第2章 5 ノア・シンプソンの誘惑
1
私がベッドから降りるとグレイは私にカバンを渡しながら言った。
「この後はどうするんだ?寮に帰るのか?」
うん・・・。本当なら部屋に戻って休みたい所だが、学年のアイドル?的存在のマリウスにお姫様抱っこされて運ばれた姿をほぼ全員のクラスメイトに目撃されている。寮の女生徒達に見つかったらどんな厭味な事を言われるか・・・。
私は思わず口に出していた。
「今夜は帰りたくないな・・・。」
「?!」
何故か大袈裟に驚いて、口元を手で押さえて耳元まで顔を真っ赤に染めるグレイ。
え?一体どうしちゃったの?
「グ、グレイ・・・・?」
「お、お前・・・なんて大胆な事言ってるんだ・・・?か、帰りたくないなんて・・。」
何故だろう?それ程大胆な事を言ったのだろうか?
「だって仕方無いじゃない。マリウスがクラス全員の前で私を抱き上げて運んだんだよ?マリウスが女生徒から人気があるのは当然知ってるよね?あんな姿を見られたら、嫉妬に駆られた彼女達にどんな目に合わされるか・・・。」
私は両肩を抱きしめ、ブルリと震えた。だからできるだけ人目を避けて寮に戻りたい。
「何だ、そんな理由か・・・。」
何故かガックリしたように肩を落とすグレイ。
「そんな理由って言い方は無いでしょ。こっちにしてみれば死活問題なんだから。」
「あのさ。」
グレイが何故か私から視線を逸しながら言う。
「何?」
「そもそもお前とマリウスはどういう関係なんだ?いや、付き人って言うのは知ってるけど、俺が聞きたいのはそんな事じゃなくて・・・。」
どうもグレイの話は要領を得ない。彼は何が言いたいのだろう?
「ねえ、グレイ。はっきり言ってよ。」
私は痺れを切らして彼に詰め寄った。私の髪の毛がグレイの顔にかかる。
「ッ!だから、お前は距離が近過ぎるんだって! 」
グレイは私から慌てたように離れると言った。いけない、どうも私は相手のパーソナルスペースに侵入してしまう傾向があるようだ。
「ごめんなさい。」
私は素直に謝った。折角グレイとは仲良くなれそうなのだから嫌われないよいにしなければ。
グレイは咳払いすると言った。
「ジェシカ、お前さあ・・・嫌じゃ無いのか?」
「何が?」
「マリウスが他の女と2人きりで会っている事だよ。」
「別に、嫌じゃないけど。」
「どうしてだよ?お前とマリウスは付き合ってるんじゃ無いのか?」
グレイの言葉に思わず固まる。
は?誰がマリウスと付き合ってるって? あり得ない!何が悲しくてあの変態M男と付き合わなければならないのだ。いくらイケメンでも蓋を開ければ私に詰られるのを至上の喜びと感じるマリウスと付き合うなんて考えられない。再度グレイを見つめると言った。
「私とマリウスが付き合うなんて事は絶対に無いから。例え、この世界が終わりを迎えて、人類が私とマリウス2人きりになったとしてもね。」
随分とスケールが大きな話となってしまったが、つまりそれ程嫌だと言う事だ。マリウス等観賞だけで十分だ。
「お、おう・・・。そうか。」
グレイも驚いたような顔をしている。
「それじゃ、アラン王子はどうなんだ?」
「何故そこでアラン王子の名前が出てくるの?」
「ジェシカ・・・。本気で言ってるのか?あれだけ王子がお前に露骨にアピールしているのに。あんな王子の姿、俺もルークも初めて見るぞ?」
いやいや、まさかそんなね~。だってアラン王子が私に構おうとするのは今迄自分の周りにはいないタイプの女だからなんじゃ無いの?物珍しさで近付いてきてるだけに決まってる。第一、小説の中のアラン王子は私の事を憎み、処刑しようとした程なのだから。それをソフィーに助けられて、島流しの刑に・・・。
そうだ!私の命運をかけるのはソフィーが全て鍵を握っている。早い所アラン王子とのセッティングをしなければ・・・!
