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第1部  序章 

1


 あ・・・・青い空だ。

目を開けると真っ青な空が飛び込んできた。

吹き渡る風が、草が頬を優しく撫でて行く。

気持ちい良い風だな・・・。再び私は目を閉じると—。


「珍しい女だな。こんな所で眠っているとは」

真上から男性の声が降って来た。


その声に慌てて目を開けると、そこには私を見下ろすように立っている若い男性の姿があった。

アイスブルーの瞳に輝くような金色の髪、白い軍服姿はまるでハリウッドスターのような佇まいを見せている。


え?誰・・・?寝そべったまま口を開け、ポカンとしていたこの時の私は相当間の抜けた表情をしていたのだろう・・・・。




夜中の1時—

「こうして、悪女と呼ばれたジェシカ・リッジウェイはアラン・ゴールドリック王太子に爵位を奪われ、家族共々辺境の地へと追放されました。その後、アランは心優しいソフィーに永遠の愛を誓い、生涯を共にするのでした。・・・と。」

そこで私はPCのキーを叩くのを終えた。


「・・・やった。ついに完結したわ!」

半年に渡ってネット上に投稿し続けたオリジナル小説が終に完成し、私は嬉しくて祝杯を上げたくなった。

そこで共同シェアハウスの台所へ向かうと自分の名前が書いてある缶ビールを取り出し、自室へ戻りPCの椅子に座った。

「ふふふ・・・。失恋で半ばやけになって書き始めたネット小説がまさかこんなに人気が出るとは思わなかったわ。」

プシュッ!

小気味良い音を立てて缶ビールのプルタブを開けると、グビッグビッと一気にビールを仰ぐ。

トンッ。

缶ビールをデスクに置くと私はたった今書き終えた文章を読み返す。

「内容は割とベタだけど、やっぱり登場人物達の年齢を上げてちょと大人的な要素を取り入れた所が読者に受けたのかな?でも私、ヒロインよりこのツンデレな悪女の方が個人的に好きかな~。次回作はこの悪女の番外編なんか書いてみても面白いかも」


私は手元に置かれたイラストが描かれたA4用紙を手に取った。

書籍化が決まってから担当絵師さんがそれぞれの登場人物のイラストを描いてメールで送ってくれたのである。


「うん、イラストも最高。まさに私が思い描いていたキャラクターそのものだわ。絵師さんに感謝!」

パンと手を打って祈ると私は再び飲みかけの缶ビールに手を伸ばした。



 私の名前は川島遥、25歳。髪はストレートのセミロング。顔はまあ・・自分で言うのも何だがそれ程悪くは無いと思っている。何せ、学生時代ミスキャンパスの準優勝をしたのだから、人並みよりはチョイ上、と言った所だろうか?

半年前まで私は中堅規模のデザイン会社に勤務していた。元々は総務で入社したものの、デザイン部門に興味を持ち独学で勉強。それが会社に認められ、少しずつではあるが小さな店舗のHPデザインを任せて貰えるようになった。同期入社した企画部門の彼との交際も順調で充実した毎日が、ある日人材派遣会社を通して勤務を始めた若い女性社員によって徐々に私の日常が壊されていったのである。

名前は一ノ瀬琴美。年齢は私より2歳下だと言っていたから23歳だったはず。

彼女が配属されたのは私と同じ部署。けれども派遣社員と言う事と、デザインを起こした経験が無かったことから、彼女のする仕事はワードやエクセルを使った社内文書の作成や、電話応対と言った簡単な仕事ばかりだった。

肩まで伸ばした栗毛色のふんわりした髪型、少し低めの鼻だがくっきりとした二重瞼に笑うとえくぼが出来る所が男性の心を擽ったのか、若手男性社員に贔屓にされていた。

 中にはそれを快く思わない女性社員もいたが、いつの間にか彼女によって懐柔されたのか、気が付けば仲良くなっているのだから驚きである。私のいる部署は彼女を中心に回っている―そんな錯覚まで起こしそうになっていた。

