1-13-1.日常の朝【陣野卓磨】
最終更新日:2025/3/12
朝。
朝食を終えた後、燕が食器を片付けている。歯磨きを済ませた俺も、彼女を手伝うために流し台へと向かった。
普段は祖父が朝の洗い物を担当するのだが、今日は祖父と影姫に用事があるため、「頼む」と言付けを残して先に家を出て行った。
その用事の内容は伝えられなかったものの、学校から帰宅する頃には戻っていると聞いている。おそらく、影姫の住所変更手続きか何かで、役所に出向いているのだろうと俺は感じていた。
「お兄ちゃん! その皿、まだ洗ってないよ!」
考え事をしながらぼんやりと手を動かしていたせいで、油の付いた皿をうっかり水切りカゴに入れそうになってしまう。
「あ、悪い。」
軽く謝りながら、皿を流し台に戻した。
「あーもー! 早くしないと遅刻しちゃうじゃん! お兄ちゃんが遅刻しようが知らないけど、私は嫌なんだから!」
燕は戻した皿を洗いながら、少し苛立った声でそう言って俺に手渡してきた。どうやら、予期せぬ食器の片付け当番が回ってきたことで、燕の機嫌は少しばかり悪いようだ。彼女の眉がわずかに吊り上がっているのが、その証拠だった。
「悪いって言ってるじゃーん」
気の抜けた謝罪の言葉に、燕が鋭い視線をこちらへ向ける。
その皿が最後の洗い物だったようで、流し台の作業はこれで終了した。俺の役割は、洗い終わった皿を水切りカゴに並べるだけだ。内心、「俺、必要だったか?」と自問しながら、黙々と手を動かした。
「友惟さん、待ってるんでしょ? ほら、もたもたしないでさっさと終わらせてよ! 鍵も閉めなきゃいけないんだから。」
燕が苛立ちを隠さずに俺をせかす。
友惟……いつもなら一緒に登校しているのだが、昨日は姿を見せなかった。もちろん、毎朝必ず連絡を取り合うわけではないので、たまにいない日もある。そういう時は気にせず、俺は友惟を待たずに学校へ向かう。友惟もそれを理解してくれているため、俺が先に学校に着いていようがいまいが、咎められることはない。長い付き合いの中で築き上げた信頼関係が、そうした暗黙のルールを成立させているのだ。
「いや、昨日いなかったし、今日いるかどうかも……」
もたもたと呟きながら、鞄に弁当を詰め込む。弁当は学校での時間の中で数少ない楽しみの一つだ。これを忘れるわけにはいかない。
もし忘れてしまえば、学食か購買部で昼食を調達することになるのだが、俺は人混みが苦手だ。購買部のパンが売り切れるかもしれないという不安を抱えるくらいなら、安心して弁当をゆっくり食べたいというのが本音だった。
「いるいない関係なくさっさとしろ!」
苛立ちが募ったのか、燕の口調がさらに厳しくなる。彼女の視線を感じながら、俺は必要最低限の朝の支度を終え、家を出る準備を整えた。
今日から燕も同じ方角だ。昨日は燕が先に家を出てしまったため、俺は一人で登校することになったが、これからは一緒に学校へ向かう機会が増えるだろう。なぜなら、燕が俺の通う霧雨学園の中等部に入学したからだ。
始業式も入学式も昨日終わり、新しい環境に身を置く燕が気を張っているのは理解できる。しかし、焦ったところで良いことはない。そう考えながら、俺は家を出て鍵をかけた。
門を出て外を見ると、友惟が立って待っていた。そして、その隣にはもう一人、霧雨学園の制服を着た人物がいる。今日は霙月も一緒のようだ。
「おっすー!」「おはよー!」
「うっす」「おはようございます!」
それぞれが思い思いの挨拶を交わす。
「あ、燕ちゃん、中等部に入ったんだ?おめでとー。そして宜しく!」
霙月が燕の制服に気づいたのか声を掛けた。燕はどうも昨日の影姫への態度も然り、年上の女性が好きなのか霙月とも仲がいい。もうちょっと俺にも優しくしてくれればいいのだが。
「はい、今年から霧雨学園の中等部に!驚かそうと思って今まで内緒にしてたんですけどバレちゃいましたか。園内で会うこともあるかもしれないので、霙月さんも友惟さんも宜しくお願いします!」
そして一礼。俺の妹とは思えない礼儀の良さだ。俺だったら単語一つで終わらせてしまいそうなものだ。
「そんないちいち敬語使わなくてもいいのにぃ。私と燕ちゃんの仲じゃない?」
「なんだか新しい生活が始まると思うと気が引き締まる思いでしてっ。宜しくお願いしますっ」
「おう、宜しくな。なんか揉め事あったら言ってくれ。俺がいっちょぶっ飛ばしてやっからよ」
友惟が空を切るヘナヘナのパンチを見せながら何かほざいている。殴り合いの喧嘩なんてした事も無い癖によく言うわ。
「あはは、あまりそう言うことはないと思いますけど、その時は宜しくお願いします」
燕が苦笑交じりに返事をする。まぁ、付き合いが長いから燕も友惟がさほど喧嘩が強くないと言うのは知っているだろう。そして俺達四人は少しの会話を交わすと学校へと足を向けた。