私は目の前のグレイをチラリと見る。幸いグレイはアラン王子の付き人だ。彼に協力を依頼してソフィーとアラン王子の恋を成就させないと。
だから私はグレイに言った。
「アラン王子にはね、ちゃんと相応しい人物がいるんだからね。」
「は?」
グレイは唖然としている。まるで鳩が豆鉄砲をくらったような顔だ。
「おい、誰だよ。そんな話は初耳だぞ?」
グレイは興味深げに聞いてきた。さて・・・何処まで話しても良いのだろうか・・。
よし、決めた。
「実は、私ね・・・・予知能力があるの。」
「え・・・?」
「そう、アラン王子のお相手は私達と同じ学年の女生徒。気さくな性格で心優しく誰からも好かれる女性。今はまだ二人は出会ってもいないけど、きっと会えば一瞬で燃え上がるような恋に落ちる・・・!」
「・・・・。」
気付けばグレイが何やら白けた目でこちらを見ている。う・・・何だか急に恥ずかしくなってきた。つい、原作者であるが故に熱く語ってしまった。
「お前って・・・凄い妄想癖があったんだな。」
ポツリと一言。
「妄想じゃ無いってば!」
「まあいい、そんなムキになるなって。」
グレイは私の頭をポンポン軽く叩きながら言う。
「でも・・・。つまりジェシカはアラン王子の相手では無いって事なんだよな?」
妙に嬉しそうに話すグレイ。なので私は黙って頷いた。
「そっか・・・。よし、ジェシカ。お前さえ良かったら夕食、一緒に食べに行かないか?あ、でもまだ体調悪いなら無理には・・・。」
突然夕食に誘って来たグレイ。言われてみれば、いつの間にか18時になろうとしていた。
「でも、ルークはどうするの?」
「ルーク?ああ、別にアイツはどうでもいいんだよ。」
どこか面倒くさそうに言うグレイ。いや、駄目だ。友達関係は大事にしないと。
これは日本での自分の経験上、感じた事なのだから。
「駄目だよ、ルークはグレイの友達なんでしょう?それに私、ルークとも友達になりたいし。」
アラン王子や生徒会長、ノア先輩・・・彼らは小説の主要人物で、ジェシカの敵に該当する人物だから安易に接近する事は危険を伴う。けれど、グレイやルークはモブキャラだから別に仲良くしても問題は無いだろう・・・私はそう思ったのだ。
「分かったよ、ならルークを探しに行こう。」
グレイに促されて医務室を出た私達―。
結局その後私たちは暫くの間ルークを探したが見つける事が出来なかった。なので仕方なく2人一緒に学食で夕食を共にする事にしたのだった。
「そう言えばジェシカ、知ってるか?生徒会長が今、夕食も希望者は寮で食事が出来るようにする制度の嘆願書を作っているらしい。」
大盛のポークステーキを切り分けながらグレイが言った。え?嘘!何その話。私小説の中ではそんな設定作っていませんけど―?こ・これは一体・・・。まるで目に見えない何者かが勝手に私の小説の中の世界を作り替えようとしている陰謀が・・・!
・・・なんてそんな話ある訳無いか。第一夕食も寮で食べられるなら助かる学生達だっているはずだし。あの生徒会長、なかなかやるわね。
だから私も感心したように話す。
「そうなんだ。でも夕食も寮で食事出来るなら、いちいち外食に出掛けなくてもいいから楽かもね。」
私は言いながらオムライスを口に運んだ。うん、この卵の蕩け具合、濃厚なデミグラスソース・・・最高!
