鬼ですが、どうか豆を投げないでください
「鬼は外、福は内」ってフレーズは誰もが一度は耳にしたことのある節分の定型句だと思うんだけど、この風習の何が怖いって、人ひとりを『鬼』に見立ててよってたかってボコボコにするところにあると思うんだよね。
いやいや君たち「鬼は外、福は内」とか叫んじゃってるけど、どう考えても「鬼は外」の要素しかないじゃん、みたいな。
「福は内」の福さんはどこにいっちゃったの? みたいな。
なんなら人を『福』に見立てて好きなだけ贅沢を味わわせる行事にしてしまうほうが、豆も無駄にせずに済むし、掃除もしないで済むしでリーズナブルかつエシックスだと思うんだけど、そうならないのは、多くの人間が外にいる福なんかよりも家にいる鬼が気になって仕方がないからなんだとおもう。
要は内にいる悪いものを外に払えば、外にある幸福が勝手に内に入って来てくるって発想なんだろうけど、これは別に日本の節分に限ったハナシじゃなくて、海外ではつい最近まで魔女狩りが行われていたっていうし、日常レベルでも仕事における戦犯探しだとか、夫婦感における責任押し付けあいなどなど、至るところで散見されていて、それってつまるところ外にある幸せを探すよりも、内側に悪者を見繕ってボコるほうが何倍も楽ってことなんだろうけど、なんだかそれ以外にも人間の陰湿な部分が見え隠れしているようで私はたまらなく嫌になる。
お金を稼ぐよりもあえて借金をつくってモチベをあげる、みたいな。
合理よりも不合理を優先してまで身内の人間に攻撃してみせるその、野蛮さ、獰猛さ、救いようのなさ。
全てが鼻について仕方がない。
私がこんなにも人間を毛嫌いしているのにはちゃんと訳がある。
それは私が正真正銘、本物の鬼だからだ。
人間に豆を投げつけられ、よってたかってボコボコにされ、輪の外に放り出される鬼そのものだ。
もちろん鬼とはいっても、かの有名な桃太郎に出てくる全身赤づくめの化物ってわけじゃなくって、ちゃんと人間の姿形をしている。
ただ頭には小さい角が二本ちょこんとついてるし、モノを飲み食いしなくても生きていられるって点が人間とはちょっとばかし違っていて、モノを食べずにどうやって身体を動かすエネルギーを産出しているのかなーって疑問には私自身なんども首を傾げてきたんだけども、その謎に答えてくれる鬼は残念ながら私の周りにはいない。
いや。私の周りにはいないというか、今や日本全国どこを見渡しても鬼なんて見つからないありさまで、唯一の身内であるおっかさんも、私が物心つく前に病気でのたうちまわった挙句におっ死んでしまったので、ひょっとすると私が世界で最後の鬼の生き残り、ってことになるのかもしれない。
物心がつく前に親と切り離された野生動物は、野垂れ死ぬものらしいけど、幸いなことに鬼は飢えでは死なないし、おっかさんから文字の読み方は教わっていたため、夜な夜な人間の書物を盗んで、あるいは昼に人間の会話を盗み聞いたりして、こうして知識を身につけることが出来たわけだけど、未だにどうしても釈然としないのは、人間が鬼を迫害する理由である。
人間は鬼に食べられるといって、鬼を追いやり、時には殺めてしまうわけだけど、鬼は人間を食べずとも生きていけるわけで、今まで飲まず食わずで生きてきた私から言わせれば、ただの被害妄想にしか思えないんだけど、どうやら人間たちはどうしても鬼を悪いものと見なしたいようだ。
釈然とはしないものの、私が人前に姿を晒してもろくなことが起きないのは容易に想像出来ちゃうので、今の今まで人との接触を避けてきた。ただそうすると食事を摂る必要のない私は、暇を持て余すしかなくなり、やることといえばこうして昼となく夜となく、取り留めのないことを考えるくらい……。
「お前。鬼、なのか?」
眠れもしないのに目を閉じたまま物想いに耽っていた私が突然のノイズに驚いて目を開くと、目の前に十四・五の男の子が訝しげな顔をして私を覗き込んでいた。
