1-6-4.狂気の笑い【洲崎美里】
最終更新日:2025/3/3
「イヤアアアアアっ!?」
激しい痛みが全身を駆け抜け、力が抜ける。
手に持っていたバールのようなものがガランと音を立てて地面に転がり落ちた。
顔に手を当てると、掌が真っ赤に染まる。血だ。血が流れている。私の顔からダラダラと血が流れ出している。訳が分からない。なぜ私がこんな目に遭うのか。
「ヒィッ! ヒィッ! た、助けて……っ!」
呼吸が速くなり、鼓動が激しくなる。今起こっている状況が全く理解できず、死への恐怖だけが心の奥底から沸き上がり、溢れ出てくる。
「ミギメ、トレタ。ミギメ、トレタ。アハハハハ」
声の主……伊刈の声。私の言葉など全く耳に入れず、不気味な笑い声を上げて一人で悦に入っている。辺りに木霊するその不気味な声が、私の恐怖と不安をさらに掻き立てた。
「メダマ、メダマ、ドウスル?」
私の後ろから伸びてきた手が、私に残された左目の前に、くり抜かれた右目を掲げて見せびらかす。
自分で自分の目玉を鏡なしで目にするとは、思いもしなかった。
「だ、ダメ……返して……」
「モウ、イラナイヨネ?」
目玉を摘んだ指に力が込められているのが分かる。私の目玉越しに見えるのは、掌にある見開かれた目が、摘まれた私の目玉が潰れていく様を嬉しそうに眺めている姿であった。
大した硬さもない私の目玉は、徐々に圧迫され、その形を崩していく。
「い、いや、やめて……」
私の懇願する言葉を嘲笑うかのように、指の力が一気に強められた。
グチュッと嫌な音を立てて、目の前にあった私の目玉が潰され、破片が指の隙間から飛び散る。そして、その潰された破片が私の顔にも飛び散ってきた。
「っひいいやあ! あ……あああぁぁぁ!」
なぜこんな状況でも意識を失わないのか。なぜこんな状況で、気を失うほどの痛みに耐え続けられるのか。
ボトボトと地面に落ちる、私の目であった破片。自分の目で自分の目が潰される光景を見せられ、気が狂いそうであった。しかし、狂わせてはくれない。不思議な力が私の意識を正常に保たせている。
「アハハハハアハハハハ! クルシイ? イタイ? ワタシモイタイ?」
「お、お願い助けて。な、何でもするから……命だけは……」
「ナンデモスル? イマ、ナンデモスルッテイッタヨネー? アハハハハハハ」
その言葉と同時に、べチャッと顔の左半分に何かが覆いかぶさる感触。左手だ。奴の左手が背後から私の顔に触れているのだ。それに気づいた瞬間、今度は左目あたりに激痛が走った。
「ぎゃああああああああああああああああああ!! た、助け……げっ……!」
「ナラ、ヒトノ ワルクチ カキコンデ ヨロコンデ ミテル ソノ メ イラナイデショー? ワタシニチョウダーイ? アハハハハ」
目が見えない。見えない。
凄まじい激痛が全身を駆け巡り、今にも気絶してしまいそうであった。
それでも意識がはっきりとしている。気を失わせてはくれない。いっそ気を失って死んでしまった方が幾分か楽なのではないかと思うほどである。
状況が飲み込めない。夢なのか。これは夢なのか。だが、痛みははっきりと伝わってくる。夢ではない、現実だ。あり得ないが、これは現実なのだ。逃れられない不安と襲い来る恐怖が纏わりつく現実に、絶望だけが私に押し寄せてくる。
「ワタシカラ ニゲル アシモ イラナイヨネーエ?」
左足の脛に何かがスルスルと巻き付く感触がした。巻き付いたものが不自然な方向へ力を込めると、ゴキッという鈍い音と共に左足にさらなる痛みが走った。
耐えようのない苦痛。もはや早く死にたいとさえ思えるほどの苦痛が頭の中を駆け巡る。
「……アッ!! グッ……ぅ……」
もはや言葉すら出てこない。なぜ私がこんな目に遭っているのか。こいつが一体何者なのか、全く分からない。なぜ伊刈の声をしているのか。なぜ伊刈の姿をしているのか。
あいつが復讐のために戻ってきたとでもいうのか。あり得ない。そんなことはあり得ない。
「アハハハ、アハハハギャーハハハハッッゲヒャヒャハ! マネキンミタイ! ギャハハハハハハッ!」
「……」
「……」
そして、高笑いが聞こえなくなったと思うと、頭に重い一撃と衝撃が走った。
何か鈍器で殴られたような衝撃。同時に、今まではっきりとしていた意識が薄れていく。
「ギャハハハハハ! ウゴカネーノ! シンダノ!?」
耳に入るのは伊刈の声をし、伊刈の姿をした化け物のゲスな笑い声。
死ぬ。死ぬのか、私は。ここで、こんな知らない場所で一人で……。緑もこんな風に殺られたのだろうか……きっとそうだ。そうに違いない。次は恭子も……。
「……ブザマニコロガッテ……シネ」
全身に何かが突き刺さった。肺、心臓、胃、喉……全てが熱く、そして冷たくなっていく……。
最早、私の体は私のものではなかった。刺し貫かれた肉が熱を発し、冷えていく血が皮膚を這う感覚だけが、最後まで私の意識にこびりついている。遠くで響く笑い声が、薄れゆく耳に届くたび、なぜこんな目に遭うのかという問いが頭を掠めるが、もはや答えを求める力すら残っていない。地面に崩れ落ちた私の体は、ただの抜け殻と化しつつある。闇が視界を飲み込み、冷たい風が頬を撫でる中、私は一人、知らぬ街角で全てを失った。この痛み、この恐怖が、私をこの世に繋ぎとめる最後の鎖であった。そして、その鎖さえも、今、解けようとしている……。