「ジェシカ、お前って本当に美味そうに食事するんだな。」
グレイは目を細め、私を見つめながら言う。
「それはそうでしょう。だって美味しい食事をしている時って本当に幸せなんだもの。そういうグレイは違うの?」
「いや。俺も食事時間は幸せを感じるさ。それに・・・今夜はいつも以上に美味しく感じる。」
少し頬を赤らめながら言うグレイ。そうか、今食べてる料理、そんなに美味しいのね。だから私は言った。
「グレイが食べている料理、相当美味しいんだね。今度私も食べてみる事にするよ。」
「・・・。」
グレイは少しの間無言になったが、その後は何故か不機嫌な様子でぶすっとした顔で料理を口に運び出した。
何か気に障った事でも言ってしまったのだろうか?年下の男の子って中々扱いにくいなあ。
それに・・・私は溜息を一つ、ついて思った。
今夜は寮に帰りたくない。と―。
2
食事が終わって、グレイとコーヒータイム。話の内容は勿論明日の件について。
「何い?!マリウスが明日ナターシャとお前と3人で町へ行くって言ったのか?!」
何をそんなに興奮しているのか、グレイはカチャンッと乱暴にコーヒーカップを置いて言った。そんなに乱暴に置いたらカップが割れてしまうじゃない。
「ねえ、ちょっと落ち着いてよ!それにそんな大声を出してナターシャの取り巻きに聞かれたらどうするの?」
必死でグレイを宥める私。只でさえ私は注目の的なのだから、これ以上目立つのは勘弁願いたい。
「ジェシカ・・・それでお前一体明日どうするんだよ。」
グレイは心配そうに私を見つめている。うん、やっぱりグレイはいい人だ。信頼における。
「う~ん・・・。どうしよう・・。」
本当に困った。元はと言えばアラン王子との剣の練習試合で私が絶対にマリウスと外出したいから勝つようにとお願いしたのは私だ。今更一緒に外出は取り消せない。
それに、どうもマリウスはナターシャの事が苦手なように見える。二人きりになりたくない為に私の事も誘っているように感じる。
「・・一緒に行きたくなんか無いよ。」
気が付くと私は思わず本音をポロリとこぼしてしまっていた。
「ならジェシカ、行かなければいいじゃないか!なあ。それで明日は俺とルークの3人で町に行こう!」
いつしかグレイは私の両手を握りしめている。
「ち、ちょっと、グレイ。痛いってば」
私が顔をしかめると慌てて手を離してごめんと謝るグレイ。
「私、マリウスとの約束は破れないよ。だって今までも色々彼には助けて貰ってきてるから・・。」
例え、3人で出かけても2人の邪魔にならないうように私が息を潜めていればいいだけの事だ。でもそれであのナターシャが納得してくれるかどうか・・・。
「ジェシカ・・・そんな顔するなよ。俺まで辛くなってくる。」
グレイは溜息をつく。え?私そんなに辛そうな顔してた?う~ん、どうも心配かけさせてしまっているようだ。
「そうだ、いっそ仮病を使って行けなくなったって言えば良いんじゃないかな?」
本当は町で洋服を買いたかったのだが、この際今回は諦めるしか無さそうだ。
「お前、本当にそれでいいのかよ。他に何か考え無いのか?」
「そうだね・・・。まあ、他にも何か考えてみる事にするよ。ごめんね、明日は一緒に町へ行けそうになくて。」
「くっそ~。マリウスの奴め。元はと言えば優柔不断なアイツが一番悪い・・・。」
グレイは何やらブツブツ文句を言っていたが、これだけ私の為に考えてくれたのだから今は感謝しかない。
「そろそろ、帰ろうか。」
私はカバンを持って立ち上った。
「え・・?い、いいのか?」
何故か言い淀むグレイ。あ、もしかして・・・。
「ああ、あの話は気にしないで。帰りたくないなんて、無理な話に決まっているんだから。」
「でも、あまり人目に付きたくは無いんじゃ無いのか?」
「大丈夫だって、どうせいつかは寮に戻らないとならないんだから。」
私は無理に笑顔を作って、席を立った。
結局最後まで私を心配してくれたグレイには、はっきりとした解決策を提示できないまま別れる事になった。
・・・帰り道、やはり自然と足取りは重くなる。これも全てはマリウスのせいだ。そう思うとマリウスに対して、怒りがこみあげて来る。絶対、会ったら文句言ってやるんだから―!
これが日本だったら、おもいきりお酒を飲んでヤケ酒を・・・。うん?ヤケ酒?