私は村の外れの廃墟を寝ぐらにしていて、今の今まで人っこ一人入ってきたことはないし、何よりドアを施錠していたはずなんだけど、さてはてこの子はどうやってこの家に入ってきたの……
「おい、答えろよ。お前は鬼なのか?」
私がいつもの調子で考えを張り巡らせていると、男の子が割って入ってきた。別に無視してもいいはずなんだけど、男の子の声からはなんだか自分の腹の底をガクガクと揺さぶってくるような強い響きが感じられて、とても無視できる気がしないので、私は何と言葉を返すべきかを考え、すぐに答えを出した。
「そぅょ。わ、たぁ……お?」
『そうだよ私は鬼だよ、よろしくね』
と言おうとしたのに、なんだか世にも奇妙な呻き声が漏れ出てしまったことに私はひどく驚いた。男の子も驚いているようだった。
「お前、喋れないのか。白痴か?」
「ち、が。しゃべ……る」
「俺の言葉の意味は、分かるか?」
私はコクンと頷いた。
「そうか。白痴呼ばわりしてすまなかった。鬼をみたのははじめてなんだ」
「い、よ」
律儀に頭を下げる男の子に、私はにっこりと笑った。笑ったつもりだけど、恐らくその笑顔も世にも奇妙な形相になっていたと思う。
それでもどうにか意図は伝わったようで、男の子は安堵したようだった。
◆
それから男の子は私に向かって矢継ぎ早に質問を飛ばしてきた。特に私のツノにいたく興味を抱いたようで、「それはなんなのか?」と何度も何度も執拗に訊ねてきた。
特に隠すようなことでもないので、私としても答えてあげるのはやぶさかでもないんだけども、私が口を開いても「ぅ」とか「ぁ」とか奇怪な音が発せられるばかりで、とても言葉を紡ぐことは出来そうにない。
それでも男の子は辛抱強く私の言葉を聞いて(聞くというか解読?みたいな?)くれたので、どうにか『私は人を食べたことはない。安心して欲しい』と伝えると、彼は複雑な顔をした。もしかすると、鬼に食べられるという心配すらしていなかったのかもしれない。それからしばらくすると、筆談をすればいいことに気がついた。筆談をするようになってからは私の方も男の子に質問をするようになり、そこから分かったのはこの男の子が秘密基地を探して村はずれのこの廃墟に辿り着いたらしい、ということだった。秘密基地が一体どんなものなのか分からなかったので男の子に訊ねてみたが、男の子も詳しくは知らないようで「とにかく秘密の場所だよ」と答えた。なるほど、たしかにこの辺りは秘密の場所にはうってつけだ。
やがて陽がくれて外が暗くなった頃に、男の子は「もう帰らなきゃ」と言った。
男の子の顔からは迷っている気配が感じられた。
私はとっさに、男の子の裾を掴んだ。
はっ、とした息遣いが聞こえた。
男の子はすぐに悲しそうな顔をして「ごめん……」と呟き、私の手を払い退けた。
「絶対に、明日も来るから」と付け足し、去って行く男の子の顔は本当に申し訳なさそうで、私まで罪悪感で押しつぶされそうになる。
トボトボと帰路を歩む男の子の背中を、名残惜しげに、いつまでも見つめていた私は、こう思った。
ああ、なんて美味しそうなんだろう。
◇
鬼はモノを食べなくても生きていられる。
だけど、モノを食べられないわけじゃない。
嗜好品と同じで、鬼は己の味覚を満たすためにモノを喰う。
これまで人とろくに触れ合うことのなかった私は知る由もなかったことだけど、とりわけ人間はとびきりの御馳走らしい。
モノを食べることにほとんど頓着しなかったこの私が、男の子と数時間一緒になっただけで、異様な食欲に駆られたほどだ。
できればあの場で男の子を食らってしまいたかったのだけど、あの子は人間の、とても貴重な情報源になりうる。
食用の人間はどこにでもいるけれど、鬼に友好的に接してくれる人間なんてそうおるまい。
だから生かしておくことに決めたわけだが、別れ際の名残惜しさったらなかった。
