第1章 2 私を魔界へ連れて行って
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「ま、まさか・・・私の記憶が消えてしまったのは『森』のせいだって言うの?」
気付けば私はフェアリーの肩を掴んで揺すぶっていた。
「お、落ち着いて!ジェシカ。冷静に・・・。」
「これが冷静でいられるはずが無いでしょう?!きっと私がこの世界にやって来た理由は、消されてしまった記憶の中にあるはずに決まっているじゃいないの!ねえ、どうすれば私の記憶が戻るの?『森』にお願いすれば記憶を戻してもらう事が出来るの?」
「む、無理よ!『森』は一度消した記憶を戻す事は出来ないから!く、苦しいってば、ジェシカ。」
そこで私はようやく手を緩めると言った。
「え・・?どういう事?一度消した記憶を戻す事は出来ないって・・・?」
フェアリーは私の手が緩んだ隙に、するりと抜け出すと距離を置いて言った。
「この世界の『森』はね、取り込んだ人物や記憶を養分として成長するから、もう記憶を取り戻すのは不可能って事。」
「そ、そんな・・・。」
思わずがっくりと項垂れる私。その様子を見てフェアリーが言った。
「ねえ・・・ジェシカ。辛い記憶なら、本当に忘れてしまったほうがいいんだよ?そう思わないの?だって辛い記憶なんて不必要だよ。そんな記憶があるから人間は生きていくのが大変なんじゃ無いの?」
「え・・・?フェアリー・・。あなた、何を言って・・・?」
「この世界の住人はね、辛い記憶は全部『森』に消して貰って生きているのよ。例えば、大切な人を失った悲しみを忘れる為に自ら『森』に記憶を消して貰う人達なんて数えきれないくらい存在してるんだから。」
フェアリーの言ってる事は少しは理解出来る。誰だって辛い記憶を背負って生きていくのは悲しいから。だけど・・辛い記憶の中には大切な思い出だって残されているはずだ。でも記憶を消すと言う事は、その大切な相手の事を全部消してしまうという事・・・。
「いやよ・・・。」
「え?ジェシカ?」
「どんなに辛い記憶だって、私は絶対に消したくない!大切に・・・残しておきたい記憶だってあるんだから・・・例え、今は辛くて堪らないかもしれないけれども、この先・・・いつかは、その人の事を懐かしく思える日がきっと来るはずだから・・・!」
私フェアリーの言葉を強く否定した。
「ジェ、ジェシカ・・・。」
フェアリーは驚いた様に私を見ていた。い、いけない・・・つい、興奮して・・・。
「ご、ごめんなさい。大きな声を出してしまって。」
慌ててフェアリーに謝る。
「うううん、それは構わないけど・・・。でも、ジェシカ・・・。それ程までに失いたくない記憶だったのね・・・?」
フェアリーの言葉に力なく頷く私。
「王様は・・・私達皆にジェシカはこの国の王妃になる為に、人間界からやって来たって言ってたけど・・・。でも、本当は違うんだよね?王様はそれを知っているのにジェシカを騙して結婚しようとしてるんだね。」
「アンジュの事は・・・好きだよ。でもそれは異性として好きって訳じゃ無いから・・。結婚なんて出来ないよ。だって、私がこの世界にやってきたのは・・・もっと別の理由があったからに決まってるもの。」
ポツリと呟くように言うと、フェアリーは言った。
「う・・ん・・・。ジェシカ、きっと大丈夫だよ!必ず記憶は戻ると思うよ?」
「え?突然・・・どうしたの?フェアリー?」
「だって、さっきも言ったと思うけどジェシカの身体からは2人分の魔族の強い力を感じるんだもの。きっとジェシカがこの世界にやってきた本当の目的は『魔界』へ行く為だったんじゃないのかな?」
フェアリーが私の手を取ると言った。
「私が『狭間の世界』へやってきた本当の・・・目的・・?」
「うん、そう。ジェシカ、この世界はね・・意外と魔界の力が強く反応する世界なんだよ?ひょっとすると・・・ここにいれば近いうちにジェシカが無くしてしまった記憶を思い出す事が出来るかも知れない。だから・・・希望は捨てたら駄目だよ?」
「うん・・・ありがとう、フェアリー。」
「それじゃ、私もう行くね?お休みなさい、ジェシカ。」
「うん、お休みなさい・・・。」
私の返事を聞くと、フェアリーはニッコリ笑って、この部屋に来た時と同様に、ポンッと音を立てて消えてしまった。
「ふわああ・・・。」
フェアリーが去ると、途端に強烈な眠気が遅ってきた私。ううう・・・何故こんなに眠いのだろう?