そう言えば、あるじゃない!この学院にお酒を飲める場所が!もうこうなったら寮に入る前にアルコールを入れて、帰るしかない。とてもじゃ無いがシラフで戻れる心境ではないのだもの。
そして、私はこの世界にきて初めての<サロン>へと向かったのだった―。
カランカラン・・・・
ドアベルの音を鳴らして私は店内へ足を踏み入れた。おお~っ!これはすごい!
本当に学院の中に設置されたバーなのだろうか?
広さはダンスホールにもなりそうな十分なスペースがあり、グランドピアノが3台も設置され、楽団が生演奏をしている。
ボックス席にテーブル席、そしておひとり様用のカウンター席が十分すぎる位設けられているので、これだけの広さがあれば知り合いがいても気付かれなくて済みそうだ。
私は1人で来店したので、当然の如く一番端のカウンター席へと座る。
「いらっしゃいませ。」
品の良いバーテンが私の前にメニューを置く。どれどれ・・・私の小説の世界ではどのようなメニューが提示されているのかな・・・。
数分後・・・すごい、まさにドンピシャ!全てのアルコールが私の大好きなジャンルばかりだ。どれもこれも飲んでみたいアルコールばかり。
早速、私は甘いカクテルを注文。
一人きりで来店した私に気を使ってか、若いバーテンの男性が話し相手になってくれた。
店内には30名ほどの学生たちが飲みに来ている。カップル同士や友人同士・・・中には私のように1人でお酒を飲みに来ている人物もいる・・・ん?あの人物はどこかで見たことがあるような・・・?あ、あれはルークだ。
私の席とは正反対の一番端に座る男性。青く長い髪の毛を後ろで1本に結わえている。そうとう飲んでいるのだろうか。空のビール瓶がズラリとならんでいた。折角お酒を飲みに来ているのだから、もっと楽しそうにしていればいいのに、仏頂面でグラスを煽っている。
うわ~機嫌悪そう・・・。
私はチラチラとルークの様子を伺っているが、彼はそれに全く気付くことなく黙って次はウィスキーに手を出している。何だかヤケ酒をしているようだ。一体どの位前から彼はこうしてお酒を飲んでいるのだろう。
「あの~・・あそこの席でお酒を飲んでいる彼はどの位前からいるのでしょうか?」
「ああ、あのお客様ですね。かれこれ3時間程になります。」
何?!3時間も1人きりで飲んでいる?しかもあの大量なお酒を・・・。そんなにお酒を飲むのが好きなら、何故もっと楽しそうに飲まないのだろうか?全く持って謎の人物である。
ああ、でも今はそんな他人の事を心配している場合じゃない。
私は深くため息をついた。なので余りにも悩みすぎていたので、店内のドアが開いて、ちょっとした歓声が沸き起こったのにも全く気が付いていなかったのだ。
「お客様、初めての方のようですが何かあったのですか?先程からため息ばかりついておられるので・・もし私で良ければお話だけでも伺いますよ。」
人懐こい笑みで私に話しかけて来るバーテン。
うん、私の事情を何も知らない第3者になら愚痴を聞いてもらってもいいかな・・・。
「あの・・それではちょっと聞いて頂けますか?」
「はい、どうぞ。」
「実は、明日は初めての町への外出なんです。最初はある男性と約束をして2人で一緒に出掛ける約束をしていたのですが、その彼にぞっこんな女性がいて、どうも彼と一緒に町へ行きたいと言ったみたいなんです。そこで親切な彼は私と3人で出かけましょうと提案したようなんですが・・・どう考えてみても、きっと彼女にとっては私は邪魔者だと思うんです。それにその女性って、すごく気の強いタイプなんです。何と言うか・・・こう、欲しいものは絶対に手に入れてやるぞって感じの。」
