1-6-3.逃げるしかない【洲崎美里】
最終更新日:2025/3/3
「ハァハァハァ……」
私は今、逃げている。何からか。何処へか。
今まで何をしていたのか。
「アッ!」
何もない地面で躓き、よろけて転倒する。地面についた手に痺れるような痛みが走り、膝からは血が滲み出てじわりと痛みが広がった。
何をしていた……そう、それからしばらく一人で歩いていたら、喫茶店の前で騒いでいる連中を見つけて、それを向かいのコンビニからぼんやり眺めていた。その後、気分を紛らわすためにカラオケでも行こうと思い、恭子を誘ったが、「塾があるから」と断られ、一人でカラオケに行ったのだ。
それから店を出てネットカフェに行き、スマートフォンで時間を潰していて……。
それから、何故私が逃げているのか。私は何から逃げているのか。
「ゼェゼェゼェ……」
日は傾き、空はオレンジ色に染まり始めていた。私は自身が所属する陸上部でもこれほど走ったことはない。もっとも、真剣に部活に参加していなかったというのもあるのだが。
振り返るが、追ってくる者は誰もいない。それどころか人っ子一人いない。必死に逃げてきたせいで、どこをどう走ったのかもよく覚えていない。周囲を見回しても、見覚えのない場所であった。
「ニゲルノ? ドコヘ? ニゲルノ?」
どこからともなく聞こえてくる声。知っている声。聞き覚えのある声。聞いているだけで吐き気を催す声。こんなに必死に逃げてきたのに、まだ聞こえてくる。
そうだ、私はこの声の主から逃げてきたのだ。ネットカフェでスマートフォンを触り、学校の裏掲示板を見ていた時、突然奇妙な声が聞こえ、それから画面いっぱいに現れた気味の悪い女の顔……あれは、あれはあいつであった。
「ワタシハ ニゲレナカッタノニ アナタハ ニゲルノォ~?」
また聞こえてきたその声に恐怖を感じ、立ち上がって再び走り出そうとするも、思うように足が動かない。筋力が限界を迎えた足は感覚が薄れ、膝がガクガクと震え始めていた。
歩くのもままならず、立つのがやっとである。
「ノロイッテシンジル? ノロイッテホントウニ、アルンダヨ? アハハハハ」
脳に響くような不気味な笑い声が、すぐ近くから聞こえてきた。しかし、周囲を見回しても誰もいない。前も後ろも右も左も下も上も、どこにも誰もいない。だが、声は聞こえてくる。
「ク、クソが! どこで見てやがんだよ! おちょくってねーで姿を見せやがれ!」
威勢よく叫んだつもりであったが、疲労と恐怖で情けない声が漏れ出るだけだった。それでも、人影一つ見えない静まり返った街中に、私の声が響き渡るだけである。
「デ、デルヨ。イイノ? シヌヨ? シヌノ?」
その言葉と共に、自身の懐あたりに違和感を感じる。
見ると、制服のポケットがモゾモゾと動いていた。そして、徐々に何かが這い出てくる。
うねうねと雨の翌日に日に照らされたミミズのよう に蠢きながらポケットから這い出てくるその先端には、鋭利な突起物が生えている。
まるで人の指のようであった。長く伸びた人の指が私のポケットから這い出てくるのだ。
「ヒ、ヒィ!」
得体の知れないものへの恐怖から、慌てて制服の上着を脱ぎ捨て、地面に叩きつける。同時に聞こえた破壊音。おそらくポケットに入れていたスマートフォンが割れたのだろう。
しかし、モゾモゾとする動きが止まることはなく、徐々にポケットからその姿を現し始めた。
小さなポケットの口から、生気のない肌色をした手が出てきた。鋭い爪の生えた触手のような指、手。それが這うようにして外へと姿を現していく。
逃げようにも足が思うように動かず、腰が抜けて地面にへたり込んでしまった。
「で、出てくんな! ききき消えろっ!」
「オチョクッテナイデスガタアラワセヨー。デテクンナーキエロー。ドッチィー? シヌノ? ソレトモ、シニタイノ?」
慌てて何か手探りで武器になりそうなものを探す。
すると、手に冷たい感触が触れた。鉄パイプか何かか、金属の冷たい感触が掌に感じられた。
これだと思い、それを拾い握り締め、前に構える。それは先が折れ曲がった金属の棒で、バールのようなものであった。なぜこんな場所に転がっていたのかは分からないが、不幸中の幸いである。
「伊刈、てめぇ! お、大人しく死んでろや!」
両手に力を込めて、地面に落ちている自分の制服へと振り下ろす。
ガキィンと派手な音を立てて命中するが、モゾモゾと蠢く手の動きは止まらない。
命中はしたものの、手に当たったわけではなかった。聞こえてきたのは何かが壊れた音。
……そうだ、私のスマートフォンだ。スマートフォンに命中して割れた音だろう。手が震えて目標がずれてしまったのだ。
しかし、少しすると、モゾモゾと蠢いていた手がスルスルとポケットの中に引っ込み、声もしなくなった。
「や、やった……?」
助かったと思う安堵のひと時も束の間、肩に何か重いものが乗せられ、生暖かい息が私の頬に吹きかけられた。
「ヤ、ヤッタ。ヤッタヤッタ。ヤッタヨー。アハハハハハ」
肩に乗せられた頭から発せられたその言葉と共に、私の右目に激しい痛みが走り、視界が奪われた。
 