私はのそのそとスプリングの効いたベッドに潜り込み、フカフカな枕に頭を置いた途端に、深い眠りに就いてしまった・・・。
「ジェシカ・・・ジェシカ・・・。」
誰かが私の名前を呼んで身体を揺すぶっている。う~ん・・・一体誰なのだろう?
私を呼ぶのは・・・。でも眠気が強すぎて、意識は何となくあるのに、身体を動かすどころか、声を出す事すら出来ない。
「やれやれ・・・疲れているのかな?それで目を覚ます事が出来ないのかな・・・?折角君に会いに来たのに・・・。それじゃ、残念だけど・・・明日また君に会いに来るね・・・。おやすみ、大切な・・・。」
そう言うと、軽く唇に何か触れる気配を感じた。
え・・・?聞こえない・・。今、何て言ったの・・・?けれど、そのまま私の意識はまた深い眠りの底へと沈んで行った・・・。
何処からか、美しい鳥の鳴き声が聞こえて来る・・・。
「う~ん・・・。」
目を開けると、私の目に飛び込んできたのは美しい薔薇が描かれた見事な天井。
え?薔薇?
ガバッ!
勢いよく飛び起きて部屋を見渡すと、そこは見覚えのない部屋だった。いや、正確に言うと・・昨夜アンジュに案内された別名『薔薇の部屋』であった。・・・と言っても勝手に私が名付けた名前なのだが。
「そっか・・・私、昨日から『狭間の世界』へ来ていたんだっけ・・・。」
ボンヤリとした頭で呟いた。
でも・・・何しに来たんだっけ・・?その時、部屋が薔薇の香りで満たされている事に気が付いた。
え・・?薔薇の香り?
ふと匂いの方向を探すと、テーブルの上に大量の薔薇が大きな花瓶に入って生けられているのが目に止まった。その薔薇は赤や白、珍しい青色等のカラーバリエーションに富んだ、それは美しい飾りつけであった。
「う・・うわあ・・・。す、すごい・・・。」
思わず近寄って、じっくり眺めようとした時に、花瓶のすぐそばに手紙が置いてあるのが目に止まった。
「?」
何だろう?手紙を手に取り、ひっくり返してみると封筒には「ジェシカへ」と書かれている。私宛の手紙だから・・・勝手に読んでも問題無いよね?封もしていないようだし。
私は封筒から1枚の手紙を取り出した。
ハルカへ
いつかここへやって来る君の為に、僕が温室で一生懸命育てた薔薇の花々です。
ジェシカには薔薇の花が良く似合っているから・・。喜んでもらえると嬉しいな。
アンジュ
それはアンジュからの手紙であった。・・・アンジュはわざわざ私の為に薔薇を育ててくれていたなんて・・。
そう、私は思い出した。この狭間の世界へやって来たのはアンジュがいるから。
私は・・・アンジュと結婚する為に、この世界へやってきたのだ。だけど・・本当にそうなのだろうか?心の何処かでは、頭に浮かんだアンジュとの結婚をおもいきり否定している自分がいるのもまた事実。
「兎に角・・・アンジュに会いに行って来よう。対面してみれば、新たに何か分かるかもしれないし。」
でも・・・待てよ?アンジュは一体この城の何処にいるのだろうか?やみくもに歩き回っても、迷子になるだけだし・・・。
その時、突然ドアをノックする音が聞こえて来た。
「おはよう、ハルカ。ボクだよ、アンジュ。部屋に入ってもいい?」
おおっ!なんてナイスなタイミング!
「アンジュね?どうぞ中へ入って。」
するとすぐにドアがカチャリと開けられて、美形のアンジュが顔を覗かせた。
アンジュは私を見ると、途端に眩しい位の笑顔を浮かべて私をギュッと抱きよせると言った。
「おはよう、ボクの愛しいハルカ・・・。」
けれど・・・はやりこんな美形男性に抱きしめられても私の胸は少しもときめきを感じる事はなかった。やっぱり・・・私はアンジュと結婚するために、この世界へやってきたのでは無さそうだ。
そんな私の態度に何か気が付いたのか、アンジュが声をかけてきた。
「・・・どうしたの?ハルカ・・・。今朝はあまり元気が無いように見えるけど?」
「うううん、そんな事無い。・・・よ?あ、あのね・・・アンジュ・・・昨夜、私に会いにこの部屋へやってきた・・?」
「え?ボクは来ていないけど?昨夜・・・何かあったの?」
アンジュは不思議そうな顔をして私を見つめた。
え・・・?それじゃ昨夜私の部屋へやって来たのは一体誰だったの・・・?