そこまで言って私は一旦言葉を切った。
「成程・・・それでどうされたのですか?」
「だから、私としては明日は私は彼と相手の女性の2人で外出してくれればと思っているんです。でも彼はどうも相手の女性の事を苦手と感じているようで、2人きりになりたくないように見えるんですよ。だからどうしたら誰も嫌な思いをせずに丸く事が納められるかなと思って・・・。」
そこまで話した時・・・。
突然私の肩に後ろから両腕が絡み、耳元で甘く囁く声が聞こえた。
「何だ、そんな事かい。僕なら簡単に君の悩みを解決してあげるよ。」
私に背後から抱き付き、顔を寄せているのはノア先輩だった・・・。
3
「こ、こんばんは。ノア先輩・・・。」
私は引きつりながらも何とか挨拶する。
「なーんだ。君がここに来ていると知ってたら、もっと早く来ていたのに。会いたかったよ。」
ふっと私の耳に息を吹きかけるように言うノア先輩。ゾワゾワッ全身に鳥肌が立つ。駄目だ、やっぱり私はこの先輩が苦手だーッ。
ノア先輩は数名の女生徒達とサロンにやってきたらしい。全員着替えて来たのか、派手なドレスを着ている。胸元の大きく開いたドレスや、大胆なスリットが入ったドレス等々・・・。
「ねえ~ノア様。今夜は私達とお酒を飲む約束していたはずですわよ?」
「そうですわ。やっとお会いできたと言うのに。」
「早く向こうのボックス席へ行きましょうよ~。」
「あらやだ、この人制服のままサロンへ来ているわ。」
彼女たちの甘ったるい香水の香りやきつい化粧の匂いに頭がクラクラしてきた。
それに一番問題なのは未だに私に抱き付いたまま離れないノア先輩。
「・・・ごめんよ。君達、今夜はもう帰ってくれないかな?僕は今この女の娘と話がしたいからさ。」
突然ノア先輩は冷たい声で彼女たちに言う。
彼女たちの息を飲む気配がする。どうもノア先輩に睨まれている様だ。
ノア先輩の声は私までゾッとする怖さだった。ましてや、睨まれながら言われた彼女たちは尚更恐怖を感じた事だろう。
「「「「ッ!」」」」
蜘蛛の子を散らすように店内を出て行く女性達。そんな彼女たちを冷ややかな目で見守っていたノア先輩はやがて私の隣の席に座って言った。
「やれやれ・・・やっと煩い女達が居なくなってくれたよ。」
そして私の右手を救い上げると指先を唇で触れた。
「!」
咄嗟に手を引こうとしたが、がっちり握りしめられて振りほどけない。
「・・・手を離して頂けますか?」
落ち着け、この人には隙を見せたらいけない・・・。動揺を抑えながら私は言った。
「嫌だ。と言ったら?」
まるで小悪魔のようだ・・・。この人が怖い・・。でも、負けていられない。
「私はお酒を飲みに来ているのです。手を握られていたらお酒を飲むことが出来ませんから。」
「な~んだ。そんな事。お酒なら僕が君に飲ませてあげるよ。・・・口移しでね。」
恐怖で全身に鳥肌が立つ。
何て妖艶な目をしているのだろう。25歳の私がこんな年下の男性に翻弄されるなんて・・!大体、小説の中のノア先輩はこんなに濃いキャラクターでは無かったはずだ。どうしてこんな事に・・。
「!お客様・・・。その辺でおやめ下さい・・!」
流石に見兼ねたバーテンが止めに入ろうとするも彼は小馬鹿にしたように言った。
「ふ~ん・・バーテンの分際で君はお客にそんな口を聞くんだ・・・?言っておくけど僕の爵位をもってすれば、君みたいな男はすぐにクビにする事だって出来るんだからね・・・。」
前髪をかきあげながら気だるそうに言うノア先輩。酷い!爵位を権力に脅迫するなんて・・・!