そしてそれと反比例するかの如く、何故か私の会社での立場は悪くなっていったのである。

重要案件のメール配信をわざと私にだけ回さなかったり、勝手に作りかけのHPデザインを消されてしまった事もある。ある時は資料室にいた時に嫌がらせで鍵をかけられ閉じ込められた事等もあった。無視や悪口は日常茶飯事で当時私を庇ってくれる人間は気付けば誰一人として居なくなっていたのである。

そして私の評判は地に落ちた・・・・。



―半年前

「遥、俺達別れよう」

最近中々二人で会う機会が持てなかったある日、突然私は彼に退社後、会社近くのカフェに呼び出された。


「え?1週間ぶりにやっと会えたと思ったら一体何を言い出すの?」

私は目の前の神妙な面持ちで座っている彼を見つめた。

社内で酷い嫌がらせを受け、完全孤立してしまった私にとって違う部署で働いていた彼だけが私の唯一の心の支えだった。それなのに、いくら電話をかけても繋がらず、メッセージを送っても既読にすらならない。毎日が不安で不安でたまらなかった―

そこへようやく彼と連絡が取り合えたかと思えが、まさかの別れ話である。


「ねえ?嘘でしょう?いきなり別れ話なんて納得できるはず無いじゃない。いつもみたいに冗談言ってるんだよね?」

あまりの突然の話に私は信じられず、笑顔で尋ねた。


「はあ~っ」

飲みかけのコーヒーをテーブルに置くと、わざとらしく彼は大きなため息をついた。

彼の名前は林健一。同期入社で私と同じ25歳だ。ウィンドサーフィンが好きで休みが取れればサーフボードを持って、しょっちゅう海へ出掛けている。その為か肌は冬でも浅黒い。まさしくスポーツマンタイプの男だ。

私自身はサーフィンは全く出来ないが、彼が波乗りをしている姿を海で見るのが大好きだった。


「お前・・・俺が何も知らないとでも思っているのか?」

健一はうんざりだとでも言わんばかりに私の方を見る。


「え?何の事?」

私は首を傾げた。


「しらばっくれるな。お前の部署に派遣社員で入って来た女の子・・・琴美ちゃんに散々嫌がらせをしているって話は俺の部署にも知れ渡ってるんだよ」

健一はネクタイを緩めながら面倒くさそうに言った。


「琴美・・・ちゃん?どうして健一が彼女の事知ってるの?」

いつの間に彼女の事を名前呼びにする程に親しくなったのだろう。


「ああ、お前覚えていないのか?2か月程前・・・だったか?会社帰りに二人で歩いていた時に琴美ちゃんに会ったのを。その時、『お二人は交際されてるんですか?』って聞かれたよな?」


「う、うん・・・。そうだったね・・・。」

そうだ。確かにあの時私と健一が交際している事を彼女は知った。でもそれがどうして・・?ほんの少ししか会話を交わさなかったはず。なのに何故・・・?


「あの後、彼女が俺の部署に思いつめた表情でやって来たんだよ。お前に会社で毎日のように嫌がらせを受けているって。辛い、助けて欲しいってな」


健一はまるで汚らしいものでも見るかのような目で私を見た。こんな目で今迄見られたことが無かった私は背筋が寒くなった。

一体彼は何を言ってるのだろう?今私の目の前にいるのは本当に健一なのだろうか?

彼の口から出て来る話の内容は何から何まで私にとって身に覚えのないものばかりだった。でも思い返してみれば、私への会社の風当たりが強くなったのはその頃だったかもしれない。何故彼女は私にここまで嫌がらせをするのか、全く心当たりが無い。


「ねえ、ちょっと待ってよ。私がそんな事するはず無いでしょう?むしろ会社で居場所を無くしてしまったのは私の方なんだよ?だから相談に乗って欲しくてずっと連絡入れてたのに。気が付いてたんでしょう?どうして今まで私の事無視してたのよ。