2
「ハルカ、どうしたの?何処か具合でも悪いの?」
気付けばアンジュが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめんね。何でも無いの。」
顔を上げて微笑むと、アンジュは安心したのか、笑顔で言った。
「ハルカ、ごめんね。今日は1日ずっと君と過ごそうかと思っていたのに、急に沢山仕事が入ってきちゃって・・・。悪いけど、今日は1人にさせてしまう事になるんだ・・いいかな?」
申し訳無さそうに言うアンジュ。
「大切な仕事なんでしょう?私の事は気にしないで大丈夫だから。そうだ、このお城の中のお部屋や、お庭を見物させて貰っても大丈夫?」
実はこの城はとても美しいので、昨日初めて来た時から是非見学してみたいと思っていたのだ。
「うん、勿論大丈夫だよ。そうだ、良かったら誰か付き人を付けてあげるよ。」
「え?それじゃ迷惑をかけてしまうんじゃ・・・。」
言いかけた所をアンジュが言った。
「この城はね、まるで迷路みたいに複雑な作りをしているんだよ?途中で迷子になったら大変だからね?」
「え!そうなの?!」
まさかそれ程複雑な作りをしているとは・・・。
「そ、それじゃ・・・お願いしようかな?」
私が言うとアンジュは笑顔で言った。
「それじゃ、昨夜ハルカのお世話係だった1人に頼もうかな?レナ!」
「お呼びでしょうか?陛下。」
そこへ音も無く現れた昨夜のエルフのメイド。うわ!びっくりした!
レナと呼ばれたメイドは頭を下げると言った。
「レナ、今日は1日、私のフィアンセのハルカにこの城の案内をしてあげてくれ。」
「はい、承知致しました。」
「それじゃまたね。ハルカ。」
アンジュは私を抱き寄せて、頬にキスすると言った。あ、あの・・・あまり人前でそういう事をされると恥ずかしいのだけど・・・。
思わず頬を抑える私を見て、フッと笑うアンジュ。そして私とメイドを残して部屋を去って行った。
「ハルカ様。」
「は、はい!」
突然私の実名を呼ぶメイドさん。
「どちらへ参りましょうか?」
そして冷たい表情で私に言った・・・。
今、私とメイドのレナさんは城の園庭を歩いている。その庭は美しい薔薇園であった。
それにしても・・・。
私は自分の後を歩くレナさんをチラリと見た。
「・・・。」
まるで作り物のように、およそ表情の読み取れ無いレナさんは無言で私の後をついて歩いて来る。
う~ん・・・何だかなぁ・・・。
ひょっとして、ひょっとしなくても私、あまり歓迎されていないのかも・・・。よし、それならば・・・。
「あ、あの・・・レナさん。」
「レナで結構でございます。ハルカ様。」
「は、はあ・・・・。それではレナ。」
「はい、ハルカ様。」
「あ、あの、お城の庭位なら私一人で大丈夫なので、どうかお仕事に戻って下さい。」
「いえ、ハルカ様のお供をするのが私の努めですので。」
「は、はい・・・そうですか。」
う・・・折角一人になれると思っていたのに・・・。
仕方なく愛想の無いレナと庭を散策していると、前方から賑やかな女性達の話し声が聞こえてきた。え?この城にはアンジュと使用人しかいないんじゃなかったっけ・・?女性達の話声はどんどんこちらに近付いてくる。
う~ん・・・どうしたものか・・。引き返そうか迷っている内に、もう女性達の話声はすぐそばまで迫って来ていた。
やがて、建物の陰から姿を現したのは、5人の若い女性達だった。
その中でも、特に目を引いたのが彼女達の中で最も美しいドレスを着た1人の女性だった。
金色に輝く長く美しい撒き毛に、まるでフランス人形のような顔立ちのそれはそれは愛くるしい女性・・・。
うわあ・・・何て素敵な女性なのだろう・・・?