「・・・・。」
そこまで言われてしまえば、もう彼には何も出来ない。一瞬、申し訳なさそうな気の毒そうな表情を私に見せると視線を逸らしてしまった。・・仕方が無い。私には彼を責めるつもりは毛頭無かったし。
「で、どう?お酒飲むんでしょう?」
未だ手を握って離さないノア先輩。私は無言で空いてる手を伸ばすと先程注文したカクテルを取り、飲み干した。握られた手の先にカクテルが置いてあったので、非常に手を伸ばしにくかったのは言うまでもない。
「ふ~ん。君って強情なんだね。君を堕とすのが俄然楽しみになって来たよ。」
相変わらず私の手を握りしめたまま、じっと見つめて来る。・・・いい加減にして欲しい。
「ノア先輩、お酒を飲みにいらしたのでは無いですか?私は今1人でお酒を楽しみたいので申し訳ございませんが、別の席へ移動して頂けませんか?」
出来るだけ丁寧にお願いする。ああ、どうして今夜私はここにお酒を飲みに来てしまったのだろう。後悔だけが頭を巡る。
「そう言えばさあ、君だけ僕の名前を知ってるのは不公平じゃないかなあ。僕は君の名前を知らないのに・・。ねえ、教えてよ。君の名前。」
再び私の耳元に口を寄せて囁くノア先輩。本人はこれで大抵の女性は堕とせると思っているのだろうが、冗談じゃない!先程から私の身体には鳥肌が立っているのだから。
「どうぞ、私の名前は先輩のお好きなように呼んで下さい。」
なるべく視線を合わせないように私は言った。絶対にこの男には自分の名前など教えてやるものか。教えたら最後、もう逃げられない気がする。
「そう・・。でもそれも面白いかもね。そうだな・・今君の飲んだカクテルの名前・・『キャロル』はどうかな?」
「!」
あのカクテルを見ただけで、私が何を飲んでいるのか当ててしまうなんて・・!
私は衝撃を受けた。そう言えば、ノア・シンプソンの記述で、彼はカクテルに非常に詳しい人物として書いた一節があったっけ・・・。どうしてそこだけ同じなのだろう。性格も小説の通りだったら良かったのに。
「どうしちゃったのかな?キャロル?」
俯いていた私の顔を下から覗き込むようにノア先輩は声をかけてきた。
「そ、そう言えば先程言ってましたよね?自分なら簡単に私の悩みを解決してあげられると・・・。」
「うん、言ったよ。」
ようやく私の手を離すと、彼は頬杖を付いて私を見た。
「参考までに教えて頂けますか?どんな方法で解決するのかを・・・。」
きっとノア先輩の事だ。タダでは教えてはくれないだろうと思いつつ、私は尋ねた。
「いいよ、他ならぬ君の頼みなら。」
あっさり返事をするノア先輩。嘘っ?!教えてくれるの?
「簡単な事だよ。その彼女を僕が誘惑して、夢中になっている男への興味を無くせばいいんだ。君は特別だけど、今まで僕の誘惑に堕ちなかった女性はいなかったからね。こんな事、僕にしか出来ないだろう?」
どこかお道化たように言う先輩。確かに言われてみればその通りかもしれない。でも明日までにナターシャの興味を引く事が出来るのだろうか・・・?第一そんな面倒臭い事やりそうには見えない。
「そうですか、教えていただきありがとうございました。」
一応お礼だけは言っておく。
「え?それだけ?」
ノア先輩はきょとんとした顔で私を見る。
「それだけ?とは?」
「だから、僕に今言った事をお願いしようとは思わないの?」
「ええ。思いません。ノア先輩なら彼女を堕とす事が出来ると思いますが、先輩には何の得もないじゃないですか。だからお願いはしません。」
「得ならあると思うよ・・?」
「!」
すると再びノア先輩は私を引き寄せると、強く抱きしめ囁いた。
「簡単な事だよ・・。君が僕の物になればいいんだ。」
逃がさないと言わんばかりにギュウギュウに抱きしめられ、息が詰まりそうになる。
周りを見ても、皆そ知らぬふりで助けようともしてくれない。
「絶対に嫌です!く、苦しいので離して下さい!」
すると意外な事にするりと腕が離された。
「中々君もしぶといよネ・・・。そうだ!なら僕と勝負しようよ。」
名案だと言わんばかりにパンと手を打つノア先輩。
「勝負?」
一体何の事だろう?