出来ることなら。
裾を掴んで、引き止めて、そのままかぶりついてやりたかった。
ああ、明日が楽しみで仕方がない。
◆
次の日、男の子はまたしても廃墟に来た。
ノコノコと、警戒もせずに。
私としては男の子に聞きたいこと・男の子で試したいことが山ほどあるのだけど、いかんせん声が出せないので、場の主導権は自然と男の子が握ることとなる。
男の子は私にやりたくもない児戯を強要した。
そのうえ他愛もない話を好き勝手にまくしたて、やることがなくなるとただぼんやりして、やがて眠りこけ、陽が落ち私が肩を叩くと、慌てて村へと帰っていった。
私は男の子のあまりの警戒心のなさに呆れ返っていたが、不思議なことに、心は弾んでいた。
男の子は、次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、やってきた。
◇
それから数ヶ月経ったあくる日のこと。
私は男の子にせがまれ、身の上話をしていた。
その頃にはもう、カタコトではあるが声を発せられるようになっていて、私はたどたどしい日本語で、母が幼い頃に病気で死んだことを伝えた。
「そうか、それは辛かったな」
男の子はいたく悲しそうな面持ちで言った。
この数ヶ月で分かったことだが、どうやらこの子は他人の痛みを自分のことのように感じてしまう性格のようだった。
これを性格が良いと表現すべきなのか、偽善的と捉えるべきなのかは、人間ではない私には分かりかねるところなのだけど、どうやら今回に限ってはまた事情が違うようで、男の子は
「実は、俺の母さんも病気でさ。もって一年なんだと」
と言った。
どうやら、自分の境遇と私の身の上話が重なったらしい。
話をよく聞くと、男の子のおっかあは避病院というものに入れられていて、病気がうつるため、男の子とはめったに会えないらしかった。
「おっかあ……と、しにわかれるのは……つら、い?」
なんとなしに、尋ねた。
よくよく考えてみるとあまりに酷な質問だったが、男の子は嫌な顔一つせずにこう答えた。
「いや、辛くないよ。死に別れても来世で会えるからな」
「らい、せ?」
「人は死んでも生まれ変わるんだよ。知らないのか?」
仏教の輪廻転生については、私も聞きかじったことくらいはあるけど、仮に神や仏がいたとしても、彼らは私のような鬼までは救ってくれやしないだろうから(むしろ罰せられそうだ)あまり触れては来なかった。
それ抜きにしても、イマドキ生まれ変わりを理由に人の死を「悲しくない」と言ってのける人間は、恐らく珍しい部類に入ると思われた。
「わたしが、しんでも、うまれ、かわれる?」
「んー、そうだな。お前は鬼だからな。難しいかもしれん」
「……そっか」
男の子は、時々デリカシーがなかった。
「代わりにオレが死んで生まれ変わったら、オレにお前が会いに来てくれよ」
「ん?」
ちょっと何言ってるのか分からない。
「鬼には寿命がないんだろ? じゃ、生まれ変わったオレにお前が会いに来れば来世でもまた会えるだろ。その頃には、お前ももっと流暢に話せるようになってるかもな!」
随分と気の長い話をする男の子に、私は呆れてクスクスと笑った。
男の子は、キョトンとしている。
その仕草もまたおかしくって、私はしばらくの間笑い続けた。
たしかに鬼に寿命はないけれど、おっかあのように病気で死んでしまうことはある。
さらに鬼は人間にとって迫害の対象だ。
見つかれば、殺されてしまうだろう。
来世どころか。
私には、男の子よりも長生き出来る気がしなかった。
そのことを男の子に伝えると、彼は口の端をニヤリと曲げて「そう言うと思ってたんだ」といった。
そして懐から何か、丸いものを取り出して、私の頭に被せた。
「……これ、は、なに?」
「ヘアバンド。最近では、カチューシャって呼ぶのが流行ってるらしい。ようは西洋の被りもんだよ。やるよ」