すると、女性達は私を見るとあからさまに露骨に、嫌そうな顔を見せた。その中でも一番態度が顕著だったのがフランス人形さん?だった。
彼女は私の頭のてっぺんから爪先までジロジロと値踏みするような目で見てくる。
え?一体何だろう・・・。この敵意の籠った目は。と言うか、どうもこのジェシカの外見ではあまり同性からの受けは良く無いのかもしれない・・・。
「ふ~ん・・・貴女なのね?」
鈴を鳴らすような美しい声で彼女は言った。
「はい?何の事でしょうか?」
「確かに人間のくせに外見はまあまあではあるけれども・・・所詮はただの人間。それなのに・・ただの人間がアンジュ様の花嫁に選ばれるなんて・・・。」
あ、何だか嫌な予感がしてきた。この女性・・・肩を震わしてるよ。ひょっとして泣き出すのでは・・・?
ところが、予想を介して女性が取った行動は・・。
「この・・・許せないわっ!」
いきなり右手を高く振りかざす。え・・・まるでこれはデジャブだ。ある人物を彷彿とさせる・・・。私は思わず目をつぶり・・・。
パアンッ!!
庭園に平手打ちの音が鳴り響く・・・え?ちっとも痛くない。
「あ・・・・あなた・・・!」
フランス人形さんの動揺した声が聞こえて来た。恐る恐る目を開けると、何とそこには私の目の前に立ち、代わりに頬を赤くしたメイドのレナだった。
「な・・・何よっ!邪魔するつもり?!ただのメイド風情がっ!」
「そうよ!メイドのくせにでしゃばらないでっ!」
「人間の女を庇うなんてどうかしてるわっ!」
等々・・・。
「レ・・・レナ・・・。」
私は震える声でレナに声をかけるが、彼女は返事をせずに、代わりに彼女達に話しかけた。
「恐れ入りますが、カトレア様。このお方はアンジュ様の大切なお方です。勝手に手を上げられては困ります。」
ふ~ん・・・このフランス人形さんはカトレアという名前なのか・・・って、そんな事を考えている場合では無いっ!
「だ・大丈夫ですか?レナッ!」
「ええ、これ位、何てことはありません。」
レナは表情を変えずに言う。
「う・・・。」
悔しそうに下を向くカトレア。更に他の取り巻きの女性達も非難の声を上げる。
「な・・・何よっ!元はと言えば、その女が悪いんでしょう?婚約者候補はこちらのカトレア様だったのに、突然こっちの世界にやって来た人間のお前がアンジュ様をたぶらかしたんでしょう?!」
私をビシイッと指差しながら訴えて来るのは鮮やかな緑色の髪の毛の女性だった。
「そ、そうよっ!その人間のせいよっ!この・・・生意気な泥棒猫っ!」
うわ、この女性は燃える様な真っ赤な髪の毛だ・・・。それにしても・・ど、泥棒猫・・?何て言われ様なのだろう。いや、それ以前に問題がある。
何?アンジュって婚約者がいたの?!
「あ、あの!待って下さい!貴女は・・・アンジュの婚約者だったのですか?」
「ア、アンジュですって・・・。」
再びカトレアが肩をぶるぶる振るわせ始めた。あ・・まずい、また何か彼女の逆鱗に触れるような事を言ってしまったのだろうか?
