1-1-1.グレゴルネットワーク【御厨緑】
最終更新日:2025/2/25
カチッカチッ、カタカタカタ……。
カチッカチッ、カタカタカタ……。薄暗い部屋に響くマウスのクリック音だけが、私、御厨緑の不安をさらに煽る。机に備えられたスタンド型の電灯が、冬の夕暮れの薄暗さを切り取るように、かすかな光を投げかけている。窓の外はすでに赤みを帯びた空に包まれ、電気スタンドだけでは部屋が異様に暗く感じられる。
休日だというのに、一日中パソコンに向き合っていた。気が付くと昼食も食べていない。両親は昼間から家を空けており、誰にも気付かれずに時間が過ぎていた。
「もうさー、また何かあったら面倒くさいし、サイト閉鎖しようかなって思ってるんだよねー」
と、スマホの通話越しにため息混じりに呟く。通話相手は、一年生の時のクラスメイト、天正寺恭子。霧雨学園で、私が属するグループのリーダー格だ。今は春休みで、休み明けにクラス替えがあるかもしれないが、本音を言うと、彼女とは別のクラスになりたい。春休みに入る前、伊刈早苗の自殺があってから、彼女と関わるのが怖いのだ。
『なんで? あんな事があってから最近何もしてないし、サイトで何かあるって事もないでしょ。書き込みはかなり減ってるみたいだけど……』
と、恭子が軽い口調で返す。使うだけの立場の人間は気楽だ。管理する身としては、こんなに大変だというのに。
「それはそうだけどさぁ。やっぱどっかで尻尾つかまれて、とやかくグチグチ言われんの嫌じゃん? こんな限定的なサイトだし、ちょっとPC触れる奴だったら特定なんてすぐだしさ」
と、苛立ちを隠せない。
『まぁねぇ。でも、それって無料のホームページスペースでやってんでしょ? 更新しなくても放置しとけばいいじゃん。いざとなったら、何かあったその時にページごと消せばよくね? アンタなら尻尾捕まれるなんて事ないっしょ』
と、恭子は相変わらず飄々としている。
そう、彼女の言う通り、私は学園の裏サイトを運営している。匿名性の高い、古臭い掲示板だ。最初は仲間内で遊ぶつもりだったが、なぜか広がり、利用者が増えた。パスワードもなしで、卒業生や教師までもが書き込みを始める始末だ。
SNSが主流の時代に、こんなサイトが一年足らずでここまで広まるのは不思議だが、アクセスが増えるのは管理人として嬉しい反面、どこか不安を覚えていた。
「えー、だってさー。あいつが飛んでから大変だったんだよー? 関連の書き込み消すのにさー。消しても消しても次から次に書き込みする奴いてメッチャウザかったんだから。私らの事だって書いてる奴いたの恭子も見たでしょ? ブロックにアク禁を重ねてやっと最近なくなってきたんだから。プロバイダ対応の早い所選んどいて良かったわ」
と、ため息をつく。
『プロバイダ……グレなんとか……だっけ?』
と、恭子が気のない声で尋ねる。
「そうそう、グレゴルネットワークね。何か聞いたこと無い会社だったけど、よく行く掲示板で相談したらお勧めだって教えてもらったから。ホントここにしといてよかったわ。いろんな対応してくれたし」
と、説明する。
『いろんな対応?』
と、彼女が興味なさそうに続ける。
「特定ワード入った書き込みがあったら私のスマホにメール来るようにとかしてもらったのよ。でもまぁ、そのおかげで夜中も何回か起こされたけどねー。おかげで寝不足、春休み返してよって感じー。あんた等が手伝ってくれれば楽になるんだけど、パソコン分からないとか言って何もしてくれないじゃーん」
と、半ば愚痴るように言う。
『ふーん、大変そうね。寝不足はお肌の天敵よ?』
と、恭子が軽く笑う。
「まだ若いから大丈夫よ。ってか、そう思うなら手伝ってよ」
と、苛立つ。自分たちが手伝ってくれないから寝不足になっているのに、よくもまぁ平然と言えるものだ。
『でもまぁ、そんなだったらやっぱり閉鎖した方がいいかもねー。もう新学年だしー。心機一転って事でさ。アハッ。私達もさ、大事な大事な元クラスメイトの悲しい悲しーい『出来事』に対してさー喪に服すフリでもしないと、どこかで罰が当たるかもねぇ? フフッ』
と、恭子が乾いた笑いを漏らす。彼女の声には、掲示板への関心も、早苗の自殺への後悔も感じられない。この女は一体、どんな心を持っているのだろうか――その冷酷さに、どこか背筋が寒くなる。
春休みに入る前、学年も終わりの終業式の数日前のことだ。霧雨学園の屋上から、クラスメイトの伊刈早苗が飛び降りた。彼女は、私たちグループ――特に恭子が主導するいじめの標的だった。その日の経緯と真相を知るのは、私、恭子、そしてもう一人の洲崎美里だけだ……多分。
……多分……そのはずだ。そう思い込まなければ、夜も怖くてなかなか寝付けない。
