1-8-1.アルバイト【桐生千登勢】
最終更新日:2025/3/4
さっきは本当に驚いた。まさか洲崎が声をかけてくるなんて、思いもよらなかった。
早苗ちゃんが死んでからは、あいつら大人しくしていたのに……。
烏丸君や蘇我さんが割って入ってくれて助かったけど……きちんとお礼も言わずに、逃げるようにあの場を離れてしまったことが、今でも少し申し訳なく胸に刺さる。
早苗ちゃんは自殺した。あの三人、天正寺と洲崎と御厨が彼女を追い詰めたのだ。
私は彼女を救えなかった。保身のために彼女から目を背けて逃げただけだ。中学の頃まではいつも一緒だったのに、まるで別の人生を歩んでしまったみたいに。
早苗ちゃんが霧雨学園の高等部に入ってから、どういう気持ちで過ごしていたのか、知りたかった。
少しでもその心に触れたい一心で、やっていた部活も辞めて、無理を言ってこの喫茶店のアルバイトとして雇ってもらった。早苗ちゃんが少しの間だけバイトしていたこの店に……。
この店のマスターや人たちも、早苗ちゃんから何か話を聞いているんじゃないかと思ったからだ。
カランカラン
店の扉を開けると、最近聞き慣れたベルの音が私を出迎える。バイトを始めてからまだ日が浅いけど、マスターや砂河さんがいつも笑顔で迎えてくれるし、気さくに話しかけてくれる。雰囲気も暖かく、素敵な店だ。
「おはようございます」
挨拶をすると、マスターが「ああ、おはよう」と顔を上げて返してくれる。優しい笑顔が心を穏やかにするけど、早苗ちゃんもこんな気分だったのかと思うと、胸に何かがこみ上げてくる。
そして店内を見回すと、珍しく騒がしい声が聞こえてきた。そちらに目をやると、さっきまで学校にいた生徒たちが座っている。その中に、今年からクラスメイトになった陣野君がいて、こちらに気づいたようだ。目を凝らしてじっと私を覗き込むその視線に、どこか気まずさを感じ、慌てて視線をそらしてバックルームに駆け込む。特に都合の悪いことはないはずなのに、じっと見られるのが耐えられなかった。
バックルームに入ると、簡素な女性用の着替えスペースで着替える。このスペースは、早苗ちゃんがバイトを始めた時にマスターが用意したものだそうで、彼女の存在がまだここに温かく残っているようで、胸が締め付けられるような気持ちになる。といっても、私服に着替えてエプロンをつけるだけだ。着替えを終えてスペースを出ると、もう一人のアルバイト店員、砂河がシャツを脱いでいた。
「ひっ」
見慣れない成人男性の上半身裸の姿に、思わず目を伏せる。チラッと見えたが、細身なのに筋肉質で締まった体つきだった。
「あっ、ごめんごめん。俺の方が着替えるの早いと思ったんだけど……」
急いで服を手に取り、着る砂河さん。
「客の四人、注文は取ったから後は頼むよ。マスターが今注文の品作ってるから。俺はちょっとここで休憩してから帰るし、何か分からないことあったら聞きに来て」
店に出るためにエプロンの紐を締める私に、笑顔で手を振ってくれる。砂河さんは椅子に腰掛け、鞄からスマホを取り出して弄り始める。
「は、はい、ありがとうございますっ」
砂河さんは、早苗ちゃんがバイトを始めた頃から既にここで働いていたらしい。シフトの都合で砂河さんと早苗ちゃんが同じ時間帯に働くことはほとんどなかったそうだが、砂河さんいわく、早苗ちゃんは要領がよく、よく動いてくれてマスターがとても評価していたと言っていた。
私も早苗ちゃんに負けないように頑張らないと、と思いながら店に通じるドアの前に立つ。
でも、早苗ちゃんはある日突然来なくなってしまったらしい。電話しても連絡が取れず、マスターたちは諦めていたそうだ。店にはまだ未払いの給料が置かれ、金庫にしまわれているとのことだ。
だけど早苗ちゃんは自殺したのだ。いくら待っても、彼女がそれを手に取りに来ることはない。マスターも新聞の隅に掲載された記事でその名前を見たとき、目を疑い、「あんな良い子がなぜ」と悲しみに暮れたそうだ。
なぜ……その理由を、私は知っている。でも、マスターたちにその真実を口にすることができない。自分も彼女のいじめを知っていて、見て見ぬふりをしていたからだ。結果として、加担していたような罪悪感が、私の心を重く縛っている。
数日前、私がバイトとして雇ってくれと飛び込みで来たのはそのためだ。早苗ちゃんの件もあり、最初はマスターも雇うのを渋っていたみたいだけど、私の必死な姿を見て、横にいた砂河さんが助け舟を出してくれた。それで採用に至った。
「あんまり気張っちゃダメだよ。接客はある程度気を抜いていかないと精神病んじゃうから。特にご年配の方は気をつけてね。無理難題をしれっと押し付けてくることあるから。ははっ。あ、でも丁寧な接客は心がけてね」
「ありがとうございます。もう、だいぶ慣れてきましたので大丈夫ですよ。では、私は店に出ますので」
「うん、無理しちゃダメだよ」
こちらを振り向かずに、軽く手を振ってスマホを弄りながら優しい言葉をかけてくれる。なぜこんなに過剰に心配してくれるのだろうか。やはり早苗ちゃんの件があって、相談に乗れなかった自分を砂河さんも悔やんでいるのかもしれない。その優しさの裏に、どこか重い影が潜んでいるようで、胸がざわつく。
私は軽く会釈すると私はその場を離れ店に出た。




