1-0-1.冬の日の屋上にて【伊刈早苗】
最終更新日:2025/2/25
……ごめんなさい……お父さん、お母さん、許して……。
冷たい風がビュウと吹き抜ける。まるで私の決意を嘲笑うかのような、鋭い向かい風が、皮膚を切り裂くような寒さで私を縛りつける。しかし、私はその風に抗おうとしている。もう、そうする以外に道はないのだから。
冬の夕暮れで、その風は鋭く、私の肌に突き刺さるような寒さを運ぶ。後戻りはできない――私は決意したから……もう、迷いはない。
校舎の階段を昇り詰めた先にあった、南京錠で厳重に閉ざされた扉。その錆びついた金属が、ギシギシと不気味な音を立て、まるで私を拒むように軋む。でも、私はこの南京錠の鍵を持っていない――天正寺恭子、御厨緑、洲崎美里の三人によって、屋上に閉じ込められたのだ。冷たいコンクリートの床に座り込み、逃げられない現実が、私を圧倒する。
屋上は立入禁止で、鍵がかかり、柵もない。冷たい灰色のコンクリートが、腰の高さほどの段差を成すだけだ。その高さは、誰でも容易に乗り越えられる――でも、私にはもう選択肢がない。この学園の立入禁止の屋上は、まるで私をここへ閉じ込め、絶望に追い込むための場所のように思えた。
向かい風に逆らうように、冷たいコンクリートの段差から見下ろす景色は、私に今すぐそこへ身を委ねよと誘うかのように感じられた。
段差に震える手をかけ、這い上がる。その上に立つと、校舎の下を見下ろすと、その高さが足をすくませ、心臓がドクドクと暴れだす。
薄暗くなり始めた空の下、柵のない高所から見下ろす景色は、こんなにも恐ろしいものだったのかと、ここに来て初めて気づく。今、背後から少しでも背中を押されれば、なすすべもなく、私は下に見える地面へと落下してしまうだろう。
下には、部活の練習で動き回る生徒たちがグラウンドに見える。グラウンド脇の明かりに照らされて走る者、トレーニングに励む者、部活中に楽しそうに笑い合う者。私には経験できなかった、楽しい学園生活を、彼らは今、生き生きと過ごしているのだ。
下のグラウンドから聞こえる喧騒に耳を澄ます。楽しげな声ほど、私の心を締め付ける。私はもう、この耳障りな喧噪、鬱陶しい音を聞く必要がなくなるのだ。下にいる人々は、自分のことだけを見つめているのだろう。
ここにいる私の姿に気づく者など、ただの一人もいない。
たとえ、彼ら・彼女らがこの聳え立つ校舎を見上げたとしても、今は三月の夕暮れ時、十七時を過ぎた頃だ。薄暗くなり始めた空を背にする私の姿を視認できる生徒は少ないだろう。仮にその目で私を捉えたとしても、気に留めることなく、自分のすべきことに戻るだろう。私が見えても目を逸らす――そう、いつものように。
屋上が自由に開かれていた時代は、ここで友だち同士が楽しく会話をしたり、遊んだりしていたのだろうか。そんな時代に生まれていれば、私もここで幸せな時を過ごせたのだろうか――そんな思いが、頭をよぎる。
この時代に生まれたのは必然ではない。偶然に過ぎない。別の時代、別の世代に生まれていれば、こんな辛い思いはしなかったかもしれない――いや、しなかったと、私は信じたい。
仲の良い幼馴染や友だちと、陽光の温かな日差しの中で談笑したり、遊んだり……この学園に入学した当初は、さまざまな夢に胸をときめかせていた。でも、今の私にはそんな友だちもいない。かつて親しかった幼馴染さえ、今は……。
もう何ヶ月も一人ぼっち――学校で、クラスで、屋上で。
寄ってくるのは、頭に生ゴミでも詰まっているのではないかと思うような、薄汚い屑だけ。
私の片手に握られているのは、スマートフォンだ。画面にはヒビが入り、本体も所々に傷だらけだ。中学生の時に父親に買ってもらってから、四年もの長きにわたり大切に使ってきた。この学園への入学当初はまだ美しかった。落としたことも、ぶつけたこともない。大切に扱っていたはずなのに……今はボロボロだ。
名無しの一年生 : 見てるだけで気持ち悪くなるよねー
名無しの一年生 : 違うクラスがよかったな~
名無しの一年生 : あいつもここ見てるっしょww
クラスばれするような事書かない方がいいんじゃねww
名無しの一年生 : クラス違うけどさーあれだけされてさー
何で生きてんのかな?笑
名無しの一年生 : てか、何であいついじめられてんの?