聞いて健一。2年間付き合った私と彼女の言葉、どっちを信じるの?」

私は必死になって自分の思いを語った。


「何だ、お前。人の話聞いてたのか?まるで自分の方が被害者面しているぞ」

健一は私の態度が気に障ったのか、声に苛立ちが混じって来た。

でもそんな事言われても一切身に覚えが無いのだから仕方が無い。


「俺は、琴美ちゃんの相談を受けているうちに彼女の事がいじらしくなってしまった。・・・愛しいと思ったよ。守ってあげたいって」


夢見るようにうっとりと言う健一を前に私の心はどんどん冷めていった。

この男は一体何を言ってるのだろう?仮にも付き合ってる彼女の前で別の女性の話をそんな表情で語るなんて・・・。


「分かった、いいよ。別れてあげる」

もう何も感じなくなっていた。私は自分の分のコーヒー代をテーブルに置くと立ち上がった。


「さよなら」

でも一言、どうしても最後に言ってやりたくなった。

私は振り返ると言った。

「一ノ瀬さんとお幸せにね。」

そして私は一人、涙を堪えて店を出たのだった―。





2


 私が健一と別れたという話は何故か翌日には社内中に広まっていた。

いや、そもそも私たちが交際していた事を知る人間は限られた人物しかいなかった。

あの一ノ瀬琴美を除いては・・・・。

そして有ろう事か、数日後には二人は堂々と交際し始めたのである。

恐らく健一の性格上、自分から私と別れたことを言いふらすような人間ではない。

それならば該当する人物はたった一人、一ノ瀬琴美以外に無いだろう。

でも私はそれを問いただす気にもなれなかった。

会社では毎日のように陰口や無視、重要事項の伝達ミス・・・最早仕事に支障をきたす事態になるまでの嫌がらせを受け続けていて、心が疲弊しきっていたからなのかもしれない。だけど私がこの会社を辞めなかったのは大好きなデザインの仕事をさせて貰えていたからだ。

ところが、ある決定的事項により私はついに会社を辞める決心をしたのだった。


ある日の事。

「川島君、君に話がある。至急小会議室へ来るように」

出勤して間もなく私は係長からメールを受け取った。


一体何があったのだろう?つい先日お客様から依頼を受けたHPのデザインを仕上げて、係長からOKを貰ったので納品は無事済ませている。でも至急との事なので何かあったのだろう。嫌な予感がした私は作りかけのワードプレスを中断させ、急いで小会議室へと向かった。

 

 そして席へ着くなり係長から叱責されたのである。

「川島君!一体君は何てことをしてくれたんだ!」

係長は険しい表情で私を睨み付けた。


「あ、あの。どういう事でしょうか?」

私は頭の中で必死で係長が激怒している理由を探してみたが、生憎思い当たる節は無かった。


「君は本当に思い当たる事が無いのか?!先日、君が納品したデザインだが・・・先方から先程連絡があったよ」

係長は額を押さえながら言った。


「・・・・。」

私は黙って次の言葉を待った。


「君はよりにもよって、お客様の会社名をライバル会社の名前で納品したそうじゃないか!しかも住所や電話番号はでたらめで事業案内もいい加減な内容だったと言って来たのだぞ!」


「え?そ・そんなまさか!係長も納品前の最終チェックして下さいましたよね?この内容で大丈夫だと許可を頂いてから納品したのですよ?」

私は震える手を必死で押さえながら言った。


「ああ、確かに君のデザインの内容は確認した。あの時は正しく出来ていたからだ。なのに何故納品の段階であんないい加減な物を納品したのかと聞いているのだ!」


「で・ですが・・・。」

そこまで言いかけて私はある事に気が付いた。

あの時、係長にデザインの確認で自分のデスクを離れて戻ってみると何故かPCの電源が落とされていたのである。不思議に思いながらも再度電源を入れると今度はネットが繋がらない。仕方が無いので同期の女性社員にお願いして代わりにネットで送らせて貰ったのだった。


(ま・まさか原さんが・・・?唯一信頼できる人だと思っていたのに・・。)