「こ、この私でさえ呼び捨てで呼んだ事がありませんのに、人間ごときがあのお方を呼び捨てにするとは・・・!」
再び手を上げようとしたカトレアを諭したのレナであった。
「おやめください、カトレア様。今回カトレア様と婚約を破棄する決定をされたのは全てアンジュ様の独断です。こちらにいらっしゃるハルカ様は何も知らないうちに、花嫁に選ばれてしまったのですよ。」
「・・・・。」
その言葉に黙り込んでしまうカトレア。それにしても・・・私がこの世界へやって来たのは昨日の事だ。婚約者だっていたくせに、たった1日で約束を反古にされれば、当然ショックは大きいだろう。
「あ、あの・・・少しよろしいですか?実は私、アンジュと結婚するつもりは全く無いのです。なので私から今回の話は無かったことにさせて下さいってアンジュにお願いしてみますがが・・・いかがでしょうか?」
全員の視線が私に集中した瞬間であった―。
3
今、私はカトレアさんと2人きりでガゼボでお茶会?を開いている。最も話の内容はお茶会と呼べるような優雅な物では無いのだが・・・。
テーブルにたくさんのお菓子やら紅茶が並べられている。
「あら、貴女はお菓子を頂かないのかしら?」
優雅な手付きで甘そうな砂糖菓子をつまみながらカトレアさんは言う。
「い、いえ。少しづつ頂いているので、御心配には及びません。」
ホホホと愛粗笑いしながら私は言う。冗談じゃない、こんな甘ったるいだけのお菓子なんて食べたら胸やけを起こしそうだ。どうせ食べるなら香ばしいお醤油の味の御煎餅が食べたい・・・そこに日本茶があれば最高なんだけどね。
「そうですの?随分食が細いのですね。それに全体的に小柄な様ですし・・・。やはりアンジュ様は貴女のように小柄な女性が好みなのかしら?」
チラリと私を見ながらカトレアさんは言う。
「あの、ですから私はアンジュとは結婚するつもりはありませんので、今夜彼にきちんと話をしますから。」
紅茶を飲みながら私は言った。
「本当に?きちんとお話をして下さるのですよね?そして、アンジュ様に私の事も進言して下さるのでしょうね?」
妙に凄みのある声で言われ、無言でコクコクと首を振る。
「それで・・・・貴女がこの世界にやってきた理由はアンジュ様の花嫁になる事では無く、魔界へ行くためにこちらへいらしたと言う訳ですのね?」
「はい。でも理由が分からないんですよ。どうして魔界へ行こうとしていたのか・・・。フェアリーの話では、私は門の前で誰かの名前を呼びながら泣き崩れていたらしいんですけど・・・今ではその記憶すら無くて。」
「ふ~ん・・・。それで『森』に記憶を消されてしまったと言う訳ね。でも貴女の記憶なら簡単に取り戻す事が出来ますわよ?」
カトレアさんの思いもしない言葉に私は驚いた。
「え?!本当ですかっ?!ど、どうすれば記憶が取り戻せるのですか?!」
「そんなのは単純な事よ。この世界から出て行けば記憶は元に戻るわよ。元々貴女のここへ来た目的は『魔界』へ行く事だったのでしょう?だったらこの際、今記憶が無くたって、『魔界』へ行けばいいだけの話よ。恐らくこの世界を出た途端に無くしてしまった記憶が蘇るはずよ。」
「そ、そうだったんですか?!」
何だ。だったらフェアリーもアンジュもそう教えてくれれば良かったのに。
「ありがとうございます、カトレアさんっ!」
頭を下げて、私はギュッとカトレアさんの両手を握りしめた。
「キャッ!な、何をなさるの?!馴れ馴れしく触らないで頂けないかしら?!」
カトレアさんは驚いた様子で私の手を振り払った。
「あ、ははは・・・。す、すみません。つい、嬉しくて・・・。」
私は頭に手をやると笑って胡麻化した。
「全く・・・アンジュ様はどうしてこんなガサツな女性を花嫁にしたいと言ったのかしら・・。」
ブツブツとカトレアさんは何か文句を言っていたが、後半部分は殆ど私は話を聞いていなかった。今の私は魔界へ行く事で頭が一杯だったからだ。よし、今夜ディナーの席でアンジュにきちんと私の気持ちを伝えて、魔界へ行く事を伝えよう・・・。
その時、私はちっとも気が付いていなかった。
メイドのレナさんが差すような視線でこちらを見つめていたという事を・・・。
「何だい?ハルカ。ボクに大事な話って。」
今はディナーの席。広いテーブルに私とアンジュが向かい合わせで座っている。そして私達の前には豪華な料理とお酒が並べられていた。うわあ・・・今夜のメニューもとても豪勢だ。特にあのステーキのおいしそうな事・・・・。思わず料理に魅入っていると、アンジュが声をかけてきた。
「ハルカ?どうかしたの?」
