1-1-3.迫り来る死の恐怖【御厨緑】
最終更新日:2025/2/25
「こ、これ……伊刈……? ……イっ!?」
その主であろう名前を呼びかけた瞬間、突然顔面の左側に激痛が走った。左目の上に生暖かい、粘ついたものが覆いかぶさっているのが感じられる。後頭部にも何かが圧し掛かり、前後からプレスされるように、かけていた眼鏡が顔に押し付けられて、ミシミシと不気味な音を立てる。今にもレンズが割れそうなほどの力だ。
「痛い! 痛い!! 無理っ無理無理無理無理無理無理!! やめてやめてやめてえええええええ!!」
左目の周りの肌がレンズに張り付き、押し付けられる。それでも尚、その上から力が込められ、ますます深く押し込まれる。部屋が薄暗く、夕暮れの赤みが窓から漏れる中、見づらくはあるが、右目の視界でかろうじて見える――左目を押さえつけているその生暖かいモノは、手だ。血まみれの、どす黒い手が、顔を押さえつける力を一層強めてくる。その手から生え伸びる鋭い爪は、私の目の周りに刺さり、今にも目玉をくり抜かれそうな勢いだ。
「ギイイイイ、痛い! 痛い! 痛いいいいいいいいい! いあああああああああああ! や、やめっ!」
全身を走り回る激痛を堪え、覆いかぶさり押さえつける手をなんとか引き剥がそうとするが、ビクともしない。引っかいても抓っても、私の力ではどうすることもできない。
ミシミシ……バキッ!
嫌な音を立てて、眼鏡のレンズが割れた。強化プラスチックでできた強固なレンズが、押さえつける手の圧に耐えきれず、音を立てて砕けたのだ。割れたレンズがさらに押し込まれ、目に刺さり、グチュッと生々しい音が響く。
「やあああああああああああああああ!! がっがっ……ひっぃ、ひっ」
グチュッ!
私が叫び声を上げると、私の左顔面を覆い目の部分を押し付けていたその手は、ザザッと嫌な音を立てて、スマホの画面の中に消えていった。その反動で、握り潰してしまうのではないかと思うほどの力で、左手に握りしめていたスマホが遠くへ吹っ飛ぶ。耐えようもない痛みが全身を駆け巡る。気絶してもおかしくないような激痛なのに、意識ははっきりしている。右目からは涙がだらだらと溢れ、鼻水も止まらない。激痛の走る左目からも、赤い涙――生暖かい血液が溢れ出し、顔を流れて床にポタポタと落ちていく。
嫌だ、左目が見えない。何も見えない。右目を瞑ると、世界が真っ暗になる。
「ひあっ……ひあっ……あああああああいいいいいいいいやああぁぁ!」
床にうずくまる。何が起こっているのか全くわからない。痛みを何とか堪え、顔を上げる。右目に映ったパソコンの画面を見ると、先程から映っていた化け物が手に何かを持っている。さっきまでは何も持っていなかったはずだ。透明な破片がいくつも突き刺さった小さな球体……目玉……まさか、私の……?
嘘でしょ? 返して。返してよ。それ、私の……?
何? 夢? こんな痛みが走る夢あるの? 夢なら覚めてよ……。
「ミギメモ……イラナイ……」
そう言うと、画面に映る化け物が徐々に立体感を増していく。画面から化け物が出てきているのだ。頭の先から徐々に現実の空間へと姿を現し始めている。
何、何なのこれ。ありえないんだけど……来ないで……夢なら覚めて……!!
そう呟くと、画面に映る化け物が徐々に立体感を増していく。画面から化け物が出てきているのだ。頭の先から徐々に現実の空間へと姿を現し始め、ドンッ、ドンッと机に手をついて這い出てくる。振動が走るたびに、化け物の割れた頭に詰め込まれた無数の目玉の隙間から、血がプシャッと飛び散る。
怖い。その感情が全身を包み込む。
何なの? まさか、私死ぬの?
「ほっ……ほあ……」
酷い痛みとピークを迎えた恐怖で、声が声にならない。なぜこのような目にあわないといけないのか、なぜこんなにも激痛が走っているのに気絶しないのか。頭の中がメチャクチャになる。
「ちょっと!! 緑!! どうしたの!? 何を騒いでるの!?」
お母さん……お母さんの声だ。帰宅していたのか。訳の分からない状況の中、混乱に飲み込まれた私の脳に射す一筋の光。母親の声。
お母さん!!
私の叫び声を聞いて驚いたのか、母が下の階からドタドタと慌てて駆け上がってきた。そして部屋の前に辿り着いた母は、外から部屋のドアを叩き、私に呼びかけの声をかける。
「おがあさん!! 助けて!!!! 助けてええ! ああああううう……」
何とかフラフラと足をもつれさせ、這い蹲りながらもドアに駆け寄り、必死に声を絞り出す。言葉一つ発するにも、少しの響きで頭に激痛が走る。もうこれ以上、耐えられない、耐えたくない。
「ちょっと! 何してるの緑! 助けてって言われても開かないわよ!?」
ノブを荒々しく回す音が聞こえる。ドアを勢いよく叩く音が響く。ドアが叩かれるたびに、激しく振動が伝わる。お母さんが助けに来てくれる。そう、お母さんが……。
……え? 開かない?
お母さんの言っている言葉の意味が分からなかった。一向に開かない部屋のドア。
鍵なんてないのに、なぜ開かないの? こんな時に冗談? 何で開けて助けてくれないの? 私がこんなに苦しんでいるのに!
「助げで! 助けでよおお!」
残った力を振り絞り、必死にドアノブに手をかけてドアを開けようと試みるが、開かない。本当に開かないのだ。その事実を知ったとたん、体から一気に力が抜けて、ドアにもたれかかる。
「何やってんの!? 助けてって言ってもドアが開かないじゃない! ここを開けなさい! 何かドアにつっかえしてるでしょ!? 開かないわよ! 悪戯だったらお母さん怒るわよ!?」
何!? 何で!? 私は何もしてないのに! 何で開かないの!? 鍵もついてないのに! 悪戯なわけないじゃない! こんなみっともない声を上げるために、こんな痛みを耐えているわけ……!
痛い! 痛い! ドアに触れていると、母がドアを叩く度に、その振動が全身に伝わり、頭のあちこちがズキズキと響く。
お母さんが来て一瞬薄らいだ恐怖。でも、ドアがなぜか開かないという現象を知って、再び恐怖が、痛みがこみ上げてくる。
「ああああああああ!! 痛いの!! 痛いのおお!」
痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
アアアアアアアアアあああああああああ!!!!!!!!!!
頭がおかしくなりそうだああああ!
痛みで暴れたせいで、押しつぶされて左半分壊れた眼鏡もどこかに飛んでいってしまった。周りがぼやけてしか見えない。
あいつは!?
不意に思い出し、一気に正気に戻る。そして慌てて振り返る。
そうしている間にも、画面から出てきた化け物は、折れた左足を補助するように、左手の人差し指が気持ち悪く伸びて器用に体を支えながら、ゆらりゆらりと非常にゆっくりではあるが、私に近寄ってきていた。
だが、ゆっくりと言ってもこの狭い部屋だ。すぐにでも接近されてしまう。
ぼやける視界が、その光景による恐怖を一層強いものにした。