原幸恵。私と同期入社した同僚であり、親友。

けれどもあの一ノ瀬琴美が入社してからは何故か彼女から避けられるようになった。

最も他の社員のように彼女は私に嫌がらせをする事も無く、時折同情するような視線でこちらを見ている事もあった。

仕事上の頼みごとをすれば、素っ気ない態度でありながらも引き受けてくれていたのだった。それなのに・・・・とうとう彼女にまで裏切られてしまったようだ。


「も、申し訳ございません!すぐに修正して先方に謝罪の電話を・・・」

そこまで言いかけた言葉を係長が苛立ちを含ませながら遮った。


「もういい!先程別の社員に修正したデザインを納品させた。謝罪も私から先方に連絡を入れてある。もう君はこの仕事から手を引き給え。・・・最近の君の仕事のミスの連続は目に余るものがある。人事の方と話をし、来月から君は資料室の部署へ移動が決まったので引継ぎ等があれば早目に済ませておくように」

それだけ係長は言うと、もう私には眼もくれず会議室を出て行った。


移動?総務課ではなく資料室へ?大体そんな部署は聞いたことが無い。恐らく今回の件で急ごしらえした課なのかもしれない。そう考えると会社は私をリストラさせたいのだろう。クビにする事は出来ないので、私の方から辞める様に勧めているに違いない。


「もう・・・いい」

私は零れ落ちそうな涙を必死でこらえて拳を握り締めた。そこまでして辞めて貰いたいのなら、明日で会社を辞めてやる。どうせ私の仕事は全て取り上げられ、引継ぎも何も無いのだから。

私は顔を上げると会議室を後にした―。


 部署へ戻ると、もう私の今後の処遇が知れ渡っているのか、何人かの社員たちがこちらを見ている。PCを見ると案の定、先程まで作成していたワードプレスは削除されていた。ぎゅっと両手を握りしめていると周囲で女性社員がクスクスと笑いながらこちらを見ている。

私は何も気が付かなかったフリをして、デスクを整理し始めた。棚のファイルは全て元の場所へ戻し、引き出しから会社の備品を全て取り出し、備品棚へ戻す。不要になった資料はシュレッダーへかける等々・・・この日はデスクを整理するだけで1日が終わったのだった。

私がデスク周りを片付けているのを係長は不思議そうな目で見ていたが、すぐに視線を外した。恐らく早めに処理して資料室へ移動するとでも思ったのかもしれない。

一方の一ノ瀬琴美だけは冷たい笑みを浮かべて時折こちら見つめていたのは気に入らなかった。


 定時になり、私は誰からも返事が返ってこないのは分かっていたが、お疲れさまでしたと頭を下げて会社を出た。

正面玄関を出ると私は振り返った。けっして大企業では無かったが、私はこの会社を気に入っていた。いずれ健一と結婚したとしてもずっと働いて行こうと思っていたのに・・・。

私は深いため息をついた。

家に帰ったら、すぐに退職願を書こう。本来なら二度と出勤したくは無いのでメールで済ませたい位だったが、社会人としてそれはどうかと思い、さすがにそれは踏みとどまった。

有給を全て使い切った日付で退職願を出し、そのまま退社してしまおうと考えている。


「次の住む場所・・・考えなくちゃ」

私はポツリと呟いた。

今住んでいる賃貸マンションは8畳の1DKでクローゼットや収納庫等が全て完備されているのでゆったり暮らせる。駅近で女性向けのマンションなのでセキュリティ対策も完璧なのだが、賃料が高くて会社を辞めてしまってはとても払っていけない。

地元に戻って実家を頼る気も更々無いのでどこか安い部屋を探さなければ・・。


「落ち込んでばかりもいられないなあ・・。お酒でも買って帰ろう」

そして私は自宅近くのスーパーで缶チューハイとワイン、おつまみを買って帰宅したのだった。


 

 やがて自宅へ帰りついた私は着替えを済ませると、早速会社のHPにアクセスして就業規則にざっと目を通した。退職願いの書き方に関しては特に注意書きが無かった為、どうせ円満退社ではないのだからとPCで退職願を作成し、封筒に入れた。


自分でも妙に心が落ち着いているのが不思議だった。会社からの嫌がらせ、一方的な別れ話・・・ちょっと考えてみればかなり悲惨な状況なのに、何故なのだろう?