ハッ!そこでようやく我に返る私。い、いけない。豪華なディナーとお酒につられて危うく本題を忘れる所だった。でも・・・とても今から話す内容はシラフでは話しにくい。よし、ここは・・・。
「ねえ、アンジュ。まずはその前に乾杯しない?だって、すごく美味しそうなお酒なんだもの。」
わざとむやみに愛想笑いをする私。
「うん、そうだね。それじゃ乾杯しようか?」
アンジュは私に促されてワインが入ったグラスを持ち上げた。
「「カンパーイ。」」
2人でグラスを打ち付けてワインを飲む。それから私達は美味しいディナーを口にしながら、アルコールも重ねていく。何杯目かのワインを飲みほし、大分気持ちもリラックスしてきたので、ここらで本題に入ってみる事にしよう。
「ねえ、アンジュ。私、今夜は大切な話があるの。」
ワイングラスを置くと私はアンジュに言った。
「何?大切な話って。」
よし・・・。私は深呼吸すると言った。
「実は今日、バラ園でカトレアさんという女性に会ったの。」
「え・・・?何だって・・・?」
途端に顔色を変えるアンジュ。ああ・・・やっぱりこの名前には思い当たると言う訳ね。
「ねえ、アンジュ・・・。カトレアさんは・・・本来のアンジュの婚約者だったんでしょう?」
「・・・うん・・・。」
少しの間を開けて返事をするアンジュ。
「だったらどうして?何故私と結婚しようとしてるの?本来アンジュが結婚する相手はカトレアさんなんでしょう?それなのに・・・突然婚約解消されたとカトレアさんは言っていたけど?」
アンジュは黙って私の話を目を伏せて聞いている。
やがて、少しの沈黙の後、アンジュは口を開いた。
「彼女・・カトレアとの結婚は周囲が勝手に決めた事なんだ。ボクが男の姿で戻ってきたら、いつの間にか彼女が婚約相手にされていた。この婚約話にはボクの意思なんて全く尊重されていなかったんだよ?だけど・・・ボクは結婚するならハルカだって決めていたんだ。だから・・・この世界に戻って来たんだよ?」
「アンジュ・・・。で、でも・・・何故私にそこまでこだわるの?カトレアさんの方がずっと素敵な女性じゃないの。それに比べると私なんて・・・魔法すら使いこなせない半端者なんだよ?やっぱりこの世界に住む人同士で結婚するのが一番幸せなんだと思うけど?」
「ハルカは・・・人間界で孤独でに生きていたボクにすごく親切にしてくれた女性だよ。今までボクが町の中を歩いていても、夜中にお店の前の屋根の下で野宿をしていた時だって、誰もボクの事を気にかけてくれる人はいなかったのに・・・ハルカだけは違っていた。君だけだったんだよ。ボクに手を差し伸べてくれた人は。だから・・ボクは君に惹かれ、一緒になりたいと願ったんだ。それで男になったんだよ?なのに・・・ボクを捨てるような台詞を言わないで・・・。」
アンジュは悲しそうな顔で私を見る。思わず、その顔を見て自分の気持ちが大きく傾きかけたが、気力を振り絞って私は言った。
「で、でもアンジュ。私は貴方の事・・異性としては好きになれない。だから貴方と結婚は出来ないわ。」
「ハ、ハルカ・・・・。ボクが嫌い・・・なの・・?」
今にも泣きそうな目でこちらを見つめるアンジュ。うう・・・お願いだからそんな目で見ないでよ。
「そんな事言っていないってば。だ、だけど・・・覚えていないのだけど、私にはとても大切な誰かがいたような気がするの。でもその相手は・・・アンジュ。貴方では無いのよ。」
アンジュは黙って私の話を聞いている。
「お願い、アンジュ。私を・・・私を魔界へ行かせて。だって私がこの世界にやって来たのは・・・魔界へ行く為だったんでしょう・・?」
「ハルカ・・・。どうして・・・もう記憶はなくしているんだよね?だったら魔界の事は忘れて、ボクと一緒にこの世界でずっと生きていこうよ。」
「出来ない。」
私は首を振った。
「何故?!」
「だって・・・私は約束を守らないといけないから!」
そこまで言って気が付いた。
約束・・・?約束って何の事?誰と交わした約束だったっけ・・?
ズキンッ!
突然私の頭が酷く痛み出した。
「あ、頭が・・痛い・・・。」
頭を押さえつける私を見てアンジュが駆け寄って来た。
「ハルカ、大丈夫かい?無理に記憶を取り戻そうとしたから身体に異変が起きたんだよ。もう今夜はすぐに寝た方がいいよ。」
アンジュは私を抱きかかえながら、頭に手を当てた。
途端に私の意識は暗転した・・・。
「今度こそ・・しっかり封印しておかなくちゃ・・・。」
意識を無く寸前に誰かが耳元で囁いた。
封印・・・?一体どういう意味なの―?
