3-15-4.屍霊になる時【陣野卓磨】
黒い影は、檻が完全に目の前から無くなったのに気がつくと、横たわりモゾモゾと這うようにゆっくりとこちらに近づいてきている。苦悶に歪む顔をこちらに向けながら。言葉にならない声を上げながら。
目玉狩りや赤いチャンチャンコのようにすばやい動きは無い物の、確実に俺を獲物として捉えている。
「こ、こいつが逃げたらどうするんですか……? 俺知りませんよ?」
「安心しろ、お前も見ただろ。扉にもこのレベルの悪霊を防げるくらいの結界は張られている。万が一こいつがお前と俺を殺したとしてもこの部屋から出る事はできねぇよ。ま、俺は死なねぇがな。万が一でも死ぬのはお前だけだ」
冷たく言い放たれるその言葉に心臓の鼓動が早くなる。
無茶だ。俺みたいな普通の高校生に何とかできるものじゃない。
徐々に近づいてくる黒いオーラを放つ相手に気持ちだけが焦る。
月紅石どころではない。
恐怖で集中なんて出来たものじゃない。理事長の時とは違う恐怖だ。本当に殺される。このままここにいたら間違いなく殺される。
それでも何とか数珠をつけた腕を持ち上げ、教わったイメージを頭に膨らませようとする為に、目を瞑り集中しようとする。
だが、いつ飛び掛ってくるかもわからない相手を目前に集中が途切れ、それどころではない。
「どうした、そのまま取り憑かれるか殺されるか? 本物の屍霊はこんなもんじゃねぇだろ。お前も見てきたんだから知ってんだろ?」
霙月が赤いチャンチャンコに襲われた時と同じだ。
影姫がいないとこんなにも不安で怖い物なのか。日和坂の言葉も耳に入ってこない。恐怖が全身を取り囲み、もう日和坂の方を見る事すらできない。コイツから視線を外したら飛び掛ってきて殺される。一歩でも変な動きをすればこいつに殺される。
殺される、殺される、殺される、殺される殺される殺される。
最早集中どころではなく、そんな恐怖しか俺の頭には残っていなかった。
しかし、俺が恐怖し動けなくなっている時だった。黒い影の様子が何処かおかしい事に気が付いた。
俺に這いずり寄って近づいてくる動作を止め、自身の頭を抱え。俺の方を見て目を見開いて、小刻みに震えながら苦しみ出したのだ。
「ウ……ウ……ウ……ウ……テ…………テン……」
声が聞こえた。今までは口がパクパクしているだけで聞こえなかった目の前の人であったモノの声が。
そして、怨霊の背中と思われる部分から、顔のような物がもう一つ浮かび上がり、既にある頭の横にグネグネと移動してきた。これは……この顔も、見た事がある。伊刈の……母親だ……。
「な、なんだ? こいつ一体じゃなかったのか?」
壁にもたれかかり様子を見ていた日和坂も、怨霊のその異変に気付き身を乗り出している。
「テ、テンショ……ウ、ウ、ウ……オオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォッッッ!!」
狭い部屋に響き渡る男とも女とも言えない声の叫び声が、ビリビリと耳に突き刺さってきた。
「うあっ!」
「ぐっ!」
俺も日和坂も、狭い部屋に響き渡るその声の凄まじさに耳をふさぐ。
だが、塞いだ手の平を貫通して呪いの言葉が耳の中へと滑り込んできているのではないかと思えるような気持ち悪さが伝わってきた。
「くっ、何だ、こんなの初めてだぞっ! やべぇな、中止だ! 檻を……!」
日和坂がレバーを上げるも、檻が落下するのが一歩遅かった。檻が横たわる怨霊の背中に直撃したかと思うと、檻に貼り巡らされていた札が青白い焔を上げて燃え尽き全て消えてしまった。
怨霊は檻が直撃したにも拘らず、何食わぬ様子でおどろしい呻き声を上げ続けている。
「な、何ぃ!? 何で札が!? 檻下ろしたら中に強制的に戻されるはず……っ……坂爪がしくじりやがったのか!? ま、まじかっ! くそっ、やるしかねぇか!?」
その日和坂の言葉からは相当の焦りが感じ取れる。
ヤバイ、日和坂がこれだけ焦っているのだから俺なんかもっとヤバイだろ。
早く逃げなければ。それしか頭になかった。なんとしてもこの状況で月紅石を発動させて戦おうなんて気持ちは微塵も起きなかった。
日和坂はそう言って戦闘態勢に入る。
何の構えかはよく分からないが、腰を落とし拳を構え、呻き声を上げながらその姿を徐々に変貌させていく相手を牽制するようにその姿を注視する。
「仕方ねぇな……あんまり使いたくないんだが……っ、緊急事態だな」
次の瞬間、日和坂の右手の拳が赤く光を放ち始た。見ると、中指にはめられた指輪についている小さな赤い石が光を放っている。そしてその光は瞬間的に強くなり俺の視界を遮った。
次に見えた日和坂の拳には、赤い鉄で出来たようなメリケンサックが嵌め込まれていた。




