1-1-2.その時は突然に【御厨緑】
最終更新日:2025/2/25
ちょうど一ヶ月前、私たちが校舎を出てすぐのことだった。夕暮れが迫る景色の中、いつもは部活で走り回る生徒たちが、野次馬のように一箇所を見上げ、ざわついていた。
その瞬間、耳に飛び込んできた女の叫び声――上空から響くその声は、伊刈早苗の声だった。息をのむ私たち三人は、反射的に同じ場所を見上げた。屋上の縁に、伊刈が突っ立っている。正直、あの時、嫌な予感が全身を走った。他の二人――天正寺恭子和洲崎美里も同じだっただろう。
そして、屋上から落下する人影。数秒とも言えない一瞬の出来事だったが、何が起こったかはすぐに理解できた。
辺りに響き渡る悲鳴、怒号。伊刈が地面に激突するまでの時間は本当に一瞬だった。私たちは見ていることしかできず、落下した先を見た瞬間、心臓の鼓動がドクドクと一気に早くなり、全身から血の気が引いたような感覚に襲われた。同時に、胃がひっくり返るようなすさまじい吐気を催した。頭が真っ白になり、何を見ているのかもよく分からない思考に一瞬陥る。あんな経験、初めてだった。
まさか、あんな事になるなんて微塵も思っていなかった。他の二人も同じだったようで、伊刈の無残な亡骸を見た私たちは、慌ててその場から逃げ出した。
いや、見たから逃げ出したのだろうか。死に行く伊刈に見られたから逃げ出したのだろうか……。赤く染まった伊刈の成れの果てに、恨めしげな視線を向けられたから逃げ出したのだろうか……。あの時は無我夢中だったから、今となっては分からない。でも、逃げ出した。
あの日から、伊刈が飛び降りたこの時間に気付いてしまうと、気分が悪くなる。どこかから見つめられているような視線を感じ、不安という感情が全身を包み込む。死んだはずの伊刈の気配が、薄暗い部屋に漂っているような錯覚に襲われる。それに浮かぶ、あの血まみれの光景が頭から離れない。そして、伊刈の声が耳元でこだまする。
〝一生消えない、一生償うことのできない記憶を刻み込んでやる!〟
……私たちが彼女を殺したのだろうか。
いや、違う。私は死ねとは言ってない。一言もだ。確かに傍から見たら虐めと言えるようなことはしていたかもしれないが、少なくとも私は死ねという言葉を一度も発した記憶はない。
数時間したら屋上の扉の鍵を開けてやるつもりだったって、恭子も言っていた。あの子が勝手に飛び降りたんだ……。臆病者……意気地なし……。私なら絶対に死ぬなんて選択肢は選ばない。嫌なら転校すればいいじゃないか。今の時代、フリースクールやホームスクーリングという選択肢もあるし、学校を辞めて働く道だってある。
私たちは……私は悪くない……。そう、私は悪くないんだ。じゃあ誰が悪い……。なんで、何で思い出せないの。頭がズキンと疼き、どこか冷たい霧が私の記憶を覆い隠すような感覚がする。なぜ私たちは恭子をそそのかしたのか――その答えが、どこかで消されてしまったように、考えれば考えるほど、頭がボワッと重くなる。考えるのをやめた。
ふと、スマホの通話に戻る。
『魚拓? 何それ。まぁいいわ。それよりさー、次の……』
と、恭子が軽い口調で続けるが、彼女の言葉は耳に入ってこない。何、この子。なぜ私はこの子と電話しているの? 恭子の声が、どこか遠く、冷たく響く。
自分は悪くないと自分に言い聞かせると、脳みそを黒い布で覆い隠されるような感覚と共に、嫌な汗が流れ落ちる中、平静を保つために咄嗟に視線を時計から目の前のパソコンへと戻す。目に入るのは掲示板の黒い画面。あの伊刈の自殺以来、時間に気付くと気分が悪くなるので、パソコンの時計表示を非表示にした。こっちを見ていれば、少しは安心できる。画面の黒い部分に反射し、映る自分の顔を見ながら、何度も自分は悪くないと呟く。毎日、思い出すたびに同じことを繰り返している。
