1-8-3.出ない言葉【桐生千登勢】
最終更新日:2025/3/4
水を持っていったマスターを見て思い出す。しまった……水を出さないといけなかったんだ。マスターが私を制止したのはそのためだったのかもしれない……。
そう思いつつ、少し気落ちしながらカウンターや他のテーブルを掃除する。あまり汚れていないので掃除しなくてもよさそうなのだが、お客さんも少ないので他にする事がない。
すると今度は烏丸さんたちの席から何やら聞こえてきた。
兵藤さんの声は高めでよく通る。加えて人の少ない店内ではその声がより響いて、聞き耳を立てなくてもよく聞こえる。学校でもそうだが、恥ずかしげもなくよくあんな大声を出せるものだ。
「以上のことからですねぇ! 私は思うのですよ!!」
小声で話しているつもりなんだろうけど、すごくよく聞こえる。さっきまでは別の事を考えていたので内容はよくわからなかったが、何やら最近この町で起きている事件について話をしているようだ。
「これは亡くなったぁ~、伊刈さんの呪いによるものなんじゃぁないのかと!!」
……!?
突然出てきた幼馴染の名前と、その後の言葉に耳を疑った。
伊刈……早苗ちゃんの……事?
呪いってどういう事よ……。今、そんな変な噂が立っているの?
早苗ちゃんの事悪く言わないで。いなくなったからってそんな事……。
早苗ちゃんの事何も知らない癖に……。
兵藤さんの一言だけで、頭の中に後悔、怒り、悲しみ、悔しさ……様々な感情が入り乱れる。早苗ちゃんを助けられなかった事、死なせてしまったこと。なぜ相談に乗ってあげられなかったのかなど、次々と溢れてくる。
そして目尻が熱くなる。我慢しようとするが、流れる涙。顔や耳が熱くなるのを感じる。他人の口から早苗ちゃんの名前を聞くだけでここまでなるのかと、自分でも驚く。それだけ後悔が大きいのだ。
誰かに見られる前に袖で涙を拭い、決心する。
言わなきゃ。私が言えた事じゃないかもしれないけど……そんな事を言わないでって……。言わなきゃ。
そう思い、涙を拭い勢いよく振り返った時だった。バチーンと激しい音が響き、陣野君がビンタされて吹き飛んでいく。
後ろを向いて早苗ちゃんの事を考えていたので、どうしてそういう状況になったかの経緯はよくわからない。だが、店内の軽い騒ぎと兵藤さんの怒号が飛び交う中、ちょっと滑稽な雰囲気に呆然としてしまった。
その後はどうしていいかわからずカウンターに引っ込んでしまった。なぜか怒り心頭だった兵藤さんを、烏丸さんと七瀬さんが宥めて、四人は支払いを終えて店を出て行った。
それから四人は、そのまま外で少し立ち話をしていた。
強面の二人もいつの間にかすでに店を後にしており、店内に客は一人もいなくなった。
心の中も、店の中も、嵐が過ぎ去ったかのように静まり返る。そんな店内を眺めつつ、しばらくぼーっとする。
早苗ちゃん……。
…………。
いけない、バイト中なんだ。仕事をしないと……。
そんな事を考えていると、雑誌を読んでいたマスターがこちらに近寄ってきた。
「今日はもうあがってもいいよ」
不意に掛けられるその言葉。マスターの顔には、深いしわを刻む優しさと、私を心配するような穏やかなが、どこか影を帯びた表情が浮かんでいた。まだ退勤時間までは少し時間がある。どうしてだろう。
「え……」
何か失敗でもしてしまっただろうか。訳もわからず戸惑いながらマスターを見ていると、マスターの口からはその理由が語られた。
「そういう気分じゃない時もあるだろう。桐生さんだってお金の為だけでここに働きたいと言ってきた訳じゃないのはワシも知っとる。大事な友達の事を悪く言われるのは悔しいし寂しい。泣きたい気持ちもよくわかる」
「見てたんですか……」
泣いているところなんて、恥ずかしい所を見られた。
「ああ、すまんがな」
「でも……私大丈夫です」
私の言葉を聞いてマスターが一つ溜息を付く。
「桐生さん、厳しい事をいうかも知れんが、喫茶店は接客業じゃ。不安定な気持ちのまま仕事をしてもまともな接客はできん。特にワシの店はなんというか……変わった客が多いからの。心を落ち着けてまた次の時に頑張ってくれればいい。今日はもうあがりなさい。この店は客も少ないしワシ一人でもいけるから」
ニコッと笑うとマスターはそう促してくれた。優しい人だ。私はマスターの言葉に心から感謝し、それに甘えて今日は帰る事にした。
明日、あの中の誰かに詳しく話を聴こう。それで、早苗ちゃんはそんな子じゃないってはっきりと言わないと……もう遅いかもしれないけど、私だけでも早苗ちゃんの味方であり続けてあげないと……。
店を出て夜道を歩いていると、背後でかすかな足音が聞こえたような気がして、早苗ちゃんの笑声が風に混じる幻聴が頭をよぎり、胸が締め付けられるような思いがした。