「なんで、これを、わたしに?」
「頭のツノを隠せるだろ? ツノが見えなきゃ、お前なんてただの女子供にしか見えないよ」
彼はニシシと笑った。
なるほど、言われてみればそうだ。
どうしていままで思いつかなかったんだろう。
このカチューシャでなくても、頭巾や布を頭に巻けばよかったのだ。
そうすれば私みたいな鬼だって、人の内に入って行くことが……。
と、そこまで考えて、私は机上の空論を打ち消した。
この程度のことを先祖の鬼たちが試していないわけがない。
それでも鬼たちは人間たちに見つけられ、追いやられ、こうして滅びようとしているのだ。
結局、鬼が人の中に入って行くのは、無理だったのだろう。
叩けば落ちる被り物に、一体どれほどの信用が置けようか——。
塞ぎこむ私を見兼ねたのかは分からないが、ふいに男の子が私の手をとって「じゃ、行こうぜ」といった。
一体どこに行くのかと尋ねると男の子はかえって不思議そうに
「決まってるだろ、村にだ」
といった。
私は必死になって抵抗したが、男の子に説得され、ほだされ、結局男の子の村についていくことにした。
もう死んだら死んだでそれで構わない、といった心境だった。
男の子の村の人たちはとてもいい人ばかりで、身元も分からない私のことを快く受け入れてくれた。
私はその日から、男の子の村で暮らすようになった。
◇
村での生活は幸せそのものだった。
幸せというものを実感するのは、産まれてはじめてだった。
やがて私は、暇つぶしに物思いに吹けることがなくなったことに気がついた。
周りに常に話相手がいて、飽きがこないからだ。
男の子と話している時は、特に楽しい。
穏やかな時間が、一月、二月……と流れていく。
ことが起こったのは、半年後のことだった。
◆
村に私が鬼だという噂が広がった。
誰が言い出したのかは分からない。
私は片時だってツノを晒したことはなかったのに、一体どうしてバレてしまったんだろう。
村人たちは「気にするな」と慰めてくれたけれど、視線は決まってカチューシャに向けられていた。
中には「頭をみせてくれ」としつこく要求してくる村人もいたが、頭の火傷を隠すためのものだと説明して切り抜けた。
限界を感じた私は、男の子と一緒に村を出ることに決めた。
村を出る当日、「挨拶」と称して村の面々がわたしに一言ずつ別れを告げて来た。
表面上は別れを惜しんでいたけれど、誰もが安堵した表情をしていた。
別れの挨拶が、半分ほど済んだ時だった。
背後から、誰かに頭を叩かれた。
カチューシャがぽとりと落ちる。
剥き出しになったツノは、私が鬼であることを、これでもかと主張していた。
村人たちは形相を変え、手当たり次第にモノを投げつけて来た。
「鬼は村から出ていけ」と誰もが口にした。
昨日まで親切だった人たちが、人が変わったように私を責める。
すると男の子が私をかばうように背中から抱きついて「行こうっ」と叫んだ。
私と男の子は村から逃げ出した。
◇
古巣である廃墟の外にたどり着くと、私は力尽きたようにペタリと座りこんだ。
半年ぶりに帰ってきた故郷は、いやに不気味で、寂しく感じられた。
「まさに鬼は外、だな」
頭上から、男の子の声が聞こえた。
その声はとても彼のものとは思えないほど冷淡だった。
驚いて顔をあげると、彼の顔からは表情が消えていて、眼は虫のように感情がない。
いつの間にか。
彼は鎌を手にしていた。
その鎌を一体誰に向ける気なのかはもはや明白だった。
——彼は私を殺すつもりだ
「……どうして?」
「どうしたの?」ではなく「どうして?」と尋ねられたのは、きっと薄々分かっていたからだ。
そもそも、私を村に住まわせたのは彼である。
それに私が鬼であることを知っているのは彼しかいないのだから、彼が噂を流したとしか考えられない。