そう思い込まなければ、夜も怖くて寝付けない。春休み中、裏サイトに「私は自殺の真相を知っています。自首しないのなら全校生徒にばらします」といった書き込みが連日投稿されたからだ。でも、その「真相」は公表されず、掲示板にも詳細が残らなかった。書き込み相手が本当に知っているのか、ただの脅しなのか分からない。でも、その存在が私と美里を心底不安にさせている。恭子はどう思っているのだろうか。
私と美里は、早苗の件で深く反省している。彼女の無残な姿が頭から離れず、もう二度とあんなことはしたくない。でも、その恐怖が心を締め付ける。私たちが恭子をそそのかして始めたのが発端だ。今思えば、なぜあんなことをしていたのか思い出せない。根本を掘り下げようとすると、頭がズキンと痛み、どこか冷たい霧が私の記憶を覆い隠すような感覚がする。なぜ私たちは恭子をそそのかしたのだろう――その答えが、どこかで消されてしまったように、考えれば考えるほど、頭がボワッと重くなる。考えるのをやめた。
最終的には恭子が主犯になったが、最初にけしかけたのは私と美里だ。どうしてあんなことをしていたのだろう。考えても分からない。いじめがこんな結末を招くなんて、思いもしなかった。
でも、私も美里も、この先普通の楽しい学生生活を送りたい。同時に、この件で責任を負うのは嫌だ。今は恭子の父親が手を回してくれて、責められることはないが、同じことを続けていたら未来がどうなるか分からない。
ネット上には、こんな事件を扱い犯人を糾弾するサイトもある。実名と顔写真が晒されたら、未来永劫犯罪者扱いだ。そんなのはごめんだ。
でも、恭子は違う。自殺が起きたことにも一切悪びれない。虐めを始めた当初は時折反対していた彼女も、時が経つに連れて冷酷さが増していった。その態度に、どこか恐怖を感じることもあったが、金づるとして彼女に依存するようになった私と美里にとって、恭子は切っても切れない存在だった。
金づるとして……本当にそうだったのだろうか。私たちはなぜ恭子に近づいたのだろう。友達になりたかっただけ? ……考えると、また頭にズキッと痛みが走り、冷たい霧が私の記憶を覆い隠すような感覚がする。
話は戻るが、「真相」の書き込みについて、恭子はこう笑っていた。「もし、そいつが本当のこと書き込んだら、書き込んだ奴見つけ出して次のターゲットにすりゃいいじゃない? どうせ同じ学園の奴でしょ? 周りの奴等もそれ見たら同じ事しなくなるわよ。あんた書き込んだ奴の住所特定とかできるんでしょ?」
今の恭子にとって、楽しい学生生活とは誰かを虐めて楽しむことだ。絡み始めた頃は、暗い感じがしたけど、お金持ちのお嬢様っぽくて損はないと思って近づいた。でも、彼女が変わり果てた今では、私と美里は下っ端だ。金を餌に顎で使われている。正直、こんな人だとは思わなかった。
早苗の自殺を父親に処理させたのも、面倒が降りかかるのを嫌っただけだろう。父親に嘘を重ねて無理やり揉み消させた――彼女らしい、自己中心的なやり方だ。
「リアルの方は恭子のお父さんが何とかしてくれたみたいだけどさ、ネットってホント面倒なのよ。魚拓撮られてないのなんて奇跡よ。奇跡。奇跡としか言いようがないわ。もし撮られてたら真相を追究する書き込みとか出かねないし」
『そう言う正義漢ぶるやつって超ウザイよねぇ』
「まぁ、現状はアクセスもかなり減ってるし閉鎖が妥当かなー、と思ってる」
と、結論づける。
と言いつつ、ふと何気なく時計を見ると針は十六時五十分を指していた。嫌な時間だった。
ふと時計を見ると、針は十六時五十分を指していた。嫌な時間だ。伊刈早苗が屋上から飛び降りた時間に近い――その瞬間が、私の心に黒い傷を刻む。遠目だが見てしまった彼女の亡骸。赤い液体が辺りに飛び散り、頭が割れ、血がどす黒くコンクリートに広がっていた。足が不自然に折れ曲がり、こちらを向いていた顔――片方の目は飛び出し、もう片方の目には割れた眼鏡が突き刺さり、どす黒く濁った瞳が、私を恨めしそうに見つめているように見えた。
遠目でしか見ていないはずなのに、その生々しい姿が頭に焼き付き、どこか冷たい手が私の記憶を操っているように、詳細が鮮やかすぎるほど浮かぶ。その視線は、早苗の残滓が私に押し付けた幻影ではなかったのか――その黒い、底知れぬ視線に、私は背筋が凍る思いをしたのを今でも覚えている。感じたのは殺意――死人に私を殺せるはずもないのに、言いようもない『殺される』という冷たい恐怖が、私を夜ごと縛りつける。今まで感じたことのない、あの得体の知れない感覚。あれは……早苗の呪いではなかったのか?
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