1-9-5.影姫の説明【陣野卓磨】
最終更新日:2025/3/4
新しい家族が増えるというのは、喜ばしい事ではないか。
やったね燕ちゃん! 家族が増えるよ!
家事の分担が減り、自分の時間も増える。良い事だらけではないか。それに、お兄ちゃんよりお姉ちゃんがほしかったと、昔から言っていたではないか。喜ぶべき事こそすれ、燕が不機嫌そうにしている理由は理解し難い状況であった。
そのような事を考えていると、頭の中を見透かされたように、燕が俺を睨んできた。
「さっきの事よ。汚兄ちゃんの隣で裸になって一緒に寝てたのはどういうわけ? 血縁あって姉弟だって言うのならなおさら駄目でしょ。あんなにベタベタ触りたくってさ!」
そういえばそんなこともあった。祖父がこちらの説明をきちんと言い訳し助け舟を出してくれることを願うしかなかった。
祖父の方に視線を向けると、これまた困った表情を浮かべていた。
「あれは、えーっとな。そう、風呂に入っとったんじゃ! 風呂に入っててな。着替えがなかったんじゃろう。施設も女性ばかりの施設だったからその辺の警戒心が薄かったのかも知れん! 探しているうちに、ずっと引越やら何やらの書類を書いてた事もあって疲れてたんじゃきっと。だから居間に入った時、力尽きて寝てしまったんじゃ! 卓磨は偶然その場で寝てただけ。そう、偶然。偶然とは恐ろしいものよ。時には多大なる誤解を生む事もある。分かったな燕」
物語を語るような語り口調で、祖父がこれは良い言い訳だったと言わんばかりの顔で大きく頷く。
祖父のその説明は、さすがに無理があると判断された。
「ちょっと無理あるかなぁ」
燕もぼそっと呟く。
その反応は、俺の予想通りであった。
「大丈夫です。先ほど千太郎さんが説明されたように、お風呂上りでした。体を拭く物はあったものの、着替えの準備を忘れており探していたのは事実です」
「それで?」
「卓磨さんが寝ているのを見つけて、寝ているのならば大丈夫であろうと、どんな顔かと覗き込んでいました。覗き込んでいたら、その死んだ様な頼りの無く情けない安らかな寝顔に安心し、疲れていたのかそのまま寝てしまったようです」
「そこ、そこよっ! 何でそのまま寝るのっ!」
燕の厳しいツッコミがまた入る。いい加減に勘弁してくれ。
「体力の限界を迎えるほどに疲れると、人は意識を失うように寝てしまうものなのです。いわゆる気絶という現象でしょうか。そして、彼が寝ている私の体をベタベタ触っていたと言うのは……私の記憶にはありませんが、寝ぼけての事でしょう。私は気にしていません。姉弟ですし」
そう言いつつも、俺を厳しい目つきで睨みながら淡々と語る影姫。
しかし、影姫のその発言は、俺にとって救いのフォローであると認識された。「死んだ様な頼りの無く情けない」というフレーズが気にはなったが、彼女が俺の味方である可能性が浮かび、内心安堵が広がった。
さっきは俺にだけ笑いかけてくれなかったが、影姫は俺の味方であると期待される状況であった。
「その割りに髪の毛塗れてませんでしたよね。ドライヤーの音も全然聞こえなかったし……」
燕の目がジト眼になっている。お前は何をそんなに怪しんでいるのだ。探偵でもあるまいし、素直に今ある状況をありのまま受け入れろ……ッ!
「特異体質なのです。髪から水分を補給できます。そう、植物の根のように。もしくは、撥水性が高く水を弾きます。そう、頭を振るだけで水は私の髪から飛び立っていく」
…………。
両手を左右に掲げ、虚ろな目で天井を見つめる影姫。
あまりにも無理のある回答を即答され、部屋に沈黙が訪れる。
「っそ。ま、お爺ちゃんはちょっと怪しいけど、影姫さんがそう言うなら、髪の話以外は信じるよ。嘘言ってる風には見えないし」
まだ完全に信じていると言った顔ではないが、燕のその言葉に俺と祖父は、ホッと安堵の溜息をつく。
「そりゃそうだろう、爺さんが俺達に嘘をつくわけがないじゃないか」
俺も若干のフォローを入れておく。影姫も「ありがとうございます」と軽く頭を下げている。
「アンタ達は嘘言ってる風にしか見えないのよ!」
燕が俺と祖父を交互に指差す。しかし、もう「汚物」扱いされる事もないだろう。よかった。兄の威厳が保たれる可能性が浮かび、内心ほっとした
「じゃあさっじゃあさっ、お姉ちゃんって呼んだほうがいいかなっ? 私は腹違いとかそんなの全然気にしないし、姉妹だったら『さん』付けで呼ぶのも何か堅苦しいしっ」
さっきとは打って変わって燕は目を輝かせていた。切替が早いもので、実は嬉しかったようだ。
それは当然の反応であろう。昔からお姉ちゃんがいたらとかたまに言ってたし、母さんが亡くなってからは家に女は燕しかいない。寂しさを感じていた可能性が、彼女の表情から推測された。
「私はなんと呼んで貰ってもいいですよ。呼びやすい呼び方で呼んでください」
「じゃあ、影姉って呼ぶね! あと、堅苦しい敬語もなし! しばらくは慣れないかもしれないけど、それだけは約束ね! あ、あとこの汚物にはもちろん敬語とかいらないから」
俺を指差し、酷い事を言う。お兄ちゃんは悲しいと感じ、俺も家族の一員であるとの思いが強まった。
「ええ、わかりました」
影姫のその返事を聞くと、燕は機嫌を完全に取り戻したのか笑顔になりスプーンを手に取った。
「今日は私の特製クリームシチューだから! 食べよ食べよっ! いただきまーす」
その言葉にみんな笑顔が戻り、晴れやかで暖かい雰囲気が辺りを包んだ。
美味しそうである。色とりどりの野菜と鶏肉の入ったクリームシチュー。シチューをすくい、口に運ぶ。だが、暖かい雰囲気とは裏腹に、口にしたクリームシチューは冷え切っていた……。
食卓の暖かい空気の中で、影姫の静かな存在に俺はどこか不思議な安心を感じつつ、彼女の真意が掴めない不安が胸に残った。