加えて、私は”背後”から殴られカチューシャを落としたわけだけど、彼もまた”背後”から私をかばうように覆いかぶさってきた。
これはもう、彼が私のカチューシャを叩き落としたと考えるしかない。
全ては彼が仕組んだこと。
でも、なぜこんなことをするのかが分からない。
「鬼は外、福は内。だよ」
ちょっと余計に分からなくなった。
「鬼のツノはさ。薬になるって言われてるんだ。それも万病に効く薬、なんだとさ。
だから鬼は外、福は内っていうのはな。『ツノだけ置いてさっさと出ていけ』って意味らしいんだよ」
「……」
あー、なるほどなるほど。
行方不明だった「福は内」の福さんはちゃんと私の頭に乗っかっていたってわけか。
とはいえ、ツノだけ置いていけといわれても、残念ながら私のツノは決して着脱式じゃないわけで、じゃあどうしたらいいのかって問われてもそんなこと皆目検討も
「だから今からこの鎌で、お前のツノを斬り落とすけど。べつに構わねえよな?」
分かってる。
分かってる。
そんなことわざわざ言われなくても。
本当はちゃんと分かってる。
彼には不治の病に蝕まれているおっかさんが居て、優しい彼はどうにかおっかさんを助けたくって、不治の病に効くものを探して探して探し回って、どうにかして鬼の私を見つけて、私のツノは不治の病にも効くかもしれないから今こうして私のツノを切り落とそうとしていて、それはいかにも彼がやりそうなことなのに──でも、やっぱり納得できない。
「……なら、どうして。わたしにやさしくしたの?」
「馬鹿だなお前。そうした方が薬の効き目がよくなるからに決まってるだろ」
意味が、分からなかった。
男の子はニヤリと笑ってまくし立てた。
「『鬼は外、福は内』っていうのはさ。ようは内にいる鬼に物を投げつけてツノを奪いとる様を表してるわけだろ?
つまり一度はわざわざ鬼を内に招き入れてるわけだ。ツノを奪うだけならそんな面倒なことしなくていいってことくらい分かるよな?
なんでそんな面倒なことをするかっつーと、鬼が悲しみに暮れている間が一番、質のいいツノを採取できるからなんだわ。
孤独で寂しい鬼がやっとこそ人様と仲良くなれたところで、その人様にツノ引っこ抜かれるんだぜ? 悲しいんだろうなぁ。絶望するだろうし、怒りもするだろうよ。なあ実際のところどうなんだ? お前イマ、どんな気持ちでここにいるワケ?」
「……」
私は、何も言い返せなかった。
男の子の告白にショックを受けたから、ではない。
今の気持ちを男の子に告げるのが、憚られたからだ。
──美味しそう。
今の私の胸中を占めているのは
ただ、それだけだった。
実のところ。
男の子と仲良くなれば仲良くなるほど、男の子が美味しそうに見えて仕方がなくなっていった。
この頃はそれが特に顕著で、自分を律するのに苦労していた。
反面、男の子や村の人たちと仲良くなるにつれて、自分という堅固な防壁が築かれていくような感覚があった。
その防壁は、食欲なんかよりもずっと強くって、だからこれから先も、この人たちとならきっと大丈夫って信じていた、のに──。
それが今、完全に、壊れた。
押し留めていたナニカが、濁流のように流れこんでくるのを感じる。
目眩がする。
吐きそうだ。
それは決して悪い気分なんかじゃなくて。
酩酊と静穏とが綯交ぜになったような、満ちたりた感覚だった。
なるほど。
人は鬼のツノの薬効を強くするために鬼を内に招きいれるわけだけど。
鬼は人をより美味しく喰らうために人の内に入っていくわけか。
なんだ。
それじゃあ結局、鬼も人もおんなじだ。
外の敵よりも内の味方を喰らいたがる、最低の──。
そこで私の意識はプツリと途切れた。
◆
気がつくと、男の子は姿を消していた。
残っているのは血溜まりと、血肉のこびりついて彼の服、あとは使われた形跡のない鎌だけだった。
骨すら残っていない。
私は、恐る恐る口元を拭った。
ベッチャリとした粘性の何かが糸を引いた。