4
朝日が顔に差してくる・・・。
う~ん・・・。なんだか身体が重くて息苦しいなあ・・・。何やら異変を感じ、目を開けて私は仰天した。
なんと私の首に腕をまわしてアンジュが同じベッドで眠っているではないか。
しかし・・・何故だろう?アンジュはマリウスと違って、少しも身の危険を感じる事は無い。確かにアンジュは成人男性で間違いは無いのだが、私にとってのアンジュは男を感じさせる要素が皆無なのかもしれない。私の中では未だにあの可憐な美少女アンジュの印象しか無いのだろう。うん、やはりアンジュとの結婚は有り得無いな。
それにしても・・・・私はまじまじとアンジュの顔を見つめた。真っ白な肌に銀色に輝く髪に長い睫毛。堀も深いし、線も細い。本当に美人だなあ・・男にしておくの勿体無い気がするよ・・。
思わずじっと観察していると突然アンジュがパチリと目を開けた。
そして私を見るとニコリと笑って言った。
「おはよう、ハルカ。」
「おはよう、アンジュ。」
つられて私も笑みを浮かべ・・・・・。
「いやいや、そうじゃないでしょ。ねえ、何でアンジュが私のベッドにいるの?」
慌ててベッドから起き上がりながら私は言った。
「え?何かおかしい?だってボクたち、結婚を誓い合った仲だよね?」
アンジュはベッドから降りて、伸びをしながら妙な事を言ってくる。
「どう考えたっておかしいでしょう?それにいつ私とアンジュが結婚を誓い合った仲になったの?」
「え・・・?結婚を誓い合った事・・記憶に無いの?」
今度は逆にアンジュが驚いた様子でいる。
「そんな・・・おかしいなあ・・・。確かに記憶を操作したはずなのに・・・。」
小声でアンジュが何やら妙な事を呟いている。うん?今・・・何か変な事言ってなかった?
「ねえ、アンジュ。何?記憶を操作って・・・?」
「え?何の事?」
キョトンとした顔でこちらを見るアンジュ。
「いや、だって今何か記憶を操作って言ってたよね?」
「言ってないよ、ハルカの聞き間違いじゃ無いの?」
「だって今・・・。」
「それより、ハルカ!」
パチンと手を叩くアンジュ。
「今日はね、ボクの仕事は無くなったんだ。だから1日ハルカと付き合えるよ?ねえ、何処か行きたいところとかある?このボクがどんな所でも連れて行ってあげるよ?」
「行きたい所って言われても・・・・。」
あ、一つあった。
「本当に?どんな所でも連れて行ってくれるの?」
万一の為に念を押して置く。
「勿論だよ。」
頷くアンジュに私は言った。
「それじゃ・・・もし連れて行けないって言ったら、私のお願い何でも一つだけ叶えてくれる?
「うん、いいよ?さあ、何処に行きたいの?」
「それじゃあ、私を魔界へ連れて行って?」
「な・・・何言ってるの?そ、そんな事出来る訳無いでしょう?!」
アンジュの言葉に私は言った。
「ねえ、私に約束してくれたよね?何処にでも連れて行ってあげるって。それでもし連れてけないって言ったら私のお願い何でも一つだけ叶えてくれるって約束した事覚えてるんだよね?」
「う、うん・・・。ま、まさか・・・?」
「そのまさかだよ。私の願い事は一つだけ。アンジュ、私を魔界へ連れて行ってくれるんだよね?」
これには流石にアンジュも参ったのか、大人しく首を縦に振るのであった。
朝食の席でアンジュは私に言った。
「ねえ、ハルカ。本当にどうしても魔界へ行きたいの?」
「うん、だって私がこ『狭間の世界』へやって来たのは魔界へ行く為なんだもの。」
「え?ひょっとして・・記憶が戻ったの?!」
アンジュはバアンッとテーブルを叩きながら立ち上がった。その勢いでスプーンが床に落ちる。
「お、落ち着いてよ、アンジュ・・・。」
私はアンジュを宥めるように言った。
「記憶は戻っていないけどね、フェアリーが教えてくれたのよ。私の身体から2つの違う魔力を感じるって。だから私がこの世界へやって来たのは魔界へ行く為に違いないって。」
私はアンジュをじっと見つめながら続けた。