よくわかんないんだけどwww
一年の時に、ある日突然広まった学校の裏サイトの裏掲示板。スマホのヒビの入った画面を覗くと、黒い背景に簡素な作りのホームページ。そこにある掲示板には、幾つものスレッドが立てられ、一日に何件も書き込みがなされる。そこには、さまざまな人の陰口、告げ口、噂……学園に関わる人々の負の感情が集まっている。
そんな中でも、最も盛り上がるスレッドがある――私に対する根も葉もない噂や、誹謗中傷が書かれたスレッドだ。いつ見ても掲示板のトップに躍り出るそのスレッドには、泣きたくなるほど、胸に突き刺さる辛辣な言葉が並んでいる。
いや、泣きたくなるだけではない――実際、何度も何度も泣いた。思い出しても、どれだけ涙を流したか数えきれないほどだ。
掲示板は匿名だ……匿名? いや、私にはそうではない。どの書き込みが誰によるのか、確固たる特定はできないが、おおよそどの辺りの人物が書いているのか知っている。それ以外の投稿も、私が顔を知る学校の誰かだ――クラスメイトや、近しい人たち。
見るたびに気分が悪くなり、涙が溢れてくる。見なければいいと何度も思ったが、どうしても気になってしまう――人はそうやって、負の魅力に引き寄せられるものだ。黒い光を放つスマホの画面を消す。スマホを持つ腕を下ろせば、それが錘のように肩に重くのしかかる。
仲が良かった友達とつながっていたSNSのグループも、いつしか外されていた。理由を聞こうと個別にメッセージを送っても、既読がつく者もいるが、返事は来ない。中等部の頃に知り合った子からも、いつしか外されていた。
私のスマートフォンには、もう長い間、友達からの連絡など入っていない。時折かかってくるのは、変な年配の男の声からの援助交際の電話ばかりだ――どこかで私の電話番号が晒されているのかもしれない。電話に出るのも怖い。着信音が響くたび、バイブレーションが伝わるたび、身体を震わせて耳を塞ぎたくなる。
大切な宝物だったはずなのに、今は私の生きる枷になっている。手放したくないのに手放したい――手放したいのに、いつも持ち歩いている。
私が、どうして、なぜ……。長い間、そんなことを考えても、答えは見つからなかった。嫌われるようなことは何もしていないはずなのに。
誰かが困っているのを見かけたら手を貸し、相談に乗ってきた。臭くならないように毎日お風呂に入り、歯もきちんと磨いてきた。授業中は真面目に先生の話を聞き、勉強してきた。部活は家庭の事情で入れなかったが、家のため必死にバイトを頑張ってきた――そう信じていた……。
なのに、いざ私が困った時、助けを求めても、誰も手を差し伸べてくれなかった。決して見返りを求めて手を貸していたわけではないのに、それが悲しかった――クラスメイトも、友達だった人たちも。幼稚園の頃から親しかった幼馴染でさえ、そうだった。
視線を向けられれば目を背かれ、声をかけようとすれば足早に逃げられる。担任の先生も……私の言葉を右から左に流し、全然聞いてないような空返事しか返してくれなかった。それどころか、廊下ですれ違っても、関わりたくないとでもいうように、私を見ると視線を俯き加減に逸らした。
親には心配をかけまいと、言えなかった。いつも笑顔で話しかけてくれるお父さんとお母さん――心配をかけたくなかった。お父さんもお母さんも一生懸命働いていたが、私の家は裕福とは言えなかった。お父さんが飲食店の経営に失敗し、借金があったからだ。
でも、そんな中、お父さんが「いまどきスマホ持ってないと友達と仲良くできないだろ」って言って、無理して当時の最新機種を買ってくれた。
裕福ではなかったけど、私は幸せだった――私物の少ない私にとっての宝物だった。さまざまな人とつながれる、大切な大切な宝物。
それなのに……。私は落としたことも、ぶつけたこともない――なのに、今は傷だらけだ。
再び画面に視線を落とす。ひび割れた画面の隙間から覗く黒い画面――やはり、気になってしまう。書き込みが増えている。
もう嫌だ。
明日が来るという事実が辛い。どこにもいたくない。見られたくない。視線が怖い。聞こえてくるすべての声が、目に映るすべての人が怖い。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
わたし………………
わたし…………
わたし……
憎い……。憎いの。憎くて憎くて、この気持ちが抑えられないの――腹の底から湧き上がる、黒いもやもやとした感情が抑えられないの。殺してやりたいほど憎いの――あいつらが。私をいじめているあの三人が……。それに追随する者たちが……。
でも、私はお父さんとお母さんには迷惑をかけたくないから。二人には笑顔でいてほしいから――殺人犯になって迷惑をかけるわけにはいかないから――今まで我慢してきた。卒業すれば解放されると、歯を食いしばって耐えてきた。
でも、もう我慢できない――限界だ。
憎くて憎くて、ニクムニクム、ニクムニクム、頭の中で響き続けるこの黒い怨嗟が止まらない――殺したくて、コロシタイ、コロシタイ、肉体が震えるほどに、腹の底から湧き上がる狂気で、すべてを壊したい。
心の中で、叫びが渦巻く――「天正寺恭子、御厨緑、洲崎美里……お前たちを呪ってやる! 地面に這い蹲まる屑どもが――私に呪い殺されろ!」その言葉は、喉元で止まり、口には出さない。でも、その抑えた叫びが、胸を焦がし、身体を震わせる。
冷たいコンクリートの端に足を踏み出し、夕暮れの赤みを帯びた風がビュウと唸る中、身を乗り出す準備をする。視界がグラウンドの明かりに吸い込まれるように歪み、心臓がドクドクと暴れ、喉が渇く。まだ、飛び降りる瞬間は訪れていない――でも、この屋上に閉じ込められた私が、冷たい金属の鍵を持たずにここにいるのは、あの三人のせいだ。その呪いの力さえ感じるような、冷たい絶望が、私の手を震わせる。
キャライメージ絵は【伊刈早苗】