口の中に意識を向けると、まだネチャネチャとした何かが残っていて、それがまたえも言えぬほど美味しいと感じたと瞬間に私は口の中に手を突っ込んだ。
喉をかき回して、胃の中のものを吐き出す。
けれど口の中から出てくるのはさらさらとした液体だけで、彼の残りカスすら見つけられなかった。
私は何か、言葉になっていない何かを叫んで。
泣いて。
疲れて。
フラフラになりながら、廃屋の中に戻っていった。
すぐに倒れこみたかったけど、廃屋のど真ん中に不自然な置き手紙が放置されていたから、読んだ。
手紙は彼からのものだった。
まずは私に対する謝罪がつらつらと綴られていた。
ツノを目当てに近づいたこと。私を騙したこと。私を追い詰めるために村へ強引に誘ったこと。私に酷いことをいうであろうこと。
手紙の中の彼は、その全てを一つ一つ、丁寧に、謝ってきた。
読んでいるうちにまた吐き気がこみ上げて来て、手紙を閉じようとしたのだけど、その時、ある一文が目に飛び込んできた。
『俺を食べさせるように仕向けて、ごめん』
一瞬、時が止まったようだった。
手紙には、「人を喰らったことがある」鬼のツノ以外は薬として使えないと記されていた。
私は、彼と出逢うまで人を喰らったことはなかった。
そしてこれからも、喰らうつもりなどなかったのだ。
これでは薬としては使えない。
だから彼は、私に自分自身を喰らわせるように仕向けた。
彼らしからぬ、挑発的な言い回しは、そのためだったのだ。
私は、まんまとそれに乗せられて、彼を喰らった。
「うっ──ぐ」
私は、はじめてあったときの、別れ際の彼の顔を思い出していた。
心底申し訳なさそうな、泣き出しそうな、あの顔。
もし彼が最初からこうなる風に仕組んでいたのなら。
彼は一体どんな胸中で、毎日私のもとに通っていたのだろう。
本当は、ずっとあんな顔したかったのではないだろうか。
手紙には、彼のおっかさんの隔離されている避院の場所とその病室が記されていて。
『申し訳ないが自分でツノを切り落とし、すり潰した上で母に飲ませて欲しい』と書かれていた。
実に勝手な話だと思う。
ツノは、鬼の誇りだ。
切り落とせば、命にだって関わる。
そう簡単に切り落とせるのなら、そもそも苦労はしないのだ。
そんなことを考えながら、私は立ち上がって外に出た。
その日は満月で、曇一つなく、やけに風が気持ちよかった。
私は再度血溜まりのもとに歩いていって、鎌を手にとった。
さっきから目から涙がぽろぽろと溢れおちて、視界が朧げだ。
ひどい顔をしているに違いない。
これから先、どんな出来事に出くわしたとしても、今ほど「悲しい」思いは出来ないと断言出来る。
だから私は、鎌を大きく振りかぶって、一思いに自分のツノを切り落とした。
◇
◆
◇
◆
最寄り駅から電車を三本乗り継ぎ、徒歩で三十分、真夏の日差しに炙られたところで、俺はようやくその神社に辿りついた。
そこは全国的にも有名な神社だというが、それにしてはアクセスが悪い。
風情を味わうにはかえってアリなのかもしれないけれど、お賽銭がスマホ決済に対応していたりと、境内だけはやけにデジタル化しているのだからちぐはぐだ。
「俺は課題をこなせればどうでもいいんだけどね」
中学三年の夏休み。
ふつうの学校なら受験に考慮した宿題を出すのが常だと思う。
しかし俺の学校は何をとち狂ったのか、休み明けのディスカッションの資料集めと称して、全国津々浦々の神社や寺の取材をするようにと強要してきたのだ。
ネットを駆使すれば簡単に終わる課題じゃんかと思ってた時期は俺にもあった。
誰が、実際に神社に足を運んだ証拠として「自撮り写真」の添付を強要してくることなど予測できようか。
我が校は完全にイカれている。
そんなことをボヤきながら、俺は境内の階段を登る。
頭上には木々が生い茂っていて、少しだけ涼しげだ。