でも恐らくそれは今迄の嫌がらせが酷すぎて感覚がマヒしてしまっていたからなのかもしれない。


「とりあえず、お疲れ様」

私は独り言を言い、買って来たおつまみをテーブルの上に並べると、ワインをグラスに次いで誰に言うでもなく言った。

「乾杯」

と―





3


 翌朝、普段はオフィスカジュアルスタイルで出勤していたが、この日は普段着ない上下のスーツを着て会社へと向かった。

出社してきた私は案の定、社員から注目を浴びていたが今更私は気にも留めなかった。そして朝の挨拶もせずに私は係長の元へ向かった。


「係長、お話があります」

PCを見ていた係長は顔を上げ、私の格好に少し驚いたようだった。


「何だ?朝から私に用でもあるのか?」

係長は明らさまに嫌そうな表情で尋ねて来た。


「はい。こちらを受け取って頂けますか?」

私はバッグから『退職届』と書かれた封筒を係長のテーブルに置いた。


「・・・・」

係長は難しそうな顔で封筒を眺めていたが、顔を上げた。

「辞めたい理由は?」


「一身上の理由です」

私が会社を辞める理由など分かり切っているのに、全く食えない上司だ。


「私の有給は約1カ月半残っています。全ての有給を消化した日数で退職日の希望を書かせて頂きましたので、受理お願い致します」

頭を下げた。


「川島君、幾ら何でもそれはあまりに無責任では無いか?引継ぎはどうするんだ?やりかけの仕事は・・・?」

流石に係長は困惑している。


「私が担当していた仕事は全て他の方に回されましたよね?引継ぎも何もする事はありません。資料室の部署だって必要あるとは思いません」

私は機械的に言葉を並べた。


「しかしだな・・・。会社に居ずらくなった君の為を思って折角こちら側から新しい部署をわざわざ用意してやったと言うのに、そのような反抗的な態度を取って許されると思うのか?」

怒気を含めた声で係長は言う。


「あまり私の退職願の受理を渋るようでしたら、パワハラ被害で訴えますよ?今まで私が会社から受けた嫌がらせの数々・・・・全て証拠として残してあるのですから」

私はスーツの胸ポケットからそっと「ペン型ピンホールカメラ」を取り出した。


「ま・まさかそれは・・・?」

途端に係長の顔が青ざめて来る。


「私がこの会社で酷い嫌がらせを受けていたのはご存知ですよね?その映像は全て証拠としてUSBに保存してあります。これを提供すればどうなるでしょう?」

私は社内で嫌がらせを受けるようになってから、肌身離さずこのペンで映像を取り続けていたのである。自分を守る武器として―。


「わ・分かったっ!君の言う通りこの退職願は受理する!」

係長はかなり焦った様子で退職願を受け取った。


「はい、では今迄お世話になりました」

最後に笑ってやろう。

私はにっこり笑って、頭を下げると今までこちらに注目していた他の社員達には目もくれず、会社を後にしたのだった。



「う~ん」

会社を出ると私は大きく伸びをした。空は青く澄み渡っている。

「まるで今の自分の気持ちを表しているみたい」

空を見上げながら言った。

「よし、取り合えず・・・・・新しい部屋を探すか」

私は新しい人生の第一歩を踏み出したのであった。


こうして私は会社を辞めた―。





お酒を飲みながら、投稿前に誤字脱字が無いか念入りにチェックする。

「うん・・・大丈夫そうだな。よし」

私はマウスを操作して、小説をネット上に投稿した。ふと時計を見ると、もう深夜の2時を過ぎている。

「いけない!もうこんな時間だ。え~と確か私が使えるキッチンの時間帯はと・・・」

私は壁のコルクボードに差してある『キッチン使用時間割表』を見た。

午前中の利用時間は8時からとなっている。

「うん、この時間なら7時半までは寝てられるかな」

空いたグラスや缶等を持ってキッチンへ向かうと、静かに洗って片付けをして部屋に戻ると携帯の目覚ましをセットすると、私は眠りに就いたのだった・・・。

 

 カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいる。枕元では寝る前にセットした携帯のバイブが振動を立てて動いている。

「携帯・・・」

布団に入りながら枕元のスマホを手探りで探し、バイブを止めた。

ここはシェアハウスなので、基本音の鳴る目覚ましは禁止とされている。なのでここの住人達は大抵携帯のバイブで起きている。中には自然に目が覚めるまでずっと眠っている住人もいるのだが。


東京都の市街地にあるシェアハウス。会社を辞めたあの日、私はすぐその足で数件の不動産屋を回ったが、どこも家賃が高くてこの先いつ就職が決まるか先行きが不透明な状態では思い切って部屋を借りる事もままならない。

半ば諦めていた所、最後に訪れた不動産屋で出会った人がいた―。




「う~ん・・・・。お客様のご提示されている金額で借りられるような部屋は、ほとんどありませんねえ。あると言ってもこのようなお部屋しかご用意出来ません。」

対応してくれた40代と見られる男性はPCでいくつかの物件をピックアップすると画面を私の方へと向けた。


「御覧のように、築30年以上たったものばかりでリフォームは済んでいますが、

キッチンのガスコンロは自分持ち、トイレ、洗面台、お風呂が一体化したユニットバスに6畳一間と言った内容のお部屋しかご用意出来ません」

申し訳なさそうに言う。


「う・・・これはちょっと・・・」

周りからは贅沢と言われてしまうかもしれないが、今迄恵まれた環境で暮らしていたのでいきなりこのような環境の部屋で暮らすのは正直辛い・・・と言うか、無理!


「分かりました・・・。色々と有難うございました」

私は礼を言って席を立って店を出ようとしたその時、突然背後から男性が声をかけてきたのだ。


「失礼、お部屋をお探しですか?」

驚いて振り向くと、年齢は私と同世代位であろうか優し気な男性がにこやかに立っている。


「は、はい。そうですが・・・?」

首を傾げながら返事をすると男性は続けた。


「どうでしたか?よいお部屋見つかりましたか?」


「いえ、まだ見つからなくて。これからまた少し不動産を回ってみようかと考えている所です」


「ああ、そうなんですね。それならご紹介したい物件があるので少しお付き合いいただけますか?」

男性どこかほっとした表情を浮かべたのだった。



「シェアハウス?」

不動産屋の隣のカフェでコーヒーを飲みながら男性が提示して来た物件は思いもよらぬものだった。

男性の名前は『赤城司』、シェアハウスに空きが出たので新しく入居者を募る為に不動産屋を訪れていたそうだ。


「いや、オーナーと言っても持家に空き部屋があるのでそれを低価格で賃貸しているんだ。本業はエンジニアだよ。」

いつの間にか砕けた様子で話す赤城さんはコーヒーを飲みながら教えてくれた。


「エンジニアをしている方だったんですか?すごいですね!私はまだまだ未熟ですが、ウェブデザインの仕事をしているんです」


「へえ~。それは奇遇だね。実はここのシェアハウスには俺を含めて4人の若い男女が住んでいるんだけどね、全員ウェブ系に携わった仕事をしている人達ばかりなんだよ。全員その道のエキスパートだから、色々教えて貰えるかもね。皆気さくな相手だから」


「本当ですか?!」

私は思わずその話に食いついてしまった。実は酷い嫌がらせの為に会社勤めトラウマになってしまっていた私は、細々とウェブデザイナーとして在宅で仕事をと考えていたのだ。とはいえ、私はまだ素人に毛が生えたようなもの。でも教えて貰えるチャンスがあるのなら・・・?これ程美味しい話は無い。


「あ・・・。でも家賃ておいくらなんでしょうか・・・?」


「光熱費込みで4万円だよ。ただ、部屋の広さは6畳なんだよ。けど、ウォークインクローゼットが付いてるからそれ程狭さは感じないと思うんだけどな。それに共有スペースとしてキッチンとテーブル、家電製品は全て揃ってるよ」