「ねえ・・・アンジュ。本当は全て知ってるんでしょう?私が何故この世界へやって来たのかを。だったら・・・教えてよ、どうして私は魔界では無く、この『狭間の世界』にいるのか。そして何故魔界へ行きたいと願っているのかも・・・・。」
「・・・。」
アンジュは答えない。
「私ね、この世界に来た時にとても辛い出来事があったみたいなの。門の入口の所で『マシュー』とある人の名前を言いながら、泣き崩れていたんだって・・・。でも、今の私にはその名前を聞いても何も思い出せない。だけど名前を口にすると、何故か分からないけど・・・胸が苦しくてたまらなくなるの。この気持ちが何なのか・・私は知りたい。きっとその理由も魔界へ行けば全て分かると思うのよ。だから・・・お願い、私を魔界へ連れて行って!」
私はアンジュに頭を下げた。
そこから少しの沈黙の後・・・。
「ハルカ・・・顔を上げてよ・・・。」
アンジュが力ない声で私に話しかけて来た。その声に思わずアンジュを見上げ、息を飲んだ。
アンジュは今までに無い位、悲しそうな顔で私を見ていた。
「ア・・アンジュ・・・?ど、どうしてそんな顔してるの・・・?」
「まさか・・・ハルカがこの世界へ来る時に・・記憶を無くすとは思ってもいなかったんだ・・・。」
「え・・・?」
ポツリとアンジュが言った。
「多分、この記憶も無くしているんだろうね・・・。ハルカ、君にこの『狭間の世界』へ来るように言ったのは、他でもないボクなんだよ?覚えていないよね・・?」
え?アンジュがここへ来るように言ったの?本当に?一体・・・私はどれだけ沢山の記憶を無くしてしまったのだろうか?
「ボクはね、ハルカ。最初から君がこの世界へ来たら、魔界へ行く為の手助けをしてあげるつもりだったんだよ。」
「え?そ、そうなの?で、でも何故・・・?」
「それは・・・ハルカ、君が好きだから手助けしてあげたいって思ったんだよ。」
じっと私を見つめるアンジュ。
「だけど・・・ボクはきっと自分の恋は成就しないと思っていたんだ。だってボクはハルカが魔界へ行きたい理由をあの時聞いていたからね。その人は・・・ハルカに取って、とても大切な人だから・・・絶対に自分の手で助けに行こうとしていたんだものね?」
「アンジュ・・・。」
本当に私はそんな事をアンジュに話したのだろうか?ああ・・・でも、私にはその時の記憶が一切消えている。本当に私が言った台詞なのだろうか・・・?
「だからボクはハルカを迎え入れる為に、この世界に戻って待っていたんだよ?それにハルカが僕を好きになってくれるとも思えなかったから、諦めて予め決められていたカトレアとの婚約の話も受け入れたし・・・。だけど・・・驚いたよ。」
アンジュは私を見つめると言った。
「だって、ハルカが何故自分がこの世界へやって来たのか・・・すっかり記憶を無くしてしまっていたんだもの。」
「・・・。」
私は何と返事をすればよいか分からず、ただ黙ってアンジュの話を聞いている。
「ハルカ・・・。君はこの世界へ来る時に相当悲しい経験をしてきたんだね?まさか『森』に記憶を消されてしまうとは思いもしなかったよ。だから・・・ボクはどうせなら辛い事は忘れたままで、ここでボクと一緒に幸せに暮らしていければと思って・・ハルカの記憶喪失をそのまま利用させて貰おうと思ったんだ・・・。」
「アンジュ・・・。」
アンジュは私を悲しませない為に嘘をついた事が分かった。だけど・・・。
「ごめん!ハルカッ!」
突然アンジュが私に謝って来た。
「全部・・・ボク自身の言い訳だよ・・・。ボクがハルカを自分の物にしたかったから・・ハルカを騙していたんだっ!だけど・・・ハルカは記憶を無くしてしまっても、魔界へ行きたいと言う気持ちは変わらなかったんだよね・・?」
いつの間にかアンジュは泣いていた。
「泣かないで・・・アンジュ。」
私はアンジュに近寄ると、そっと抱きしめて言った。
「私の事を思って嘘ついてくれていたんでしょう?ありがとう・・・。でも、私はどうしても魔界へ行きたいの。お願い・・・私を魔界へ連れて行って・・・?」
アンジュは顔を上げて私を見ると言った。
「うん、いいよ。」
と・・・。