よく、行ったり来たりと、空気を掴むように優しく意味もなく馴らしていく。きれいに描いた線も、風で薄くゆっくりと伸ばされ、吸い込まれていった。

 意味のないことばかりだ。なにもかも。


 わたしは一人では何もできないよ。二人で過ごした日々すら、じっと生きていただけだったのに。


 こんなに何かを思い出して、座り込んで冷たくなっても、あの人は揺るがなかっただろう。

 わたしがあの人に手放される、いつかくる日の約束は既に交わしていた。最初から手など引いてはいなかった。


 わたしには何もない。この躰ひとつが全てだと言ったら、古い本をくれた。あの人の手記だった。知らないだれかがわたしを導くために、それが必要だった。

 そして、マグカップをくれた。茶渋で薄く色づいた、あの人がたったひとつ大事にしていた、白い大きなマグカップを。しょうのない餞別だと、ほんの少しだけ笑って言っていた。


 わかっていたのだ。愛されていたことも、それが故に手放されることも、何もかも最初からわかっていた。けれどいつかくるその日が、こんな最後だって知らなかった。あの人の心がこんな風に満たされるなんて考えもしなかった。

 約束がにどと叶わないと、そう思っているのはもうわたしだけなのだ。あの人は、わたしに委ねた瞬間約束を果たしたのだから。



 瑞々しい朝のにおいを含んだ風が、砂を巻き込んで指の間をくぐり抜けた。光が痛い。惣闇に帰りたい。夜が明けて、光に巻き込まれてしまう前に。



 わたしはこの果てしない墓場で、わたしを選ぶたったひとりのひとを探さなければならない。そうだ。そんな、果てのないことをいつだって望まれていたのだ。

 どんなに不条理でもたくさんの人間がが白い闇を好んだ。わたしはそれに従わなければいけない。叶わないと知っているのがわたしだけである限り、ずっと。


 それでもわたしは、あなたが望むままにしなくてはならない。あなたが、あなた自身よりわたしを選んだから、わたしはわたしを選ぶことしかできない。

 幾度と訪れる夜に待っても、あなたはここにはいない。いなくなってしまった。死は夜自身ではないことくらい、それくらい、わたしだって知っていた。


 意味のない生き方を終えなければいけないことも、最初からわかっていた。やらなければいけないことがある。教えに背いたのは自分の意志だ。


 くらくらと視界が揺らぐ。わたしは光に目を打たれて、すべてを焼き尽くされ、記憶を移されて目が覚めたら起き上がらなければいけない。


 夜が明ける。大海を一瞬にして群青に染め上げ、やがて白い光になった。重い脚はまだ、かろうじて動いていた。

 眠りの時間だ。わたしは歩き出す。

 長い時間をここで過ごしたような気がする。いつまでも馴染むことのできなかったあの家が歩むたび近づくと、なんだか嬉しくなった。これで最後だ。


「さよなら」


 おまえとの暮らしは楽しくないことばかりだった。おまえのせいではないけれど、それでももうここに戻ることはないのだろう。

 軋む木製のドアを開け、わたしのすべてを抱いて、すぐに踵を返した。室内の生暖かい空気は生き物のようで不快だ。


 もう、春と呼ぶにはあまりに肌寒い風だった。冷たい水飛沫に当てられて風が吹きつけるたび、何度も目を瞑った。

 脚がどんどん動かなくなる。脚も胴も、すぐに鈍くなった。

 もうすぐなにもわからなくなるんだろう。そうしたらすぐ、何も知らないわたしが博士の本を抱いて目覚めるだろう。思い出すべきことを思い出すのだろう。きっと、すぐだ。


「さよなら、はかせ」


 身体がひとつも動かせなくなったとき、夜明けが遡る。薄れる意識の中、祈るように語りかけた。


 博士、夜は始まりに似ていた。




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