何それ!聞けば聞くほど素晴らしい物件じゃない!捨てる神あれば拾う神ありとはこのことを言っているのかもしれない。

「あの、是非契約させて頂けますか?!」

気が付けば私は身を乗り出して、赤城さんの顔を覗き込んでいたのだった。






4


朝8時―

私はシェアハウスのキッチンに立っていた。アイルランド型の大きなキッチン、2台も備え付けてある大きな冷蔵庫に収納戸棚・・・これ程物に恵まれた環境も無いだろう。

食材は勿論、自分の物は自分で用意する。冷蔵庫から自分の名前を書いたポリ袋を取り出した。

「簡単にスクランブルエッグとボイルウインナー、サラダにして・・・。パンはまだあったかな?」

収納戸棚を見ると、まだ食パンは残っている。スティック珈琲も在庫があるし、これで朝食はまかなえそうだ。

早速キッチンで簡単に調理を始めていると、同居人の男性が欠伸をしながらリビングルームへと入って来た。


「おはようございます、森下さん」

笑顔で挨拶すると森下さんは驚いたように言った。


「あ・ああ、川島さん。何か良い匂いがすると思ったら料理していたんだね」

頭をポリポリ書きながら森下さんは言った。

この男性は若手のゲームプログラマー。オンラインアプリゲーム世界では中々有名な人物らしい。


「良かったら、一緒に食べますか?少し多めに作ったので」


「ええ?本当にいいんですか?嬉しいなあ~。」


「いいんですよ。いつも仕事の件では色々お世話になっているので」


「やめときなさいよ、川島さん。一度餌付けすると何度も催促されるから」

そこへスレンダーなショートヘアー美人の大塚さんがやってきた。ビシッとスーツ姿で決まっている所を見れば、本日は出社日なのかもしれない。


「大塚さん、今日は出勤ですか?」

フライパンの火を止めて尋ねた。


「うん、そうなのよ。何でも会社のPCがバグっちゃったみたいで手助けが欲しいんですって。あ~面倒くさいわ。それじゃ、行ってきます」

大塚さんは踵を返すと颯爽と出かけて行った。


皿に二人分の朝食の用意をすると私は森下さんに声をかけた。

「森下さん、朝ご飯が出来たのでどうぞ」


呼ばれた森下さんはいそいそとテーブルに着き、私が用意した朝食を見て嬉しそうに言った。

「おお~これは美味しそうですね」


「いやいや、どれも簡単な物ばかりでお恥ずかしいですよ」


「そんな事無いですって。大体ここに住む住人は川島さんと赤城さんを除いて、誰も料理作らないんですから」


言われてみれば確かに森下さんも大塚さんも料理をしない。それに滅多に部屋から出てこない金子守さん(詳しい仕事内容は良く分からないが、ネットショップを運営、かなり儲かっているとの話だ。)彼もその内の1人。


後は・・・。

私は先ほどから自分の部屋にも戻らず、リビングで寝息を立てている女性、

宮守京香さん。一緒に暮らし始めて半年になるが、未だに謎の人物である。噂によるとデイトレーダーの仕事でかなりの金額を動かしているらしいが、定かではない。


「そう言えば、赤城さん今朝はまだ見かけていないですね」

森下さんが何気なく話しかけてきた。


「確かにそうですね・・。いつもならこの時間はとっくにリビングに顔を出しているのに」

私は首を傾げながら答えた、その時。手元に置いた携帯からメッセージの着信音が届いた。何気に開いた私はたちまち嫌な気分になる。


「どうかしたんですか?」

そんな私の様子を森下さんは不思議そうに尋ねて来た。


「あ、何でも無いんです。また迷惑メッセージが届いてしまって。後で着信拒否にしておかないと」

咄嗟にごまかすのだった。

メッセージの相手は交際していた元カレ、健一からだった。ここ2週間ほど前から頻繁にメッセージが届くようになったのである。

内容はどれも同じ、ヨリを戻そうと言ったものばかりである。俺が間違っていた、俺にはお前しかいないと言われて、ハイ分かりましたとでも言うと思っているのだろうか?もうとっくに健一への思いは冷めきっている。いや、連絡すら入れて欲しくない。あんな一方的に振られたのにヨリを戻すなんてあり得っこない。