だが、視線を画面に移し、そう思っていたその時だった。黒い何かが、画面を横切った。ふっと、右から左へ、まるで何かが覗き込むように。
え? 何? そう思いつつ、慌てて目をこする。ディスプレイの故障だろうか? それとも目の錯覚? 私の掛けている眼鏡の反射か何か? 今は特に何もなく、画面は普通に掲示板の黒い画面を映している。マウスを適当にぐるぐる動かしても、変わった様子はない。疲れているのだろうか。
『ねぇ、聞いてる?』
と、黙り込んだ私に、恭子が心配そうな声で話しかけてきたが、突然の出来事に返事ができない。
『ねぇってば、ちょっとみど……』
左手に持っていたスマホの音声が、突然途切れた。今まで通話が繋がっていた感じとは明らかに変わっていた。ごく僅かだが、聞き口からごく微量の不可解な電子音が聞こえてくる気がする。
「あれ? 恭子? もしもし?」
と、慌てて呼びかけるが、恭子からの返事はない。でも、通話は繋がっている感じがする。突然訪れた静寂で、孤独感に囚われる。スマホを耳から離し画面を見ても、特段変化は見られない。画面には恭子の名前と通話中ボタンが表示されている。
「もしも……ひっ!」
スマホの異変を気にしながら、パソコンのディスプレイに目を戻した時だった。バチバチッという激しい音と共に、部屋の明かりが消え、その直後にディスプレイには変なモノが映り始めた。片目をむいた血だらけの女。頭が割れ、割れた頭の中には無数の目玉が詰め込まれ、それらがこちらをジッと見つめている。その姿は、画面に手を突いて、まるでこちらを覗き込んでいるようだった。
なぜか視線が外せない。気持ちが悪い。一刻も早く視界から消し去りたい。何これ。人間じゃない。CGにしては妙にリアルだ。まるで、画面の中に人間を閉じ込めた、そんな生々しさがある。
もしかして、どこかでコンピュータウイルスに感染した? それとも、昔聞いたブラクラというやつ? いや、今の今まで掲示板以外どこも触ってないのに、急にウイルスやブラクラなんてあるはずがない。変なリンクも踏んでいない。パソコンにはワクチンソフトの最新版をちゃんと入れている。私がそんなものに引っかかるはずがない。
じゃあこれは何?
気持ちが悪いが、その映し出された顔を見ざるを得ない。ゆっくりと息をし、肩を上下させるその姿は、私をずっと見つめている。とりあえず、気持ちが悪いのでパソコンの電源を落とそうとマウスを動かすが、ポインタが見当たらない。キーボードでのシャットダウンを試みるが、それも反応しない。シャットダウンができないのだ。
「ノロウ……コロス……ノロッテコロスノ……」
「へっ!?」
思わずスマホを耳から離す。左手に持つスマホから聞こえてくる聞き覚えのある声は、くぐもって聞き取りにくいが、恭子の声じゃない。でも、どこかで聞いたことがある。この声は……。
寒気が走り、嫌な予感が全身を包む。慌ててパソコンの電源ボタンを押すが、消えない。何度押しても、画面は煌々《こうこう》と光を放ち続ける。
な、何で消えないの? そうだ、コンセントは!?
机の下に潜り込み、太い電源コードを引き抜く。さすがにこれで消えないわけがない。
どう!?さすがに消えたでしょ!
「ワタシガ……メイワクカケタクナイカラ……」
ザザッ、バチバチッ、と、耳障りな雑音と共に、変な音声がまだ聞こえる。今度はスマホからではなく、パソコンに繋げられたスピーカーからだ。
何?何なの!?
訳も分からず机の下から這い出し、再びディスプレイを確認する。消えていない。画面が消えていないのだ。気味の悪い化け物が画面に映ったままで、視線をこちらに向けている。
気味の悪い化け物……いや、見覚えがある……?
この制服、ウチの学園の制服だ。そしてこの髪型、耳に垂れ下がっている眼鏡……。そして極めつけはこの声……。。