「うん、僕とお酒の飲み比べをして君が勝ったら無条件で彼女を誘惑してあげる。でも・・・もし君が負けたら、僕の物になってもらうよ。あ、でも彼女の誘惑はきちんとしてあげるからそこは安心して。」
冗談じゃない!私は既にカクテルを何杯も飲んでいるのに、先輩はまだアルコールを口にしていない。こんな勝負、やっても無意味だ。私が負けるに決まってる。
そう思った矢先、突然誰かが割って入って来た。
「俺が彼女の代わりにその勝負受けさせて貰ってもいいか?」
そこにいたのはルークだった―。
4
「ルーク!」
その時の私は相当切羽詰まっていたのだろう。
気付けば私はノア先輩の腕を振り切り、ルークにしがみついていたのだから。
ルークは戸惑いながらも、私の背中に手をまわして、抱き留めてくれた。
きっと私のその時の顔はそうとう酷かったのだと思う。何故ならルークがとても心配そうに私を見つめていたからだ。
「また、君はそうやって他の男の元へ行ってしまうんだね・・・。」
ノア先輩の声は今までに聞いたこともない声色だ。まるで全てにおいて絶望しきったかのような。
「ねえ、どうしてそんなに君は僕の事を拒絶するの?僕はこんなにも君の事を欲しているのに・・・。」
まるで魂の抜けた美しい人形のような形相をするノア先輩。そしてこちらへ一歩づつ近づいてきた。嫌だ、怖い・・・っ!
「い、嫌!来ないで!!」
気付けば私はルークにしがみつきながらノア先輩に向かって叫んでいた。恐怖で身体が震えている。そんな私を見るとルークは安心させるかのように私の背中を撫でながら言った。
「大丈夫だ、俺がついている。必ず勝つから。だから・・・安心しろ。」
ルークは一度だけ私を強く抱きしめると、まるで庇うようにノア先輩の前に立ちはだかった。
「どうなんです?飲み比べ・・・代わりに俺じゃ駄目ですか?既に俺はもう相当酒を飲んでいます。圧倒的に有利なのは貴方ですから。」
「ふ~ん・・・。君が彼女の代わりに僕と飲み比べをするって言うのか・・・。」
ゾッとする笑みを浮かべるノア先輩。
「それでも別に僕は構わないよ。でも、もし君が負けたら最初の話通りに彼女を僕の物にするからね・・・。それもすぐに。」
その言葉に私はビクリとする。どうしよう。ノア先輩は本気だ・・・!
「あれえ・・・もしかして震えてるのかな?怖がる必要は無いよ。うんと優しくしてあげるからさあ。」
のんびり話すノア先輩。
私の怯えを察知したのか、ルークの背中越しにいる私に楽し気に言うノア先輩は狂気すら感じる。怖くて顔を見る事すら出来ない。ルークは背中越しに私の震えを感じたのか、優しく言った。
「大丈夫だ、安心しろ。絶対にお前に指1本触れさせはしないから。俺を信じろ。」
ルークは私の両肩に手を置くと真剣な瞳で言った。うん、きっとルークなら信じられる・・・。私は無言で頷いた。
「それじゃ、始めようか?」
ノア先輩は不敵な笑みを浮かべると言った。二人はテーブル席に向かい合って座っている。戦利品?の私はルークの隣に座って勝敗の行方を見守る事になった。
気が付けば、いつの間にか周囲には沢山の男性ギャラリーが集まっている。
ノア先輩の声を合図に、2人の飲み比べが始まった。
小説の中の彼は、非常にアルコールに関しての知識が強く、また飲む方に関しても強かった。今まで飲み比べをして負け知らずと言う事になっている。
しかし、一方のルークはモブキャラ扱い。アルコールに強いかどうかも分からない。
けれども私がサロンにやってくる3時間も前から飲んでいたとなると、恐らく相当強いのだろう。だがしかし、それだけ勝負は不利だと言う事になる。だってノア先輩は勝負が始まるまで一滴もアルコールを口にしていないのだから・・・。
2人の前に運ばれてくるアルコールを、まるで水のように飲みほしていくノア先輩とルーク。見ているこちらが悪酔いしそうな勢いである。
飲み続けて40分が経過しても、2人とも全く酔った風味は見えない。
す・すごい・・・。
しかし、徐々にノア先輩に焦りの色が見え始めてきた。一体どういう事なのだ、こんなはずでは無かった等と訳の分からない事をブツブツ小声で呟きながら飲んでいる。