「川島さん、大丈夫ですか?」

突如声をかけられて私は顔を上げた。見ると森下さんが心配そうにこちらを見ている。


「あ、ごめんなさい。ぼんやりしていたようで」


「部屋で休んだ方がよいですよ?何だか顔色も悪そうだし・・・片付けは俺がやっておきますんで」


「そうですか・・・?それじゃお言葉に甘えて。後はよろしくお願いします」



 部屋に戻るとベッドに寝そべり、携帯に届いたメッセージを確認した。既に健一が入れてきたメッセージは50件を超えているだろうか。これでは完全にストーカーだ。

「ふう・・・」

私は深いため息をついた。何よ、一ノ瀬さんとよろしくしてたんじゃなかったの?今更私に何の用だって言うのよ。

思えば私がネット小説に投稿したのも、今回の事が原因だ。一方的に失恋し、やけになって書いた作品である。そしてモデルとなったキャラクターも然りだ。

例えば、悪女として登場するジェシカは私。そしてヒロインは一ノ瀬琴美。ヒロインの相手役は健一がモデルで、最後まで悪女ジェシカの側から離れず、見守ってくれた人物が赤城さん。

いや、別に彼に気があると言う訳では無いが、路頭に迷いそうになった私を助けてくれた赤城さんはまさに私にとっての王子様と言っても過言ではない。


「そう言えば、赤城さん・・・。今朝はどうしたんだろう」

私は呟いた。ここに住み始めてからというもの、毎朝必ず顔を合わせてたのに今朝は会う事が無かった。

「何かあったのかな・・・。ちょっと仕事の事で聞きたい事があったのに」

そこまで言いかけて、私は慌てて飛び起きた。


「あ!大変!納品明日の朝までだった!早く最後の仕上げをしなくちゃ!」

私は慌てて飛び起きるとPCの前へ向かったのだった。



 夜8時―

「ふう~、やっと終わった」

無事に納品を終えた私は駅前の商店街へと向かっていた。

「明日は何の料理を作ろうかな・・・」

そう考えながら歩いている時である。


「川島さん!」

聞き覚えのある声に思わず振り返ると、そこには身体を震わせながら怒りに満ちた目で私を睨み付けている一ノ瀬琴美が立っていた。


「一ノ瀬・・・・さん・・・?」

私は信じられない気持ちで彼女を見た。


「やっぱり・・・貴女は酷い女ね・・・!一度は振られたくせに、また彼に言い寄ってヨリを戻そうとするなんて!」


彼女が何を言ってるのか私にはさっぱり理解出来ないし、むしろ怒っても良い立場にあるのはむしろ私の方ではないだろうか?

けれど、彼女がバッグから小さなナイフを取り出した時、恐怖が走った。

え・・・まさか嘘でしょう・・?


「許さない!」

そう言うと、ナイフを握りしめながら私の方へ走って来た。


「!」

恐怖に足がすくみそうになったが、キラリと光るナイフの穂先が逃げる原動力になった。私は踵を返すと必死に走った。町行く人々は女二人の追いかけっこを不思議そうに見ていたが、静止しようとする人物は誰一人としていない。

息も切れ切れに走ると、道路を挟んで反対車線に交番があるのが見えた。でも信号を待っているうちに追いつかれてしまうかもしれない。

見ると側には歩道橋があった。私はキリキリと痛む心臓を我慢して必死に階段を駆け上がる。


しかし、余程私は慌てていたのだろうか。突然足を踏み外してしまい、そのまま階段から落下していく―


「遥!」

地面に落下する瞬間、一ノ瀬琴美を羽交い絞めにした健一が悲痛な声で私の名前を叫んでいる姿が目に映った。

健一、どうしてあなたがそこにいるの・・?


そして私の意識は暗転した―。


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