階段を登り、お目当ての賽銭にたどり着く。
事前情報の通り、スマホでタッチする部分を見つけて『なんだかなぁ』と思う。
わざわざ無駄銭を投げ入れる気にはなれなかったので、このまま自撮りして帰ろうとしたら、視界の隅に写った立て看板が無性に気になった。
看板には、男の死体とツノの折れた鬼が泣き叫ぶ絵が描かれている。
その泣き顔はいやに真に迫っていて、なんだかこちらまで悲しくなってくる。
註釈に書かれていることを要約すると『母のために鬼を殺そうとする男と、男をくらう鬼』の絵だそうだ。
「君、なかなかいい趣味してるねぇ。若いのにこんなモノに興味があるの?」
背後から声をかけられた。
驚いて振り向くと、女が一人立ってた。
齢は俺と同じくらいだろう。
妙なのは艶やかな着物を着ている点と、着物にそぐわない年季の入ったカチューシャをしている点だけだ。
場所が境内なので、着物はあながち場違いともいえないんだけども、それにしてもやけに着慣れしているようだった。
しばらく話していると、見かけに反して何の変哲もない、気さくで明るい子だと分かってきたので、俺はなんとなしに「どこの中学通ってんの?」と尋ねた。
しかし彼女は急に焦りだし、
「いやいや。初対面の男の子にそんなこと教えるわけないっていうか。いや、私としては教えられるもんなら教えてあげたいくらいなんだけど。答えたくても答えようがないっていうか。んー、ごめんだけどノーコメントってことで許して」
と、まくしたてられたので、なんだか凹んだ。
「そういえば、おっかさんは元気にしてる?」
何がそういえばなのか分からなかったが、俺は話を合わせることにした。
「母さんなら、元気だよ。……強いて言うなら、ちょっと前に結核にかかって軽く入院してたくらいで」
「えっ。それって、大丈夫なの?」
「そりゃ大丈夫だよ。イマドキ結核で死ぬやつなんかそういないし」
「……ふーん、そうなんだ。一時期は不治の病とか言われてたのに」
「まー、時代が違えばそれこそ大事だったかもしれないけどさ。当時、身を粉にして薬を開発してくれた方々には頭があがらないよ」
「うんうん。そういってもらえると、ほんとに身を粉にしちゃった私も報われるね」
「は?」
意味が分からないので、首を傾げたら女はクスクスと笑った。
何故笑われたのか分からず困惑していると、その仕草が余計に笑いを誘ったようで、腹を押さえて笑いだした。
……不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。
俺は夏休みの宿題について彼女に愚痴った。
彼女は特に自撮りの部分に興味を抱いたようで「どこで撮る? 何を撮る?」と執拗に尋ねてきた。俺は面倒くさくなったので「ここで撮る」と答えて、スマホを掲げた。
すると彼女は俺のスマホ強奪して「いぇいっ!」とすかさずツーショットを撮った。
俺は少しばかり怒ったが、「ごめんごめん」といたずらっぽく笑う彼女を見ていると、なんだかどうでもよくなった。
それから数時間、何をするでもなく、他愛もないことを話した。
知らぬまに眠っていたようで、彼女に肩を叩かれ目を覚すと、陽が落ちかけていた。
慌てて家に帰る準備を整え、彼女と一緒に境内を出ようとしたが、どうやら彼女はまだこの神社に用があるらしく、出られないとのことだった。
別れ際、俺は最後に「また会えるかな?」と尋ねると、彼女はなんだか複雑な表情をして考え込み、やがて顔をあげて
「また来世で会おうよ!」
と、言って笑った。
なんだかやっぱりおかしな子だなと、俺もまた呆れて笑い返した。
◇
家に帰ってから自撮りを見返すと。
そこには驚いた表情の俺が写っているだけで。
彼女の姿は、写っていなかった。
だけど。
気さくで、どこか不思議で、懐かしさを感じさせる彼女のことは、俺の脳裏にしっかりと焼き付いている。
いい感じになれたようです