ノア先輩は一体何を言ってるのだろうか・・・。私が勝負を見守っていると、突然肩を叩かれた。
振り向くと、そこに立ってたのは先ほどノア先輩に酷い事を言われていたバーテンだった。
「あの・・お客様、少しだけよろしいですか?」
呼ばれた私はバーテンの後ろに続き、店の奥へと案内された。
「え?睡眠薬ですか?!」
バーテンの突然の告白に私は驚いて声をあげた。
「しっ!ここだけの話にして下さいね。」
バーテンは口に1本指を立てると、辺りをキョロキョロ見渡した。
やがて誰にも聞かれていない事が分かると、ポツリポツリと話し始めたのである。
ノア先輩はこの店の常連で、爵位も高い。その美しさから「サロンの貴公子」と言われていた。そんな彼は女癖も悪くサロンでお気に入りの女性を見つけては、声をかけてきた。口が上手く、外見も美しい彼は一緒に飲むのを断られた事など1度も無かった。そしてわざと強くて飲みやすいカクテルを相手の女性に勧め、時には睡眠薬を混入し、酔いつぶれた所をノア先輩が個人で所有している<秘密の隠れ家>に連れ込んでいたらしい。
「そんな・・・それじゃ、もしかして・・。」
「申し訳ございません!!」
バーテンは深く頭を下げた。
「こうでもしないと・・・私をクビにするとおっしゃったので・・・!」
でも私は震えているバーテンを責める気にはなれなかった。だって彼はノア先輩に脅迫されて仕方なく手を貸したのだから。
それに、女性達からは今迄一度も被害届が出た試しがないらしい。恐らくは半分は合意の上の事だったのだろう。
となると、問題はルークの方である。ひょっとしてルークのアルコールに・・!
「・・はい、すみません。仕込ませて頂いておりました・・・。」
バーテンは可哀そうな位震えながら私の前で立っている。流石に哀れに感じた私は言った。
「・・もういいです。気にしないで下さい。私はルークを信じています。きっとこの勝負に勝つ自信があったから、私を助けるために名乗り出てきてくれたのだと思うんです。」
私はテーブルに座って飲み比べの勝負に挑んでいるルークを見つめながら言った。
「すみません!ここからは私の信念に従って行動させて頂きます。」
バーテンは言うと小さな錠剤を取り出した。
「これは?」
「強力な睡眠薬です。これを今からノア様のアルコールに仕込みます。」
「え?でもそんな事をしてもどちらがこのカクテルを飲むか分からないのに大丈夫なの?」
「はい、大丈夫です。実はこちらの睡眠薬は非常に特殊な物でして、今まで睡眠薬を口に入れていた方には、その効果を打ち消し、睡眠薬を摂取していなかった方には
強烈な眠気を引き起こすと言われている睡眠薬です。」
まさか、そんな睡眠薬が存在しているとは・・・・。しかも聞くところによると、この薬を作ったのは薬膳ハーブ師の倶楽部メンバーだと言う。
私はますますこの倶楽部に興味を持った。うん、落ち着いたら絶対にこの倶楽部活動を見学しようと心に決めた。
バーテンは2つのグラスにそれぞれ睡眠薬を混入すると、さっと混ぜた。
薬は一瞬で解けてなくなる。
「では、カクテルを出して参りますね・・。」
バーテンはトレーにカクテルを乗せると、ルークとノア先輩の元へと向かい、グラスを置いた。
互いに睨みあって、グラスを煽るルークとノア先輩。
やがて・・・テーブルに突っ伏して眠ってしまったのは、ノア先輩だった。
ついにルークは勝ったのだ。
「ふう・・・。」
ルークは飲み終わったカクテルをテーブルに置くと椅子に寄りかかった。
一方のノア先輩は後輩たちに担ぎ上げられ、ホールのソファ席に運ばれてそこで静かな寝息を立てている。
「ルーク・・・。ありがとう・・・。本当に・・。」
私はルークの前に立つと言った。
「言っただろう?必ず勝つって。」
ふっと笑みを浮かべるルーク。彼は私の恩人だ。感極まった私は気付くとルークの胸に飛び込んでいた。
「・・・・!」
私の取った行動にビクリと身体を震わせたルークだったが、やがてそっと私の背中に腕を回し、優しく抱きしめてきたのだった―。